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夜が明けるまで一緒にいよう

生きている煙草の香りが好きだ。空に向かって吐き出される煙。さっきまで誰かが煙草を吸っていた場所に置いていかれた風。服や髪にふんわり乗ったまだ生きている煙草の余韻。

死んだ煙草はあっけなくて嫌い。灰皿の底で冷たくなった灰。帰宅後にもしつこく髪やコートに残っている煙のにおい。パラパラとこぼれて散らばった残骸。道端に捨てられて雨に濡れた吸い殻。指先と鼻先で拾い集めながら、これはゴミだと思う。死んだものは全てゴミだ。煙草も、生きているうちはゴミじゃない。とても綺麗で人間味があって温度がある。

喫煙所の壁にもたれて煙を吐き出す横顔を忘れられないのは、私があの日々とあの人に依存していたからだろうか。どうしてこうも弱くて脆くてダメなところを見せられると自分の全てを差し出してでも助けてあげたいと思ってしまうのだろうか。その気持ちこそが恋だと疑わなかったのは、焦がれる対象がそういう弱さや人間らしさだったからなのかもしれない。何度も失敗して、依存と恋は違うと気付いた今でも、たまに間違ってしまいそうになる。助けてあげたい。支えてあげたい。何とかして笑って欲しい。そんなことでしか人に尽くす方法が分からないままここまで来たよ。

間違うきっかけの多くが、生きている煙草の香りだった。今でも好きだ。人の気配と煙草のあたたかさが残る喫煙所。自分の弱いところは見せたくないくせに、人の弱いところを見せられるのに弱い。優しくないのに、余計なお節介はしたくなる。必要ないと言われることほど助けてあげたくなってしまう。役にたちたい相手の役にたてない。こんな自分に辟易する。


◇◇


優しくなりたいって、年中言ってる。私は優しくない。人に言われなくても自分でよくわかっているから許して欲しい。ほら、こうやって許されようとしてるところすらずるい。ずるく生きてきたから、人に何とかして好かれようと頑張ってしまう。嫌われていないか不安になってしまう。特別興味もない、特段仲良くしたいと思ってない相手にも等しく嫌われたくないと思って振る舞ってしまうのがいけない。どんな人に嫌われても同じようにダメージを受けてしまうのは、きっと私が私に優しくできていないから。私が本当に大切にしたい人に本当に優しくできていないから。誰でもいいから好かれたい。そんなの無理なのに。自分が当たり前のように送る当たり障りのない優しさと、他人から当たり前のように受けとる当たり障りのない優しさを持て余している。

優しさって、なんですか。自分が弱音を吐きたい時に、他人が弱音を吐いている時に「甘えないでよ」と思うのは、私がそうやって育ってきたからなのだろうか。私は滅多に人に弱音を吐かない。だから、人の弱音に対してつらかったね、大変だったね、頑張ったね、と浅い言葉しかかけられない。言葉をかけたそばから、なんて陳腐な死んだ言葉なんだろうと落ちこむ。心では痛いほどその弱音の意味を受け止めているのに、言葉でカバーなんて出来ないよ。私自身が、弱音を言葉で補強してもらった経験が乏しいから。

自分が辛いときにそっとしておいて欲しい私は、一人でめそめそ泣きたいタイプの私は、「大丈夫?」と言われたくない私は、ほっといてほしいと思ってしまう私は、泣いている人に何と声をかけるのが正解か分からないんだ。言葉は全部薄っぺらく感じてしまう。

優しいってなんだろう。

助けたいなんて思うからいけないのかもしれない。助けてあげたいなんておこがましい。私が誰かを救うことなんて出来ないんだ。なのに助けてあげたいって思うから重くなってしまうのだ。

◇◇


夜が明けるまで一緒にいよう、その言葉はありふれているように見えていちばんの優しさなのかもしれない。言葉はなにもなかった、でも、あなたから渡されたホットの缶コーヒーが世界でいちばんあたたかいと感じたあの明け方こそがもしかしたら優しさだったのかな、なんて思うよ。私はあなたを救えなかった。でも、喫煙所のガラス越しに横顔を眺めながら、あなたが笑う未来のことばかり考えていたのは嘘じゃないよ。この気持ちも、優しさと呼んでよかったのかな。それとも、愛と呼んでよかったのかな。出来ればそう呼びたかったな。




ゆっくりしていってね