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匿名性が引き起こす攻撃助長の心理

昨今SNSによる誹謗中傷のニュースを頻繁に目にする。インターネットの持つ多大な可能性の裏には常にその危険性が潜んでいることは、これまでにも十分すぎるほど周知の事実だ。「誰が悪いのか」「言葉の暴力」「どう責任を取らせるか」などと議論は尽きない。しかし、「何が」その暴力行為を引き起こすのかを語ることはあまりない。

「何がそうさせたか」ーそこには、誰もが持つ一般的な人の心理が関係している。人は誰でも苦しい時があって、心の中に闇を抱える事がある。誰でも嫌な自分を持っているのに、そんな自分を誰にも知られたくない。誰かに気がついて欲しくても、誰にも救いを求められない人もいる。だから、知らない他人に不満を向けたらどうか。スッキリするし、自分も誰も傷つかないのではないか。自分の言葉が強いほど、過激なほど、また誇張されるほど広く共鳴を呼び、社会から認められた気持ちになる。・・・匿名性の高いSNSは、まるで責任を放棄した人の感情処理場のようなものだ。

人の中にある「成長本能(生の本能)」と「破壊本能(死の本能)」

心理学の父と呼ばれたジグムント・フロイトは、人には2つの対立する本能があると言っている。一つは人を成長し生き延びさせる「生の本能」、もう一つは人を自己破壊に向かせる「死の本能」だ。後者は、そう呼ばれながらも、人が死にたいと思うような断定的な意味ではない。

「死の本能」は安定や安心から離れて破壊的な作用を持つエネルギーのことだ。実際に、このエネルギーは大きな力を持っていて、絶えず私たちの心の中で生じている。時には、誰かに対して不快を感じたり、怒りを感じたりすることは誰にもあるが、大抵の場合はこの「破壊」に向かうエネルギーは社会的に容認される形で放出されていく。

例えば、私たちはひどくイライラし怒りを感じた時、思いっきり走る、体を動かすことなどで気持ちを落ち着けるなどする。これが社会的に容認される形のエネルギーの放出の仕方だと知っているし、怒りに任せて誰かに暴力を振るうなどはしない。他人の所有物にむやみに当たって壊すこともしない。理不尽な扱いを受けてそれに対して怒りを感じた時でも、その相手に言葉でその怒りを伝えたり、率直な話し合いをするのも容認された怒りの放出の仕方だ。

また、そのエネルギーを別の対象に向けて小さくするようなやり方もある。誰かに怒りの原因の話をして、その想いを共有してもらったりする。カウンセリングもその一つだ。そんな形でエネルギーを小さくし自分で扱えるようにしたりすることもある。また絵を描く、花を愛でる、気晴らしにドライブに行き気持ちを切り替えるなどして別の対象にそのエネルギーを注ぎ、その成果を満足と置き換えていくという方法もある。これらは「カタルシス(浄化)効果」と呼ばれる。

社会的に容認されない怒りの解消法は自己破壊に向かう

しかしながら、中にはそのエネルギーを社会的に容認されない方法で放出する人もいる。これが他人への攻撃や暴力だ。

一般的に攻撃性の高い人は、破壊的な怒りのエネルギーを急激にまた大量に作り出す傾向にある。そのエネルギーがあまりに強く、適切に容認される形では放出することができないこともある。負のエネルギーは自分では引き受けられないほど強くなって行き、自己の破壊(自己攻撃性)または他人への破壊(反社会性)へと向かっていく。

カッカして自分でイライラしてしまうのは実際悪いことではない。他人に攻撃性を向けずに、一人何か別のものに当たる、誰も傷つけないなら、むしろ理性が働いている。自分で制御しようとするその努力は、いずれ周囲の理解を呼ぶものだ。

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フラストレーションのはけ口としての危険な攻撃

「生と死の本能」説とは少し異なるのが、Dolland, Doob,Millarなどのイエール大学の心理学グループが提唱した「攻撃はフラストレーションの蓄積が引き起こしたものである」という説明だ。だがフラストレーションは攻撃性を確かに誘発するが、誰でも攻撃的な行動に出るという訳ではないということが重要だ。むしろ、攻撃行動はフラストレーションが「蓄積された時」に引き起こしやすいのだ。普段攻撃性を見せない人はここが注意を要するところだ。

実際に生活の中でのフラストレーションは蓄積されやすい。自分や関係者の中に「こんな小さなこと」という認識や罪悪感があったり、自分は「世間の常識にあっていないのでは」という小さな疑問があると外に吐き出す機会を失いがちだ。結果、心の底に自分や他人に対しての不信感が募っていく。

フラストレーションの対象の置き換え

私たちがフラストレーションを感じた時まず最初に向かう怒りの矛先は、その怒りを生んだ直接的原因だ。最近ではよく聞いた話だが、例を挙げるなら、在宅ワークの中で家事をしてくれない夫。同じ在宅ワークなのに家事を分担してくれない夫に次第に腹が立ってくる。しかし、本人にそれとなく言っても、響かない。「家事は君の仕事だろう、僕は君たちを養っているんだから」と返す夫もいるようだ。また学校が休校が長引き、制御の利かない子供たちに「勉強しなさい」「いい加減にゲームをやめなさい」「静かにして」と言い続けることにほとほと疲れ、延長の決定に絶望を感じたりする。とにかく学校再開を可能にしない政府の方針や学校に腹が立って拳を握ってしまう、などはわかりやすく誰にでも経験があるものだ。

でも実際のところ、その不満は言っても伝わらない夫や、声の届かない政府や学校に直接的に伝えることができずに、そのフラストレーションの矛先を本来の原因以外の別の標的に向けていくのだ。例えば、別の小さな弱い立場の家族(子供など)かもしれないし、家族外別の誰かに、かもしれない。ここでも大抵は、無関係な対象者に怒りを向けてしまった自己嫌悪に苦しみ、深く反省することで終わるものだ。

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 怒りの蓄積が大きいと、さらに突き進んでしまうこともある。フラストレーションの対象は完全に別物に置き換えられても、その強さは本来の怒りの原因に向けられたものと同等な強度と勢いを保っている。いわゆる手頃なスケープゴートを見つけた、ということだろう。実際、当人の怒りの原因とは無関係だ。でも気に入らない。そんな犠牲者を見つけると理性が利かない怒りの所有者は、場合によっては関係のない仲間を増やしたりしながら、その対象をフラストレーションのはけ口として格好の餌食としていく。同調効果である

人は自分と似た意見を持つ人に惹かれる傾向にあるため、怒りを溜め込んだ集団意識はどんどんと高まる。会ったこともない擬似仲間とだ。こうして自分のフラストレーションを解消する目的が表面的に達成されるとともに、仲間と共有した一体感(安心感)も得られるのだが、罪悪感があればまだいい。ネットというバーチャルな世界でありながら、こうして実体感を生み出していき、実生活で現実感を帯びた内集団の木津なが出来上がる。

顔を出して対峙するなら罪悪感もあるだろうが、匿名の攻撃は終わりを感じさせる必要がない。そもそも怒りの原因は攻撃対象とは別にあるのだから、フラストレーションが完全に解消されることはなく、嫌な自分がさらに自分を不快にし、その怒りが不満を強めていく悪循環だ。

匿名性の恐ろしさ

人は時に完全にコントロールを失ったように振る舞うことがある。大量の飲酒で暴れてしまったり、大泣きをしながら誰かを罵ったりすることはあるかもしれない。しかし、「理性を完全に失い」、「我を忘れる」ほど衝動的な行動をするかというとそうでもないものだ。それこそ他人が見ているし、自分自身でも自分をモニター(監視)する制御力が働くからだ。

昨今、SNSなどで一人または少数の対象者を辛辣な言葉で攻撃するというニュースを頻繁に聞く。芸能人が政治的な発言をすると、SNS上の匿名でのコメントで「知性」や「立場」を挙げて相手があえて傷つく言葉を発したりするものだ。書かれた当人にしてみたら、全く知らない、顔も見えない人に、人格的な否定や存在価値まで問う発言をされ不愉快極まりないことだと思う。「私の何を一体知っているというの」と聞きたくなるだろう。でも職業上の避けられない負担と言われれば、歯を食いしばって不快感を喉の奥に無理に流し込む。彼らはそれに反応することで結果として自分に帰ってくる恥や罪悪感を恐れ、それらを相手にしないだけの理性が残っているからだ。

問題なのは、顔も見せずに他人に攻撃性を向ける人のことだ。匿名性は全く面識もない人に、自分の顔こそも見せずに誰かを言葉で貶めることへの恥辱や恐怖を持つことなく、卑劣な行動を後押しする。匿名という形で、自分自身の行動を抑制(モニター)する理性を完全に失っているのだ。米心理学者シンバルドーによると、これらの行動は利己的で、敵意的、権力追求的で破壊的な反社会的行動を特色として持つと説明している。

匿名性が引き起こす非人間的行動の実験

ジンバルドーが行なった実験の中に、これを象徴するものがある。彼は一つの実験室に複数の女子大生を集め、彼らを二つのグループに分けた。一つのグループには体をすべて隠す袋のようなダブダブのコートと、顔を完全におおうフードを着てもらい、状況的に匿名性の高いの状態を作り出した。真っ暗な部屋で、彼女たちは名前で呼ばれることもなく、そのフードやコートの下の容姿の特徴も確認できない装いをした(匿名性の強調)。もう一つのグループは、彼らの容姿の特徴が明らかに誰にも見えるようにした(透明性の強調)。ふたつのグループは、選出された(サクラの)犠牲者に、渡されたボタン機器でショックを与える任務を与えられ、その二つのグループ間の結果の行動の違いを比較された。結果、非匿名性(透明性)のグループは遠慮がちに、犠牲者の受け答えによってショックの強弱を軽減したり回数を減少するという選択をしたのに対して、匿名性(完全にコートとフードで体を覆った)のグループは、非匿名(透明性)のグループよりずっと多くの強いショックを犠牲者に与え、徐々にその回数は加速していった彼らはその犠牲者が会話の中で良い人であるかどうかという印象に関係なくショックを与え続けたのだ。

現代のSNSの広い普及は、これまで遠い存在だった芸能人や著名な人たちとの距離感をぐんと縮めた。また普段あまり話さないような人たちとのコミュニケーションも可能にした。しかし一方で、その「匿名性」という条件は、不要に無関係な人たちに対する過激な行動を可能にしてしまった。結果、本来は、自身の個人的な問題であったフラストレーションを躊躇も罪悪感もなく他人に向け、強化し、自らの解消感、満足感を得るという状況を作り出している。

問題はあなたの中にある:気がつかないうちに自分の問題と他人の問題を混同させてしまう

SNSが匿名であっても、それぞれが倫理的また理性的な使い方をすることでその活用範囲は広がり、より大きな理想の実現を可能にしていくはずだ。しかしながら、人間は誰でもそれほど強い生き物ではないということを、使用する自身も忘れてはならない。相手が著名な人の前に立つ存在でも、彼らが怒りのサンドバックになっていい理由にはならない。自分の問題に、無関係な他者を巻き込んではいけないことは明確な事実だからだ。

コメント欄に脅迫じみた相手の尊厳までも否定するようなコメントを書き込む人は、その人自体が問題を抱えている。人の情緒に配慮できないほどフラストレーションを抱えて心が病みかけているのだ。何らかの心の問題に苦しんでいるに違いないと思う。いずれ社会的規制ができて、発信源を特定し、罰を与えることができるようになるだろう。しかし同時に、何らかの形で苦しむ彼らの心の支援にも注力を向けていって欲しい。何をやっても、どこに向けても救われない怒りを一人で抱えたままでは、やがて行き着く先は死の本能への目覚めだ。なんらかの形で、自分か、他人の誰かを気がすむまで破壊しなければ、その闇の終焉はないのだ。私たちは今、そんな社会に生きている。罰で終わるのではなく支援の道を示す、そうでなければ誰も幸せになることはないと思う。

個の尊重、個の主張とは、個を埋没させて行うものではない

多様性という言葉がある。それぞれの違いを尊重し、個々の意見を自由に主張できる多様な社会が求められている。間違ってはいけないのは、匿名性で自分の主張をすることは、決して個の主張ではないということだ。この状態を心理学では「没個人化」といい、個の主張とは真逆の立場にあると考える。

人が個人の意見を自由に言える世の中というのは、明確にその意見を誰が言っていて、どうしてそのように考えるのか背後にある論理を示す、そんな世界だ。他人と異なる意見を持っていても、それが正しいか正しくないかを安直に論じるのではなく、そう考える理由を共有することができる、それが多様性だ。

言いたいことがあるのなら、きちんと顔と名前を出して、そう考える理由を話してみよう。だから本当のコミュニケーションには、少しだけ「責任」と「勇気」がいるのかもしれない。でもその人個人が見えるなら、その言葉の背後にある本当の意味が(本当の意味がある場合には)きちんと伝わるだろう。一方で、自分は隠れて身を屈めて、反論や否定だけを投げつけ、なぜそう思うかの説明もできないなら、それは意見として捉えることは許されない。「なぜそう思うのか」、相手が納得できる説明をまず組み立ててから、名乗って自分の主張を述べればいい。

Global Wellbeing 淵上美恵   http://www.globlwellbeing.nl

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