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ババアと呼ばないで

ひと月ほど前になるだろうか。
私の口癖を強く非難した男がいる。

「一つお願いがある」と深刻そうに、
でも勢いをつけて、彼は私の何かの話を遮った。

「自分の事をババアと呼ばないで!」
せっかく身構えたのにこんなお願いだったから拍子抜け。

「なんでよ。あたし“ババア”が好きなのよ」

「じゃあ訊く。もし俺が自分のことを“ジジイ”と言ったらどう思う?」

「は?あんた4つ下でしょ?ジジイじゃん。はい、そうねと思うわよ」


“お願い”を聞こうとしない私に、
彼はそれでも話を続けた。

まるで・・・
自分が何か【恰好良いこと】を言っているかのようなエネルギーで。


「お願いだ。イヤなんだ。貴女はババアなんかじゃないよ」

「あのね…言葉のイメージの違いよ。私にとって“ババア”は悪いことじゃない。あんたの“ババア”って言葉に持つイメージと私のそれが違うだけ。気にしないで。私は“ババア”が気に入ってるの」

「気にするよ!お願いだ、もう2度と言わないでくれ!」


面倒になった。
そして思った。

この男は、私に興味なんて無いのだと。
私に「良く思われたい」だけ。


「あんたとも長い付き合いね…。その実薄い付き合いだったけど。
 若い頃の私を憶えているでしょう?私は【醜形恐怖症】だった」

「憶えてるよ。いつも貴女は【太ったから会えない】とばかり言っていたから。でも、俺言ったじゃん?多少太ってる時の貴女を見て恋に落ちたって!太っていたって綺麗だよ!俺何度も言ったよね?貴女は太っていても可愛いって!だからさ!分って!貴女はブスじゃないしババアじゃない!」


嗚呼、私が話したいのはそんなことじゃない。
苛立ちを抑えてなんとか続ける。

「もういいのよ。私がブスだろうがデブだろうが。
 私はとても楽になったの。
 今の私が何故、楽になったか聞いてくれる?
 それはね・・・・」

「うん・・・?」

「私が“ババア”になったからよ!!!!」



・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・


このエピソードは、数日前のnoteの続きのつもりで書きました。


【醜形恐怖症の君へ】


私は若い頃、「ババアになる」のが恐かった…

「今でさえブスなのに、歳を取ったらどうなるの」と、
生きていけない気持ちで居ました。

10代の頃、25歳で死にたいと言っていました。
25歳の頃は、30前に死にたいとよく思っていました。

更に醜くなるのは耐えられない、と。
ババアになってまで生きたくはないと。

それでも時間は容赦が無くて。
私は歳を取りました。

ネットを利用する度に、
若者達の「30はババアw」の文字をよく見つけました。

足掻こうとも思いましたが、
私は諦める(明らかに認める)道を選びました。

それは【25歳の決断】

25歳になった私は、自分を「ババア」と呼び始めました。

今思えばそれは、
自分への教育、説得、言いくるめ、だったのかもしれません。

でも、決して【呪い】ではありませんでした。

毎日毎日、鏡を見て落ち込む自分に

「もうババアなんだからいいじゃない。
 どんなに頑張っても本当に若い子には勝てないわ。
 勝てない勝負をしながら生きたいの?
 ババアになって、小娘に挑みながら生きたいの?
 それより、【ババアですが何か?】と言える30歳になってみようよ」

と、そう言葉を掛けました。


最初からその説得が上手く行ったわけではありません。

「よし!そうね!そうしよう!」と前向きになれる日があっても、
「恒常性(ホメオスタシス)」により、いつもの自分に戻ってしまう。

そんな私に出来ることは、
「何を諦めたとしても、自分の教育だけは諦めない!」と言う決意を続けることだけでした。

根気よく根気よく、

「若作りのイタイ糞ババアになりたいの?
 見た目の事にしか関心の無い、
 馬鹿ババアになりたいの?
 それとも違う?」

と、自分に問い掛け続けました。


私の道は、決して「優等生の道」ではなかったと思います。

他人を「若作りの糞ババア・・あんな風にはならないぞ」と自分を戒める為に心の中で貶めながら生きていたのだから。
でも、そうしなきゃ劣等生の私は進んでは来られなかった。


「年齢に拘らない」
「見た目で人の価値をはからない」
「ババアと言われても気にしない」
「年齢相応の輝きを放つ」

このような事が即座に出来たなら、どれほど良かったでしょう。
でも私は、そんな「デキる奴」じゃなかったから。

「あんなババアにゃなりたくない」と、

母を、知り合いを、芸能人を、道行く他人を・・・
心の中で蔑む事で奮起するのが精いっぱいでした。

【申し訳ございませんでした】と天に向かって心から謝罪出来たのは、
自尊心を取り戻してからです。
つまり、容姿や年齢の事で自分を責めなくなってからです。
そのBeingが、しっかりと染みついた後のことです。

きっと、自尊心を持たないうちに
「他人をイタイ糞ババア扱いしてごめんなさい」と謝らせようとしても、
それは謝罪ではなく【罪悪感と自己嫌悪】にしかならず、
口先だけのウソになっていた事でしょう。

罪悪感を植え付けてより良い成長が出来る人間などいません。
自分に与える感情に気をつけながら自己育成して下さい。

「育自」は「育児」と似ています。


さて。

「私はババア。もうババア。頑張ってもババア、
 泣いても笑ってもババアはババア!それなら笑え!」

と、唱えること数年・・・

ババアと言う「厳しい言葉」は、
私にとって「優しい言葉」になっていました。

「いやぁん。白髪ぁ・・・。
 ・・・ま、ババアだし当然か!(ε-(´∀`*)ホッ)」

「うー、昨日の疲れが顔に出てるぅ!
 ・・・ま、ババアだし当然よ!(ε-(´∀`*)ホッ)」

「やだ、手に年齢が出てるぅ!
 ・・・ま、ババアだしね(ε-(´∀`*)ホッ)」


「ババア」と言う言葉で、
誰もがこのようにホッと出来るとは思っていませんが

でも、私にとっては「安心の呪文」


「恐れること」は受け入れることで安心し、
その安心が、恐れを勇気に錬金出来る精神を作ってくれます。

もし、「受け入れること」が難しくても大丈夫!!

何故なら、
「逃げてはいけないこと、逃げられないこと」からは
どうせどうせ逃げられない。

歳を取るのが恐くても
死ぬのが恐くても

どうせ歳を取る。
どうせ死ぬ。

それまでは、どうせ生きる。
それまでは、どうせ生きてしまう。

死ぬまでは・・

どうせ生きていけるのです!


そしてどうせ・・・「慣れる」のです!!

嗚呼、なんという恵み!!


私たちは、「明らかに認めたこと」には「慣れる」脳を持っています。

苦しみが続くのは、「明らかに認めること」への拒絶、抵抗の結果です。


「まだどうにかなるのでは?(誰かどうにかして!)」

「私はこんなもんじゃない筈!(なのに不当に評価されてる!)」

「頑張れば勝てる筈!
 (真剣に戦って負けた事の無い者のセリフ)」

「綺麗だったら(金があったら、恋人がいたら)幸せだったのに
 (不幸なのは〇〇のせい!自分のせいじゃないもん!)」


被害者意識、自己憐憫、嫉妬に慣れて中毒するのも
するべき時にサレンダーする事に慣れて楽に生きられるのも

実は脳の「同じ機能」によるものです。


この機能は、神が私たちに与えた恵み・・・


最後に、「不思議なこと」を書いて終わります。


・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・

私はね。

「ブス」を明らかに認めたら
何故か「可愛い、愛しい」と言ってくれる男性ばかりに出逢うようになりました。
(明らかに認めることと、「どうせブスです」と言うスネは違います)

「馬鹿」を明らかに認めたら
何故か「知恵を貸して下さい」と乞われるようになりました。
(明らかに認めることと、「どうせ馬鹿よ」と・・・以下略w)

「何も出来ません」と明らかに認めたら
何故か「でもコレは出来るじゃん!!」と言う事に気付き、取り組める様になりました。
(明らかに認めることと・・・以下略w)

「貧乏でも死にはしないから大丈夫!」と明らかに認めたら
何故かどんどん金に苦労しなくなりました。

「人にどう思われても死にゃしない!!」と明らかに認めたら
媚び、奴隷的態度、いい人ぶって苦しむ人生が終わり、
「貴女の我儘は人を幸せにする!もっと我儘を言ってくれ!」と、
言われる人生が始まりました。

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・


あれれ。

本当はね、

【もっと歳を取れば醜形恐怖症も緩和するよ~。
 頑張らなくても大丈夫よ~。
 恐い加齢は、実はギフトよ~♪】

って、伝えたいだけで書き始めただけなのに(笑)

若いうちはそう言われても

【ババアになってからじゃ遅いんだよ!
 ババアになったら終わりなんだよ!!
 今ブスなのが嫌なんだよ!!】

って思う事も知っている(笑)

それでも大丈夫。どうせババアになってしまいますから😊


嗚呼、もー

私ってほんと、書く才能が無いわね(笑)

でも、無いと認めた上でこれからも書きます。

伝わらなくても、誤解を生んでも、

どうでもいいです(宇宙は完璧♪)

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