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27℃

行方不明になっていた飼い犬が90キロ離れた転居前の家の前で見つかったというアメリカで起こったネットニュースをぼんやりと見ていた。その犬の心なんて私にわかるはずもないけれど、誰もが戻りたい場所を持って生きているのかもしれないと思った。生きものは、変わって、巡って、戻る。こういう奇跡みたいなニュースばかりが次々に読み上げられるだけのニュース番組があれば良いのにとため息をついたのは、今日はじめてではなかった。

私が戻りたいところはあるだろうか。私が帰りたい場所はどこだろう。すぐには思いつかなかった。私は物理的に漂って暮らすことを苦としない性質だ。一日のうちどこかで一人になることができれば。一人で渦巻く感情を整理する時間さえとることができれば、場所なんてどこでもいいのかもしれない。

私の所有物なんてない気がした。開け放たれたドア。ことわりを入れて使う家具。改札を通るのが普通。お金を払って食べ物を得る。当たり前に名前を名乗り、写真は知らぬうちに拡散される。学籍番号は貼り出され、出産おめでとうのメッセージが社内でアナウンスされる。借り物、ぜんぶ。借り物競走は得意。「さびしい」を貸してくださいと言えば、きっとそこら辺の人が貸してくれる。

私が見るべきものは、ぜんぶ本物だろうか。借り物の中に、いくつ自分を見出せるだろうか。私が書いている言葉は、すべて私の言葉だろうか。

真新しい長い廊下をひたひたと歩く。この世は寂しがり屋ばかりが取り残されていくシステムなんだろうなと思う。私はいつも少しだけ物足りないしあわせを片手で処理していて、片手から溢れだすとしあわせは不安や恐怖や重圧になる。足るを知る、自分に言い聞かせないといつも不安だ。自分のことで精一杯の日々はつらく、自分に余裕ができれば周囲の精一杯の人を案じてつらくなる。私はいつもつらくなければ生きられない。

ジェンガのような絶妙なバランスで奇妙な歩き方をしている。どんなに軽くても、それがとどめの一撃ならば全て崩れる。知っている。綺麗に崩れられたらすぐにまた組み立てられる。大きな音を立てて壊れて飛び散ってしまったら、なかなか戻らない。

傷が乾かないうちから急いで大丈夫になったと見栄をはっても、空洞になるだけなのだ。いろんな場所に空洞ができて、そしてまた新たな重みが加わる。

私のとどめをさす言葉は、何なのだろう。私のとどめをさす出来事は、何なのだろう。あ、今日も大丈夫だったな、でも、数分後にとどめをさされているかもしれないな、の繰り返し。本当に小さなこと、アイスが畳に落ちたとか、シフトの自分の名前が一文字違ってたとか、自分の自転車だけ倒れていたとか、そういうことで簡単にダメになるのだ。10代の頃、駐輪場で、端っこに停めていた私の自転車だけが風にあおられて倒れていたのを見た瞬間、涙が止まらなくなってうずくまってしまった経験がある。自転車が倒れていたのが悲しかったわけではなくて、それまでの悲しみ、つらさ、しんどさが積み重なって、最後に自転車の出来事が数グラム分だけ乗っかっただけだった。その数グラムでダメになってしまった。まわりにいた人は急に泣きながら動けなくなった私を見て大層驚いていた。私がまわりの人の立場でもそうだったと思う。他の人には、自転車以外の出来事は見えていないから。自転車の数グラム分の出来事だけでは、ふつう人は壊れないから。

そう、数グラムで壊れるはずないのだ、ふつうは。


両手でしあわせを受け止められるようになれば、溢さないように誰かにそのまま手渡すことができれば、なんて今は到底思えないけれど、人間なんてそんなもんだと思う。毎日ひとつひとつ私に乗っかってくる確かな重みを全て真正面から受け止めていたらすぐに歩けなくなってしまうから、今日もかなしみはコインランドリーでグルグルに回して解決したことにしてしまった。コインランドリーで少しずつ悲しみを消化する。このやり方が正しいのかは分からないけれど、少なくとも誰にも迷惑はかけていない。小学生のとき、クラスメイトが、嫌なことがあったらトイレで叫んで水を流すと言っていた。26の私は、それとおんなじようなことをして今日も生きている。

夏、エアコンで冷えたベッドのシーツがすき。目を閉じてつめたいシーツを右頬で感じる。今日のしあわせなんてそれくらいでいい。眠れば朝がくる。











ゆっくりしていってね