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子供の頃の私は誰?

みんなそうなのかもしれないけれど
例えはまだ若い頃の自分の映像
写真や日記
そんなものを見ていると
この人誰だろう
って思ってしまうほど同じ自分だとは信じ難く
昔親しくしていて会わなくなってしまった旧友に
同じ時間を経て何十年ぶりにふと出くわした時の驚いた感覚と似ているかもしれない
よく知っているけど、知らない、、、みたいな。

記憶の中の自分は今の自分とはまったく別物でもないにしても、あの頃私周りの人にとっての今の私は何の関係もなく全く用のない存在なのだから、もしかしたら今の自分にとってもそうなのかも知れない。

では今の自分にとっての昔の自分というのはどうだろう。やはりまったく意味のない物なのか。

私は子供の頃、本をよく読んでいる子どもだった。
文字を知ることは言葉を理解するということで、
並んだ言葉の奥にある、それらが文章に変換される前の情景や事象、またそれらの中にいてそれを見つめている人間の感情をイメージできるということなので、
本を読むことで自由自在に、いろんな時代のいろんな国の色んな人間達の生きる世界に飛んでゆく事ができた。だから一つの言葉に紐づいて連鎖的に呼び起こされる場所のイメージや感情は、本の中で体験したそれである事が多い。
それだけでも、本を読まなかった人よりも体験の数や種類は多いだろうと思うのに、私の子供時代から今現在に至るまで、何 覚えているだけでも17、8回引っ越しているのだ。そのうちの九年間はアメリカに二度。そしてこれからも何度かはあるだろう。
その度に入れ替わる環境と関わる人々。
その中で、変わらず関わりがある一番の親友は、もはや自分自身しかいないのではないかと思うくらいだ。
振り返ると色んなシーンが思い返されもはや愛おしいという感情さえ湧いてくる。
何かにつかまったり、弾みをつけたりしながらも、よいしょよいしょと一歩一歩ここまで登ってこれたのは
多くのお世話になった人々のおかげでもあるが、
自分がこの目で見たい物があったからなのではないかとも思える。目指すものが何があるわけではない。
優しい雨も柔らかな風も温かな光も白い雪も揺らめく水も澄んだ空気も自分と同じ存在だと気づくまで50年掛かったということなのだろう。
一番大切なのは笑顔でいられる自分なのだ。
そうして、御魂が元の神様のもとへ帰霊していく日が与えられる日までは、色んなことを心ゆくまで感じていよう。私の感じたいように。私という自分を持つことを許されこの世に生を受けている瞬間を愛おしみ、
生きていこうと思います。







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