家に帰る(O街・実家)

   ***

「あのねー、デュフフ、えっとぉ、藍くぅん」
「気色悪いわ」
 本音である。
「今日ね、お父さんとお母さん、帰ってこないんだ……」
「知ってるわ。事前に聞いたわそれ」
 そもそもお父さんはここに住んでねーだろ。
「だっ、だからね! 藍くん、今日はお泊まり、していかない?」
「最初からそのつもりだわ」
 仮にダメなら俺は宿無しだよ。
「今夜はお楽しみで」
「楽しめないし楽しまない!」

   ***

 と、家に帰るやいなや朱里から謎のあるあるシチュ攻撃(?)を受けた俺は、ついでに旅の疲労とか心中のイライラとかも一気に倍増して心底疲れ果てた。帰ってきて早々ここまで俺を再起不能にするとは、朱里のやつもやるようになったな。いや感心とかしてない。そういう話じゃない。
 玄関先に倒れこんだ俺をさらっと素通りし、「お風呂沸かしてくるー」と言いながら足早に駆けていく朱里。もうちょいフォローとかしてけよお前。目の前で家族が倒れてんだぞ。しかも八割はお前のせいで。
「ねー、藍くん」
 そんな俺の頭の中の文句が届くはずもない。能天気に話しかけてくる朱里の方に顔を向けると、朱里は風呂場の入口から顔をひょこっと出していた。
「なんだー?」
「こほん。あーてすてす……えへっ☆ おかえり、藍くん! 今日もお仕事おつかれさま!」
「あ、うん……」唐突に絡みづらくなった。
「あつめにする? ぬるめにする? それとも……み・ず・ぶ・ろ?」
「38度ォ!」
「合点だい!」
 返事だけは気前のいい奴だなと俺は果てしなく呆れた。ていうか水風呂て。暑いのは暑いけどそれはもう八月とかの最終手段だろ……。
 いやていうか、なんでさっきからあるあるシチュ攻撃(?)ばっかしてくんだあいつ。意味わからんぞ、いつも以上に。テンション上がってんのか?

   ***

 料理も家事も部屋の掃除も、何もかもを朱里が率先してやってくれたおかげで、俺は完全にお客さん状態でくつろいでしまっていた。しかし実のところここは俺の実家(と呼んでいいと思いたい場所)だ。少しくらいは朱里の役に立ちたかったのだが、意外にも朱里の方がそれを許さなかった。
「藍くんは何もしなくていいから! わたしが全部ひとりでやる! おっけー!?」
 包丁突きつけられながら意気揚々とそんなことを言われたら、さすがの俺も屈するほかない。料理中に話しかけるべきじゃねーなというのが今回の教訓だ。
 俺は朱里が入れてくれた風呂に肩まで浸かりながら、ここ数週間の朱里との旅のことを思い出していた。
 旅、と言うにはどれもが幼稚っぽく、大したことのない散歩程度にしか思われないのだろうが、俺ら二人にとっては紛れもなく旅だった。朱里はどうか知らないけれど、少なくとも俺はそう思っている。
 朱里と二人でどこか遠くに出かけるなんて、ここに住んでいた頃にはついぞやったことがなかった。
 当時の俺たちは今よりもっと子供だったし、遠くへ行くよりは近所の公園にでも行って遊ぶか、いっそ家でゲームでもしてた方が楽しかった。
 あの頃はいつも一緒だった。いつも、というのは少々言い過ぎではあるが、少なくとも家にいる間はそれが普通だったし、当然だとも思っていた。俺と朱里はそういう関係だった。旅をしているあいだも、それはあまり変わっていない。
 気がつけば、隣に朱里がいる。
 それは本来ならとても凄いことで、けれど俺には日常だった。
「あーいくん。湯加減どう?」
 脱衣所からドア越しに朱里が話しかけてきた。シルエットの色々さから察するに、どうやら洗濯機を回すついでらしい。
「ああ、十分だぞ。申し分ない」
「そっかー。そんならよかったわー」
 いつも以上に軽い口調で返事をする朱里。自宅にいるせいなのか、緊張がほどけているようにも見える。
 なんとなく、そんな朱里をからかってみたくなった。
「なあ、朱里」
「なーにー?」
「一緒に入るか。風呂」
 どさどさどさ。朱里の手から洗濯物が転がり落ちる音がした。
「い、いっしょに、って……」
 声が震えている。そりゃそうだ、まさかいきなりこんなことを言われるとは思っていなかっただろう。俺はなおさら面白くなり、さらに追い打ちをかけることにした。
「なんだ、見られるのが恥ずかしいのか? 別にいいだろ家族なんだし。昔だってよく入ってたじゃんか」
「…………」
「まあ朱里が嫌だって言うなら別にいいけどな。あーバスタブの空き加減が気になるなー、あとひとりくらいギリギリ入れそうだなー、うーん」
「…………」
 完全に黙り込んでしまった。まずい、ちょっと調子に乗りすぎたか? ていうか、家族相手とはいえ普通にセクハラだよな。ヤバい。とりあえず撤回しないと。
「あーっと、朱里? すまん、今のは冗談で……」
「――きま」
「え?」
「その隙間っ、わたしが真心こめて埋めさせていただきまぁああすッ!」
「うおあああああ!?」
 朱里はそう叫ぶと同時に、思いっきり風呂場のドアを開けた! 突然現れた朱里の熱い視線に晒される俺! 湯船に浸かった俺を鼻息荒く見つめながら、朱里は服の裾に手をかけ――
「待て待てアウトだアウト! やめろ朱里! 冗談だってば!」
「えっ!? 冗談なの!? そんなまさか! そういうノリなの!?」
「そういうノリだよ! たしかに俺が元凶だけどちょっとくらいは察してくれてもいいだろ朱里さんよ! あとドア閉めて! 恥ずかしい!」
「なんで恥ずかしいの!? 家族でしょ!?」
「あっやめてその俺の発言から引用してくる感じ! 反論のしようがないからやめて! あとドア閉めて!!」
 ぶー、と不満そうな表情と声を出しながら朱里はドアを閉めた。ぴしゃっ、と小気味いい音が鳴る。「あ、今の良い音だったねー」と言いつつ朱里がまたドアを開けようとしたので洗面器を投げつけて阻止した。ぐへへへ、と笑いつつ開けかけのドアを閉める朱里。お前はヘヴンスマイルか。
「ちぇー。久々に兄妹水入らずだなーって思ったのに……」
 ドアを背にして脱衣所に座り込んだ朱里は、なぜか落ち込んだ声をしていた。
「……お前、そんなに俺と風呂入りたかったの?」
「もち」
「もちじゃない」
「はい」
 背中を向けたまま、朱里はぽつぽつと話しはじめる。
「さっきさ。昔はよく一緒に入ってたって言ったじゃん」
「そうだな」
「わたしね、全然覚えてないんだ。たぶんすごい小っちゃい頃のことだからだと思うんだけど」
「ああ……」
 小さい頃の記憶がない。俺にも多少、心当たりはあった。
「悲しいじゃない? すごい近くにいるはずの誰かと、記憶を共有できてないって。なんていうか、寂しくてさ。だからまあ、新しく作るっていうのももしかしたらありかなって、ちょっとだけ思ったんだ」
「なるほど。言いたいことはわからんでもない」
「まあ、さすがに今そんなことしたらいろいろまずいってわかってるけど」
「そこはちゃんとわかってくれてて助かるわ……」
 さっきの必死さからして、嘘っていう可能性も少々あるが。
「ね、藍くん」
「なんだ?」
「あのね、……」
 ほんの少し、辺りが静かになった。
「……いや、やっぱりなんでもない」
「なんだよ、気になるな」
「いいよまた今度で。せっかくの実家なんだから、今日はゆっくりしないとね」
「ふぅん……」
 朱里が強がっているのはなんとなく察したが、特に言及はしなかった。
「お風呂上がったら適当にくつろいでて。わたしが出たらご飯ね!」
「おう、わかった。蓋は?」
「あー、いいや開けっ放しで。どうせすぐ入るし」
「了解」
 脱衣所から朱里が出て行く音。俺はもう十分くらい、ゆっくりと風呂に浸からせてもらうことにした。

   ***

「今夜はお楽しみで」
「だから楽しまねぇよ」何を楽しめってんだよ。
 時刻はまだ十時を少し過ぎたくらいだが、俺と朱里はすでにベッドの上で寝ていた。純粋に私生活が忙しかったため、二人とも早めに寝た方が都合が良いだろうという話に落ち着いたのだった。
 それはいいんだが、なんで俺は朱里と同じベッドで寝てんだ。
「んふふ~。藍くんが今日の抱きまくら~」
「暑いからほどほどにな。ていうかお前、いつも抱きまくらで寝てんのか?」
「そうだよー! 昨日はあの子、今日は藍くん、明日はどの子にしようかしら……ふっふっふっふ」
「なんか怖いわ」誘拐とかしてないだろうな。
「まあまあいいじゃんそんなこたぁ。今は兄妹水入らずを楽しもうじゃない?」
「それは別にいいんだが……あんまりくっつくなよ、暑いっての」
「あ、あててんのよ」
「え、あててんの?」
「あーーー!!」
「いってぇいたたたたた力入れすぎ!! やめて!! 折れる! どっか脇腹とかそのへんが折れる!」
 俺の住所不定な骨命乞い(?)が功を奏したのか、朱里はすぐに力を緩めてくれた。まったく危ない奴だ。せっかくの実家だってのにてんで休めやしない。
「なあ、もういい加減寝ようぜ? 日曜の朝は最高の時間なんだぞ」
「ニチアサ的な意味で!?」
「あっ、俺見てないから……」
「あ、そっか……」
 予想以上に落ち込まれた。好きなんだろうか、ニチアサ。
 とりあえず朱里も早めに寝るということには賛同してくれたらしく、俺にしがみつく力を軽く強めてからは特に何も話さなくなった。静かな部屋の中で、俺と朱里の寝息だけが聞こえる。
 実家だな、といまさら思った。あの頃のO街、そのままの空気。
 俺も朱里も、あの頃に戻ってきたような気がした。
「……ねぇ、お兄ちゃん?」
「なんだ、妹」
 寝ぼけ声のまま会話を続ける。
「明日も、明後日も、これからずーっと……こんな風に、過ごせたらいいなぁー……」
 すぴー、という音が聞こえてきて、どうやら完全に眠ったらしいことがわかった。俺は体にしがみついている朱里の手に自分の手を重ねて、ゆっくりと目を閉じ、眠りを呼んだ。
 もうすぐ俺らの未来が決まる。その音は、聞きたい奴には聞こえない。


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