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DIVE INTO THE BATHROOM

「今日も1日暑くて長かったな…疲れたぁ…」

俺は、職場の古くて殆ど効いてないエアコンをリモコンでオフにし、照明を全て消し、玄関に鍵を掛けて機械警備システムをセットしてから、駐車場へと向かう。

丸1日炎天下に晒されたマイカーのドアを開けると、一体車内は何度まで上がっていたのかという熱気が一気に解放され、俺を襲ってくる。

すぐ車内に身を滑り込ませるのは危険だ。

俺はエンジンをかけ、カーエアコンを最大に上げて、数分経ってから、運転席へと身を沈めた。

カーラジオからは、今日1日のニュースが流れている。
梅雨明けと共に熱波に襲われ、俺の住む地域も今日の最高気温は37.5℃で猛暑だったと伝えている。

夕方になっても暑さは残っていて、職場を出てからマイカーに乗り込むまでの間で、俺は再び全身汗だくになっていた。

だが、これから家へ帰るまでの約20分が、1日で一番至福の時だ。

仕事を終え、好きな音楽を聴きながら、時には1人カラオケもしたりしつつ、家へ帰る道のり。

時にはいつもと違う道を通ったりして、新たな発見をするのも、楽しみの一つだ。
裏道に美味しそうな新しいパン屋が出来ていたり、行列が出来ていて何だ?と思ったら、先頭は先日テレビで紹介されていたラーメン屋に繋がっていたりと、なかなか面白い。

だが今日はとにかく暑い。というより、熱い。

俺は自宅へ帰る最短ルートで帰宅することにした。

だが最短ルートを選ぶと、夏の夕方、西日が強烈に車を照らす道路を走るので、エアコンを最大にしていても、運転していたら汗が流れてくる。

(今日はどれだけ汗を流したんだ、俺は・・・)

俺が回した稟議書のつまらぬミスを、針小棒大に突いて嫌味を言ってくる、合議先の課長にイライラしながらも流した冷や汗、重たい荷物を女性職員の前でいい格好をしたいために無理して持った時に流した脂汗、そして帰宅時の汗。

一刻も早く家に帰り、今日1日のアレもコレも流し落としたかった。

もうすぐ家に着く、という所で、俺はコンビニに寄って、風呂上がりの楽しみをゲットする。

こんな猛暑の1日は、風呂で汗を流した後にも、1日をリセットする楽しみがなくては。

「ただいま」

「お帰り。風呂でしょ?着替え用意しておいたから入って」

「入るけど、コレ冷やしといて」

「…はいはい」

家に着くと、1日で唯一の至福の時間が終わる。
今日エンジンを切った時、最後に流れていたのは、奇しくも昔付き合ったことがある彼女との思い出が詰まった、レベッカのフレンズだった。

よくタイムマシンがあったら、いつに戻りたい?というが、俺は初めての彼女と別れそうな間際に戻って、絶対に別れちゃだめだと言いに行きたい。

そうすれば多少は、今のような素っ気ない塩対応な妻に引っ掛かるリスクも減らせたのではないだろうか。

夫婦も10年以上経つと、俺が帰って来た時の対応もたった一言で、まともに顔も見ない。
ましてや夫婦の営みなど、どこへやら。

時々俺は誰のために、嫌味な関係課の上司に頭を下げ、汗だくになっているのかと、嫌になる。

子はかすがいというが、俺達の子供がいつか自立して家を出たら、俺達夫婦は一緒にいる意味がますます薄れるだろう。

とりあえずそのまま脱衣所に入る。
おっ?替えの下着を用意してくれていたのは、珍しい。何かあったのか?

脱いだ半袖ワイシャツはビッショリだ。そのまま洗濯機に投げ込む。

次にベルトを外して、スラックスを脱ぐ。
夏仕様のスラックスで風通しも良いのだが、今日は流石に汗を吸い込んで重たい。スラックスは乾燥機行きだ。

続けて今日1日を象徴するような、汗で体に密着したアンダーシャツを脱ぐ。大手衣料品メーカーが開発した、着てても涼しい、汗も感じないというアンダーシャツが、俺の夏の定番だが、今日に限っては効き目がなかった。

今日1日でかいた汗が染み込み、一部は蒸発して塩にまでなっている。
体から引き剥がすようにして、アンダーシャツを脱ぐと、これも洗濯機へ直行だ。

パンツ1枚になった体を鏡に映すと、そこには流石に筋骨隆々とは言えないまでも、同世代の連中に比べれば引き締まった肉体の俺がいる。

たまに出勤途中に、バス停でバスを待っている、顔は明らかに俺よりも若そうなのに、腹がスラックスの上に乗っかっている、ビール腹というには生易しい力士もどきのような男を思い出す。

(何を食べたらあんな腹になるんだ?)

俺はいつもその男を見掛けると、そう思う。男としての魅力をわざと落として、人生に楽しみはあるのだろうか?

俺が悲しいのは、同年代に比べてまずまずな上半身を維持している割に、それを披露する相手がいないことだ。

妻とご無沙汰になってから、一体何年経つだろうか。
俺がもう少し、背徳の世界に踏み出す勇気があれば、違う世界を味わえるのだろうか。

そしてパンツのゴムに手を掛ける。

パンツも、相手もいないというのに、いつ勝負するタイミングが来ても良いように洒落たボクサーパンツをいつも穿いているが、試合のリングに上がることすらない。

今日も何があっても良いようなボクサーパンツを穿いていたが、試合に挑むような場面は無く、出番はなかった。
出番がないどころか、パンツまで汗で肌に貼り付いている。
俺はボクサーパンツに若干の申し訳ない気持ちを込めて、足首から抜き取り、洗濯機へと投げ込んだ。

全裸となり、やっと風呂場へと入る。

体を洗い、シャンプーしてから、バスタブに身を投じる。

この瞬間がたまらない。

改めて湯の中に沈んだ、俺の体を眺める。

疲労で静かになっていた股間が、たまにはトイレ以外で使ってくれと、存在を主張し始める。

そんな時に自分の昂ぶりを鎮めるのは、妻との数回のセックスの思い出ではなく、初めての彼女とのファーストキスで感じた、中学校時代のセクシーな瞬間だ。

大人に背伸びしたい年頃に付き合っていた俺達は、それでも一歩踏み出す勇気がお互いになくて、キスするだけが精一杯だった。

だが抱き合った時に感じた彼女の胸のふくらみ、唇の感触、背中に手を回した時に触れたブラジャーの感覚、そのまま手を下しスカートの上から触った彼女の少し大人っぽさを主張していたヒップと、僅かに指先に感じたパンティのゴムのライン、これが俺の青春の全てだった。

重ねた唇を離した時に彼女が言った。

「アタシ、初めてのキスだったの」
「俺も…」

俺はたまらなくなり、もう一度彼女を抱きしめ、キスをした。
大人のキスのようなディープな舌を絡めるキスではなく、中学生らしくただひたすら唇を重ねるだけのキスだったが、俺は大事なファーストキスを初めての彼女と交わせたことが、今でも青春時代の大切な思い出になっている。

…ダメだ、これ以上思い出したら、鎮まらなくなってしまう。

俺は目の前の現実に戻り、バスタブから身を起こすと、軽くシャワーを浴び、脱衣所へと戻った。

妻が用意した下着を身に着け、リビングへと歩を進めた。

珍しいじゃないか、俺が個人的に買っておいた、勝負用のボクサーパンツを用意してくれている。

まだバスタブで思い出した中学時代のキスの思い出の余韻が残っているのか、ボクサーパンツは何かを主張しているかのように膨らんでいるのが分かってしまうほどだ。

「今日は長かったのね。はい、冷やしといたわよ」

俺が帰り路に買ってきた、今日1日の嫌な思いを流し去るドリンクを置いてくれた。

「枝豆でいい?」

他のおつまみは用意していないと言外に匂わせながら、ドリンクの横に枝豆を置いてくれた。

瓶の蓋を栓抜きで2回、コンコンと叩く。
何故かやってしまう、父親から受け継いだ瓶ビールの栓を開けるときの儀式だ。

「たまには開けてあげようか?」

ん?さっきの着替えの下着の用意といい、妻の機嫌が今日は何故か良い。
日中、何か良いことでもあったのだろうか。
妻に瓶ビールの蓋を開けてもらい、コップに注いでもらう。

「アタシも飲みたい。いいでしょ?」

断る理由はない。妻が持ってきたコップに、俺が今度はビールを注ぐ。

「じゃあカンパーイ!」

俺は久々に、妻と杯を合わせた。

その光景は、俺が子供の頃に見ていた父親と母親の毎晩の恒例行事だった。

ただ父と母の頃は、エアコンもなく、扇風機で涼を取っていた。
そして7時からは、プロ野球のナイター中継を見る。
テレビで入るナイターは巨人戦だけだったが、父親はアンチ巨人で、いつも相手チームを応援していたものだ。

翻って現代はエアコンが当たり前のようにある反面、テレビで毎晩ナイター中継はない。

だが父と母の時代から変わっていないものが一つだけあった。

麒麟のラガービールだ。

父は生粋の麒麟派で、たまに出掛けた先の食堂で注文したビールが他社のビールだと、明らかに不服な態度になっていた。
同じビールなのにねぇと、母と俺はクスクス笑っていたものだ。

そんな俺が父を見送った後、ほぼ毎晩飲んでいるのは、不思議なことに麒麟のラガービールだ。

今年は父の7回忌だ。
盆の墓参りには、久しぶりに麒麟のラガービールを持って行って、乾杯してみようか。

父の夢だった、俺とナイターを見ながら乾杯することは、残念ながら叶わなかったが、今は目の前に生涯を共にしようと誓った相手がいて、今日は久しぶりに一緒に杯を重ねている。

「ねえねえ、今日いいことがあったの」

やっぱりか。だから機嫌がいいんだ。一体何があったんだ?

「通販で注文してたおニューの下着セットが届いたの。通販で下着買うのは初めてだったけど、サイズもぴったりだったし、安いのにしっかりした縫製だし、気に入っちゃった」

珍しいこともあるものだ。
下着は手に取って選ばないと失敗するから、通販では買わないと言っていたのに。
妻はそういうと、今日届いたという下着セットを俺の前に持ってきた。

「どう?あなた好みだといいんだけど」

俺は中学校の時の初めての彼女の呪縛に縛られているためか、女性版勝負下着のような、派手な下着は好きではなく、どちらかと言うと清楚な女性用下着が好みだった。そのことは結婚したばかりの頃に妻に伝えていた。

妻が披露した新しい下着セットは、ブラジャーもパンティも、白を基調とした下地に、薄く花の模様が描かれている、割とお洒落な下着だった。

「う、うん。俺はこんなのが好きだけど、よく覚えてたね」

「アタシも女だもの…。貴方の体が恋しい時もあるのよ。ねえ、今夜辺り、久しぶりにどう?」

だから脱衣所に、俺の勝負パンツを置いておいたのか。

よし、今夜は俺の前ではいつもラブラブだった父と母を思い出して、何年かぶりに妻と一戦交えてみるか。

ただその時、俺の脳内に思い出されるのは、妻には申し訳ないが、中学の時の彼女かもしれないけど。

#また乾杯しよう

小説風に、フィクションとノンフィクションを混ぜて書いてみました(*ノωノ)
どこが境界線かは、皆様のご想像におまかせします(^_^;)

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