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所沢

 先月初旬のまだ二度目の緊急事態宣言の最中に打ち合わせを兼ねて所沢の居酒屋に寄った。正確には最寄りは新所沢駅で、午後違う場所で音楽的な話をしてから線路沿いのテンテケという店に案内された。私の住む街からは割と近いが、この駅の近くで飲むことは然程ではなく知らない店も多い。ここも初めての店で、道すがら駅東口のほぼ線路沿いに案外飲み屋が多いことも初めて知った次第だ。まだ16時頃だったが店内はそこそこ席が埋まっている。幸い3人で広めのテーブルに案内されたので、我々は密ではなかったが、カウンターを陣取る常連らしき人々はそれなりに連なってはいた。居酒屋で食べる焼き鳥は久しぶりで、ああ、なんて美味いのだ、とビールやホッピーが進む。もちろん美味しい店なのだが、何かが特別というわけではない。夕方、一仕事終えた後の憩いに、ただ普通に美味い焼き鳥、焼きとんと少しの酒、それを酒場で味わうことの日常からすっかり遠のいてしまっているので、この普通の幸せが本当に沁みる。そしてそれは2021年4月末現在、もっと厳しい状況になってしまって、つい先日も夕方に営業している居酒屋で店員さんに申し訳なさそうに、酒類の提供は出来ないのです、と告げられたばかりで、いや、あなたの所為では無いですよ、と店先でそこを後にしたのだが、なんとも遣る瀬無い。

 話はテンテケに戻る。ここは安くて美味くて活気のある普通の酒場だが、壁にレコードが飾られている。カウンターの上には、パワー・ステーション、ジェフ・ベック・グループ、イエス、キング・クリムゾン、レッド・ツェッペリンが並ぶが、店内に音楽は流れておらず、これらのレコードに反応するお客さんの雰囲気は無い。どうやら店主がかつてバンドマンだった事に由来するらしいが、そのチョイスは渋いとは言えずなんだか微笑ましく、妙に店に調和していると言えなくも無い、とも思えてくる。そして追加の焼きとんとホッピーで話は弾みアイデアも具体性が増すが、そろそろ看板の時間も近い。程なくまだ完全に日が暮れていない空の下この店を後にした。この日のことは、今まさに始まったばかりの録音なので、詳細はまたいずれ記すことにしよう。

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 久しぶりに所沢で飲んだな、と帰りしなの西武線で思いを巡らせた。所沢の酒場といえば、復活した百味や昨今では町中華呼ばれる栄華。そしてライヴハウスでもあるが、よく行くのはやはりMOJO。特にここはロンサム・ストリングスやホープ&マッカラーズで何度も出演させてもらっているし、カルメン・マキ、栗コーダー・カルテットでもかなり世話になっている。つい先日もスーマーが来るので寄ったばかりだ。とにかく居心地が良く、終演後の酒も進むし食事も美味い。演奏していても窓から外を走る車が時折目に入るその夜の風景が実はとても好きなのだ。それから店主の工藤さんはなにかと私の活動に興味を持ってくれて時折企画にも誘ってくれる。所沢市の空飛ぶ音楽祭もその一つで2020年はロンサム・ストリングスで出演予定だったが、コロナ禍で中止。そして、思い出すのが2017年の空飛ぶ音楽祭である。

 この音楽祭は毎年開かれるわけではない。中止になった2020年の前が2017年だったのだ。この時、私はジンタらムータでの出演で、早めに到着し楽屋に入ったら、久しぶりだな、と既にビール片手の鈴木常吉さんに声をかけられた。

 常吉さんは昨年の夏に亡くなった。私が最後に顔を合わせたのがその2017年だが、その時の、久しぶりだな、には何だか色々な意味を感じて、素っ気なく返したような記憶もある。
 人は必ず死ぬ。そしてその人との思い出も残っている。今でも酒の席で大原裕の悪口を言ったり、松永孝義の物言いを真似たりもする。だがこのコロナ禍で通夜も葬式も執り行われず、その後の焼香も出来ず、常吉さんやパスカルズの三木さんがこの世にいないという実感は薄いのだ。
 常さんとは実はかなり古い。最初に会ったのは、かれこれ30年以上は前のセメント・ミキサーズとの渋谷クアトロでのイベントだった。当時は初めての対バンには大体皆悪態をついていた。対バンは敵だった、と言っても過言では無いくらいだ。仲が良くなるのは稀で、それでも仲がいいバンドとのライブなんて、あまり組まなかった。なんだか道場破り的な感覚もあった。当時テレビ番組のイカ天で認知されたセメント・ミキサーズは大人気でほぼ観客はそれが目当てであっただろう夜だ。一応クアトロの計らいで終演後に軽い打ち上げがあり、そこで常さんと会ったのが初めてだったのだが、それが今考えてもかなりおかしいというか、いびつな出会いだった。お前よう、なんであんなバンドで弾いてんだ、と胸ぐらを掴まれるかの勢いで言われたのだ。常さんは背が高いのでかなり高圧的だが、もしかしたらこれは個人的には褒められているのか、とも思いつつ、うるせぇ俺の勝手だろ、と会話は終わる。そして次に会うのは1992年の浅草木馬亭だったが、既にセメントミキサーズは解散し、つれれこ社中での出演だった。(この時のライヴは前回「四条烏丸」でふれた篠田昌已企画。後のストラーダの関島・中尾ユニットと松竹谷清&ピアニカ前田デュオの3組の出演)その時にクアトロの時の話をしたら、覚えてるよ、悪気はないよ、と少し謝るような感じで言われた。でも、嘘はついてないよ、とも言われた。それから暫くしてオフ・ノートからつれれこ社中のアルバムが発売され、私はかなり愛聴した。ライヴも何度かお誘いを受け弾きに行ったこともあった。だが、アルバムはそれ一枚しか出なかった。つれれこ社中の活動が休止した頃か、家が近かった所為もあってふらりと拙宅の門を叩くことも何度かあった。だいたいが犬の散歩のついでだが、近いとはいえ里山を一つ越え湖も抜けて来ることになるから1時間はかかる。常に不意に来るので、私が不在の事もままあった。妻を相手にコーヒーを飲んで帰ったこともあったらしい。そんな頃のある日、チャイムが鳴り戸を開けると犬を連れた常さんとトロンボーン奏者の大原裕さんが立っていた。大原さんが東京に拠点を移ししばらくしてからのことだ。常さんは当時本当によく大原さんの面倒を見ていたようだが、本人の前で、こいつほんとバカで笑っちゃうよな、なんてよく言っていた。そして二人はバンドを組むことにしたらしい、たしか大吉という名前だった。で、桜井くんもやるんだよ、と無理やり誘われた。ただ、私が参加したライヴは1~2回だったと記憶するし、その二人で実際どれくらい活動していたかは知らないが、それとは別に大原さんのバンドにはよく誘われた。そして大原さんは2003年冬に急逝した。

 さらに数年経って、常さんの最初のソロアルバム『ぜいご』が発表された。これ以上ない、これだけで良い、傑作だった。またまた時折お呼びがかかるようになる。関西や九州に連れられたこともあった。とあるライヴ後の飲みの席で私が、『ぜいご』での常さんの歌いかたが好きで、ライヴでは時折やりすぎなんじゃ無いか、って感じる時も無いわけじゃ無いよ、と言ったら、桜井くんがいるとなんだかロックになるんだよ、と返された。なんだよ、俺の所為かよ、と言ったが、そのセリフはその後も何度か聞いた。そしてまた暫くして、相談したいことがあるとのことで拙宅まで酒を持ってやってきた。次作のプロデュースをお願いしたいとの旨。私は即答は出来なかった。『ぜいご』があまりに素晴らしいので、ただ録音するだけで良いでしょう、と最初は答え、ギターを弾くだけならいつでも協力します、と付け加えた。が、常さん曰く、いや俺だってもっとカラフルなものも作りたいんだよ、もうちょっと明るくて、まあちょっと間口広げたいかな、とのことで、候補曲を聴かせてもらい、プロデュースを承諾した。録音は1日につきせいぜい2曲くらいで長時間に渡ることはなかった。その代わりその夜は必ず一緒に飲んだ。他の演奏家を呼んでのダビングでもそのペースは変わらなかったが、その頃から少し私に対するダメ出しも増えた、要するに少しバラエティに富みすぎたのだ。それでいろいろ修正や録り直しを行う。このアルバム『望郷』は私のアレンジが3曲となったが、プロダクション中は6曲分くらいのアレンジを書いたはずだ。2曲は私のダビングだけでボーナスCDに収録され、あとは常さんの弾き語りと一緒に演奏するというシンプルなものに切り替えた。

『望郷』アウトテイク、ウィスキーブルース

 ただ一つ気になったことは録音終盤になって、常さんが私になんか少し遠慮のようなものを持ちはじめていたのではないかと感じたことだった。それまでの彼との会話にはそんなものは一切なかったので不思議な感覚だ。出来る前に匙を投げてしまったのかもしれない。だが私は全力を尽くした。もしかしたら、自分の表現に対しての歯がゆさとそれに反するどう取られようとも構わない、という迷いの表れだったのかもしれない、いや、そうでも思わないと私はこの仕事は終わらせられなかった。そんなことを『望郷』最終曲の「水の中の女」をミックスしている時に感じたのだった。常さんが歌う、俺や私はその時々の一人称であり、君もまたそうだ。だからその俺はしみじみだったりロックになったり、とライヴごとに姿を変える。ただこれは演じているというものではなく、彼の照れ臭い表現の表れだ。あれだけの個性を放ちながら、オリジナリティとかアイデンティティとかそういうことは一切言わなかった、あんなに悪態つきながら、とても大きかった。だがこの「水の中の女」すごく優しく風景のように世の不条理を流している。水の中で死んでいる女に対するのは鳥や草や魚、それを歌っているのが人間なのだ。

 『望郷』発売後の二年間くらいはよく一緒に演奏した。旅に同行することもあった。テレビドラマ『深夜食堂』の挿入歌で認知も増したようだ。常さん宅から歩いて5分くらいの所沢の名店たらまに観に行ったことがあったが、2~3曲一人でやったら、その後の全曲にわたって店のギターで参加したこともあった。

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 それから『深夜食堂』はかなりヒットしたのだろう、常さんの活動は日本津々浦々に及び、台湾や中国でもライヴはかなり盛況だったようだ。もうその頃は一緒に演奏することは稀になっていたが、台湾版『望郷』を送ってくれたり、Lonesome Strings and Mari Nakamura『Folkrore Session』を購入してくれていて、感想のメールをもらった。俺もシンプルにこういうことがやりたかったんだよ、と書いてあった。そしてまたちょっと暫くして、奇しくもその後の『深夜食堂』で認知が増すスーマーの1stアルバム『ミンストレル』にちょっとコーラスに参加してくれた。録りはすぐに終わり、そのあとは笑って飲んだ。その頃は時折私のライヴに訪れ、褒めたり、または批判したり、と忌憚なきは以前と変わらなかった。もちろんシングル『雨』やDVD『浮ぶ海峡』もその都度送ってくれた。『雨』は『ぜいご』の雰囲気に近いが、もしアルバムにするなら牧野琢磨くんをプロデューサーに推薦する旨を感想に加えてメールした記憶がある。

 また暫くしてだが、ちょっと諍いがあった。数年前の年末だが、拙宅で夕方から忘年会風情で何人かで飲んでいたのだが、夜になって私が常さんを呼んだのだ。正直来るとは思わなかったが、やってきた。が、すぐに同席者と喧嘩になった。常さんは酒をかけられていた。私は既にかなり酔っていてあまり覚えていないが、仲裁には入った気がする。が、妻に言わせると、割とすぐ眠りに落ちていたとのことだ。翌朝、部屋の隅に常さんが持ってきたであろうクリスマス用のケーキを発見した。気まずかったが、こちらから連絡はしなかった。今思えば、あまり覚えていないとは言え、謝ればよかった、がそれまでの関係と酒の席の些細な出来事と割り切ってしまっていたのだ。それから音沙汰はなく2年くらい経って、先述の2017年所沢航空公園で久しぶりに会ったわけだ。

 その夜はかなり遅くまで飲んだが、蟠りの解消までには至らなかった。というより、かなり酔っ払ってしまって、最後は常さん宅でベーシストの横山知輝さんと三人で飲んでいたのだが、私は何も言わずに席を立って歩いて帰路に就いた。

 その日の所沢でのステージは圧巻だったが、それを彷彿させるのが以下の2018年の北京でのコンサート。何曲か観ることが出来るが、映像もとてもよく豊かな表情を捉えている。

 そして、生前最後のライヴと未発表曲のアルバム『オールウェイズラッキー』が昨年の冬にリリースされたのだが、まだ落ち着いて聴く準備は出来ていない。

桜井芳樹(さくらい よしき)
音楽家/ギタリスト、アレンジやプロデュース。ロンサム・ストリングス、ホープ&マッカラーズ主宰。他にいろいろ。
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