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君と神様

頬杖をついて物思いに耽っていいのは限られた人間だけだ。私には似合わない。物思いに耽っても髪をほのかに揺らす春の風がタイミング良く吹くことはないし、窓の外に嫌気がさすほどの青空が見えているわけでもないし、私は物憂げな表情が似合う美人でもない。物憂げというよりも感じが悪い、機嫌が悪い、と捉えられてしまう質だ。

まっとうに育ってきた気持ちでいたけれど、それなりに正しく生きてきたつもりだったけれど、何もまっとうではなかった。必要な言葉と、いらない話の区別がよくつかない。必要な人と、離れた方がいい人の区別も。自分に優しくしてくれる人なのか、自分を傷付けようと近づいてきている人なのか、それすらも。

◇◇

咄嗟に思い付いたのが、クレンジングオイルをわざと忘れてくることだった。もう二度と行かないであろう君の部屋、もう二度と会わないであろう君。一度目が覚めたらその後は早かった。物凄いスピードで私の世界は回りだした。君がいない世界のことを忘れていたから、そんな世界があったことを思い出してから時間は風のように過ぎた。

何にときめいて何に嫌気がさしていたのか。どこが好きでどこに苛ついていたのか。何が嬉しくて何に傷付いたのか。君のこと、どれだけたくさん傷つけてしまったか。

カーテンの隙間から震える街灯を眺めていた。綺麗じゃなかった。嫌いじゃなかった。でも、愛せなかった。コインランドリーから持ち帰ってきてそのままの袋。カップラーメンの残骸。ソファの下に落ちているアルバム。狭くてカビ臭いユニットバス。

肝心なことは思い出せない。

思い出すのは些細なこと。どんなに揺り起こしても目を覚まさない君の寝顔。ひとつも建設的な話が出来なかった君の唇の冷たさ。元恋人の名前を呼んだこと。ラインスタンプも絵文字も、あの子と同じものばかり使うんだね。君に抱きついた後輩。腕を振り払わなかったこと。駐車場の自販機で買ったブラックコーヒー。肌寒い病院の待ち合い室。寄せ書きのない卒業アルバム。

呆気ない。大事なものなんてひとつもなかった。ひとつも。

深夜のドン・キホーテも、背伸びして飲んだワインも、飛び乗ったタクシーも、君のベッドでなかなか帰ってこない君を待つことも、居心地が悪くて仕方なかった。好きな食べ物の話も、好きな音楽の話も、好きな人たちの話も、なにもしなかったね、私たち。

居心地が悪いのが恋愛だと思っていた。自分を見つめてくれない人を見つめ続けるのが恋愛だと思っていた。

どうしてあんなに居心地が悪いと思いながらも君の隣にいたのだろう。どうしてあんなに居心地が悪いと思いながらも、心臓はドキドキひりひりちくちく忙しく動いていたのだろう。どうして二人でいる方が寂しくなるのに、二人でいることを選んだのだろう。

私は、君が好きだったんだ。間違いでも、正しくなくても、それでも良かった。私は、私の神様を君に設定した。君は君の神様をあのこに設定していただけ。間違いはひとつもなかった。でも、私が君に恋してしまったこと、君が私に気付いてしまったことは、もしかしたら間違いになってしまったかもしれないね。

正直な話、もう全部消えてなくなった気持ちでいるよ。最初からなかったみたいに私は平然と生きている。誰かを思って夜通し泣いたり鳴らないスマホを見つめて心臓が苦しくなったり深夜にタクシーに飛び乗ったりすることはもうない。この先、きっともうない。私は自分がそんなこと出来ない人間だと思ってこれから生きていくよ。そんなこと、私はじめから出来なかった、これからも出来ないだろうと思って生きていくよ。君もなかったことにしていいよ。もう思い出したようにラインするのはやめようね。同じ名前の響きの人に出会うたびに君のあの狭い部屋を思い出してしまうのは、未練や思い出なんかじゃない。苦くて消えない概念。もう中身は覚えていないの。本当なら捨ててもいいのに、こればかりは消えないんだろうね。

◇◇

まっとうに生きてきたつもりだったけれど、そんなの関係がなかった。恋愛にまっとうか正しいかなんて、そんなのなかったんだ、初めから。言えなかった言葉ばかりを心の端から端まで並べて、そして消す。言えた言葉は最後には後悔に変わってしまったものばかり。私の持っている言葉で太刀打ちできる恋愛じゃなかったと諦められるのならその方が良かった。君とは言葉でわかりあえなかった。

今は前よりも少しだけなら分かる気でいる。

君にとって私がどれだけ重荷になるか、私にとって君がどれだけ傷つく要素になるのか、言葉で説明できるくらいには成長していると思うよ。今の私と今の君なら、互いに選ばないということくらいは分かるよ。

私は君と離れてから、神様をつくらなくなった。誰かに自分の人生を渡してしまいたくなる、そんな揺らいでしまいそうな日には、自分の心に神様をつくる。もう誰かに自分を委ねたりしない。体重をかけてもたれない。私は寄り添うだけの人になりたいと思えるようになりました。君のおかげです、とは言いません。そんな綺麗事は言いたくありません。

私たちはガサツで汚くて幼稚でうるさくて気分屋で世間知らずで自分たちの恋愛に酔っていた。人を愛するだとか、誰かを大切に思うとか、そんなフェーズじゃなかったよね。自分すらまともに労ることができない二人が。神様を自分勝手に設定して自分勝手に壊しているような二人が。

そう考えると随分と大人になった。ねえ、君の神様は今どうしてる?





ゆっくりしていってね