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父が伝えようとしたことの片鱗を感じて

《こちらはトップ固定です》

少し大袈裟なことを書いてみたい。


父がわたしに何度も伝えようとしていたことがある。
それは『悠久の時間』の中にある『自我』と『無常』だ。

頭では理解してきた。けれど感覚に落とし込むことがなかなかできないでいた。怖くて。

(物質世界に)生きる以上、泣いたり笑ったりしながら好奇心を満たして、泥臭くても人間臭く生きろよ。そしていよいよとなった時は『無常』を思い出し大きな自然の中に身をゆだねてみろ。高いところから見てみろ。

誤解を招くといけないので付け加えると、父は決して偉大な人でもなければさほど善人でもなかった。特定の宗教やスピリチュアルに心酔していたわけでもない。時々びっくりするような視点で物を見る、高級グルメとドヤ街の定食を両方愛した人だった。

歳を経て、時々『悠久の時間』を意識するようになったわたしは、それを詩に書いた。あまりにも小さな自我は、その無常である道の中でどうなるんだと、そこは思いながら。

それから少しした頃、頭の中に浮かんだひとつのイメージ。それを言葉に変換しながらも完全に納得できるものではなく、投稿までに何か月もかかってしまった。
出してもいいのかな?わたしはちゃんと理解してこれを書いたのかな?と思いながら。

そして今年に入り苦しくてどうにもいたたまれない気持ちになった夜、暗い部屋で布団に転がった時、じわじわと言葉が浮かんできた。
これについては『人生は壮大な遊び場』という投稿でも触れたが、本当に泣きながらその浮かんできた言葉にわたしは包まれた。
安心の涙だった。これが『安堵』というものなのかも知れない、とそう感じるくらいに。

小さな頃のわたしの名前を呼んで、大丈夫だよと繰り返し何度も抱きしめてきた。その今の自分が安堵に包まれた。

わたしの中で父の言う『悠久の時間の中にある自我と無常』に近づくような気持ちで書いたふたつの対になる詩。
『生まれそして還る』読む人によっては嫌悪感を抱くかも知れない作品だと思う。

そしてこれを出して以降、悠凜さんに漢字一文字をつけていただいた個人サイト「生」のカテゴリーに属する詩を、わたしは書かなくなった。いや、書けなくなった。今はそれでいいと思っている。
それ以降は妄想を詩に変換するのが楽しくて、きっと舵が変わったのかとも思う。

かなり大袈裟な、大層なことだと自分でも間違いなくそう思う。
けれどもこの文章をnoteのトップに固定するつもりで今、書いている。

マイページの背景に、永遠 最終章を越えて と新たに入れた。
わたしの感じる「悠久の時間の中に存在する自我の一点の灯火」そんな意味を込めて。
いやいや、お前はまだ何にもわかってないよ、と父は思っているかも知れないけれど。


《海原より来りて》  

《不断》

命日に寄せて、この麓に眠る父へ。


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吉田翠 自己紹介


#詩  #エッセイ #note


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