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教育はコミュニケーション、そして現代の落とし穴

こんばんは。ゴリィです。相変わらず絶賛メンタル不調中ですが、この時間は多少マシになります(昼は寝込んでました)。最近書いてなかったですが「片耳の歌うカラーセラピスト・クイズ作家・防災士」と色々なことにチャレンジしています。

さて、僕は大学時代教育学部で「教育哲学」を専攻していました。教員にならずに教育に携わることを選択したので、教員免許は取っていません。さて、今回の話題です。


地球を1つの学校に

日テレNEWS24(以前は契約してずーっとテレビを流していました)のサイトで、上のような記事を読みました。とても素敵な考え方で、共感しました。

詳しくは是非記事をご覧いただくとして、地球のさまざまな立場の人たちがお互いに学び合えるのってすごく理想的なんですよね。というのは、僕の教育に対する思想にもつながるからです。

じゃ、「ゴリィの思想は?」というのを次に紹介します。


経験や価値観の共有が「教育」の本質

これは学校教育がまさにそうなのですが、「知らないことを知る」「自分になかった価値観を知る」のが教育の基本だと思っています。

はい、当たり前すぎますよね。少し話を発展させましょう。

学校で教わる「知らないこと」は私たちの前に生きてきた人たちが経験したことやそこから見出した価値観です(たまーに現代の政治思想も混じってたりしますが笑)。では、「経験」「価値観」を共有することは果たして授業の時間だけの話でしょうか?

友人との会話の中にも実は「経験や価値観の共有」が入っています

友人が経験したことの話を真剣に聞くと(「百聞は一見に如かず」ともいいますが)、自分もその経験をしたのと同じとは言わないまでも、経験で知り得る知識を自分も得たことになります。

また「好き・嫌い」という「価値観」のいちばんわかりやすいところの話もけっこうしてますよね。共感する、しないはおいておいて「そういう考え方があるんだな」とぼんやりとでも分かればこれも共有したことになります。

これってもはや学校現場の授業時間に限らず、学校の休み時間や放課後、休みの日に遊ぶこと、学校を卒業して社会に出ても人間関係を続ける限り常にあることですよね。

人間関係を持ち続けているうちは常に自分が誰かに教わり、自分が誰かに教える、そういう関係にあるわけです。「共育」という表現もされますね(僕はあまり使いませんが)。


教育は「コミュニケーション」

経験や価値観を「教える」「教えてもらう」というという関係は、不特定多数の人たちと持っているに越したことはありません。冒頭の「世界を1つの学校に」がまさにそうですが、世界中の人たちとコミュニケーションをとって、さまざまな経験や価値観に触れることで思わぬ発見があるものです。

記事中に触れらていた「脱北者の体験談」なんて絶対に興味を持って聞かないと分からないですからね。

つまり、教育はコミュニケーションから生まれるものです。

対人関係がまさにそうですが、相手に興味や関心を持って話を聞くと、より多くの知識を得ることができます。相手の話を聞かずに一方的に話すのは、自分の中には当然ながら何も入ってきません。

もちろん、テレビやラジオだって同じ。自分から積極的に目を向けたり耳を傾けたりすればするほど、得られる情報も増えます。本や雑誌だって同じですよね。

そして、教える・教えられる、という関係を繰り返せば繰り返すほど、人の絆は深まっていきます(一方的ではダメです)。その繰り返しの土台にあるのが「価値観の共有」なのです。ただ、これは「同じ価値観を持っている」ことは必ずしも意味しません違う価値観の中に「知らない経験」があるからです。

「価値観の共有」はお互いの価値観を認め合うことで、教える、教えられるの中には「お互いが意見を言い合える」という意味が含まれます


現代の落とし穴

今の時代はどうでしょうか。SNSの普及により、ある分野で「同じ価値観を持っている人」との出会いの機会は確実に増えています。ただ、果たしてそれは望ましいことなのでしょうか?

日本に一億人いるとすれば、一億通りの価値観が存在していると思っています。もちろん、近い価値観の人と過ごすことは居心地はいいですし、価値観が相容れない人とはコミュニケーションそのものを遮断したいと思うでしょう。このこと自体は、昔から変わることがないと考えています。

僕が社会人になるころにはすでにネット黎明期でしたから、僕もそういった人との出会い方をしてきた人間なので偉そうなことは言えませんが、同じような価値観を持っている人間が容易に集まった場合考えられることがひとつあります。

それは「違う価値観の集まりに無関心になること」です。

前述した通り、「価値観のズレ」の中に「学びの機会」があります。例えば同じ病気の人の集まりなどいわゆる「当時者会」というのがありますが、そこも「似た経験をした人の集団」であり「価値観が同じ」とは限らないわけで、そこでお互いの価値観や体験を述べ合う中で学びが生まれ、会が成立するわけです。

「価値観の対立」はどうしても起こります。それは論争だったり、時には暴力的な手段だったり(これはあってはならないこと)です。ただ、「価値観の対立」でまだマシなのは、「ああいう価値観もあるのね」と価値観の異なる存在を認識している点です。

「対立」の経て共通項を見出し、お互いを認め合い「共存」していくというのは人間社会がかつて幾度となく経験してきたことですし、それが望ましいことだと思います。

「排除」はもうどうしようもない場合だけ。これで悲しい歴史があった例もいくつもあります。「ハンセン病療養所」が一例として挙げられますが、学生時代にそこに何度も訪問したという友人の話や考え方を聞き、ひとつ学ばせてもらいました。

「異なる価値観への無関心」はその存在すら認知しないこと。それを無意識にやってしまうものですから、それが見えない亀裂となり、しいてはいつの間にか社会を分断してしまうものになってしまう可能性があると考えています。少しおおげさに言っているかもしれませんが。


自分から情報を取りに行く時代だが・・・

特に防災関係の記事でよくこのフレーズを使うのですが、「今は自分から情報を取りに行く時代」です。知識を多く持っているよりも必要とする情報を取りに行き、そこから生きる術を見出す時代、こう考えています。

なので、少し話は逸れますが「轟RADIO」のクイズ番組は全て「検索して解答OK」にしてあります。検索で解答できるクイズは出してませんがね(笑)。

この、「自分から情報を取りに行く時代」のひとつの盲点として、すでにさまざまな場面で語られていますが、「自分が自分が欲しいと思った情報以外は入らない」ということがあげられます。ネットニュースにしても興味のある記事以外は見ないと思いますし、SNSは興味のない話題は大概スルーだと思います。これは、ご多分に漏れず自分もそうです。

同じ価値観を持つ人間だけで集まり、自分の価値観だけで情報を選ぶ、これが「教育」の機会を奪い、人間としてのの成長を止めてしまうきっかけにならないかと危惧しています。


現代の「教育」

やはり、ここで大事になるのが「価値観を共有している人とのコミュニケーション」です。

時々、友人から「これ見てみて!」と勧められることがあります。今までは見たり見なかったりでしたが、最近見るようにしています。

すると、そこで新しい発見が生まれたりしています。分かりやすい例でいくと、「トドメガネ」の設定がどことなく何かに似ていたり、僕の歌のアレンジが徐々にロック寄りになったり、突然「轟RADIO」に手話コーナーができたりしているのはこの影響もあったり(笑)。

これも、やはり価値観の異なるところから生まれる学びのひとつだと考えています。

あとは、「テレビを見る」「ラジオを聴く」というネットが普及する前の受動的に情報を得るというのも残しておきたい情報入手手段です。地域密着の番組などは、意外な発見があったりして、そこに足も運びやすく新たな経験も生まれます。


まとめ

「知識や経験、価値観を共有する」の「共有」には「相手」が必要なので「コミュニケーション」が「教育の基礎」にあるのはこれからも変わらないと考えています。

そして、「相手」との「価値観の相違点」から「学ぶもの」が生まれます。つまり、「価値観の違いが大きい人間とのコミュニケーション」がいちばん学びの機会があるわけで、やはり、いろいろな価値観を持つ人間に興味を示し、コミュニケーションを取る(最初は「聴く」ところから)ことは忘れてはならないところだと考えます。

その究極が「地球を1つの学校に」であって、まずは身近な人間どうし、価値観の相違点から学びを得る、という機会を増やしていければいいのかな、と考えています。

今回も最後までご覧くださいましてありがとうございました。

轟RADIO「こころいろ」

https://gory.jp/koko


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