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一頁目

入りやすいお店があるように
書き始めやすいノート
というものがあるのかもしれない

このノートは数年前の母の日に
プレゼントしてくれたもので
いつになったら
一頁目を始められるのか
ずっと使われないままなのか
忘れたわけではなく 
存在だけはちゃんとわかっているのになかなか始められないでいる
そろそろ書けるんじゃない?って思うような自分の中にあるアイデアがイメージとして形になって来た

最近朝起きると胃の張満感と
鈍い痛みで不快なので
久しぶりにAmazonで
YOGI TEA シリーズのストマックイーズを注文したらすぐに届いた
いつも時間がかかり忘れた頃に届くのになんということか
もう飲めている
変な味だけど何よりもこれが効く
そしてティーバッグについてるタグにはこのようなメッセージが書かれていてギョッとする

これはどういうこと?

-未知のものは全ての成果が可能な場所であり、それは優雅に書き始められる-

あらまピッタリのお告げ

書き始めは楽しいけど継続するのは難しい

でも書けるってことは実現可能な事だろうしどんなにも書くことができる

書いていくうちに自分が最初にイメージしたものではなくなってくる可能性すら含んでおり
言い換えればそこは終わり新たなまた形の違うものに発展していく可能性も含んでいる

とにかく始める事だね

ともう1人の自分が囁いている
ビクビクせずに全てをやってくるものに委ねて
自分の好きなことを書き始めれば良いんじゃないの

ノートの中のことは二次元だけど
それがやがて三次元のものに変わっていく楽しみは
やっぱり
-夢-
って呼んで良いんじゃないのかしら
と思う
夢を見る
夢見るように生きる

昔私の母が
小学四年生の時の文集に
親も一言づつ書く欄があって
そこにはめちゃめちゃ達筆で
-夢見る女-
と書いて出されており
本当に顔が真っ赤になる程恥ずかしかった思い出がある

自分のことを書いてどうすんだっ!
誰もそんな自分が心に持っている格言を書いてるような人はなくどのお母様方も子供へあてた素直な親としてのメッセージだったから恥ずかしかったし、子供ながらに
この人はどこまでも自分なんだ
と呆れたというか私のことを考えていない自我主張の強さに腹が立ったのを覚えている

果たしてあれは
母自身のことだったのかもしれないが
そういう生き方をしている自分の姿を私に示すことで
何かしら言いたかったのかもしれないとも思う

-女-という字の下にふりがなで-ひと-わざわざ書いてあり
せめて普通に
夢見る人と書いて欲しかったと
あの時も今も思う

何かと私から見ると変わった人だった
どうしてそんなことを思うんだろう
言うんだろうするんだろう
したいんだろうと
謎の連続だったから親子関係は
ずっと良好ではなかった私たちだ

あの母に比べたら
私なんて
本当に普通で常識的でまともな人間だと思う
あの人に比べたら私なんて
葉っぱの上でジトっといつまでもへばりついて動かない殻を持ったカタツムリだ

母ほど頭も良くないし綺麗でもないしできることも少ないけど

ノートの1ページ目は
-夢見る人-
と書いてみようかな
一頁目らしく
まずは夢見ることから始めたい

母の夢ではなく
私の夢



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