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清水玲「家と宿のあいだで」(滞在まとめ)

わちゃわちゃと子どもたちにふりまわされるいつもの生活。稲取での1週間がすっかりずいぶん前のことのように感じます。香川の実家で父の満中陰法要があったこともあって余計にそう感じるのかもしれません。少し落ち着いて振り返ることができるようになったので、(少し遅くなりましたが、)まとめの記事を書きたいと思います。

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MAW応募とマッチング

滞在1日目の日記にも書きましたが、私は昨年2月に中伊豆で開催された「Cliff Edge Project -躍動する山河-」展で制作・発表した私の個人史と伊豆半島の地形の成り立ちとの重なりをテーマにした映像作品の再撮影・再構成に試みていて、会期終了後も引き続き、海底火山時代から本州との衝突、陸上大型火山時代から伊豆東部火山群の時代、カワゴ平噴火までの伊豆の地形形成の痕跡を辿る撮影の旅を続けています。

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そんな旅の途中に、マイクロアートワーケーションの企画を知り、制作中の作品の質を向上させるための新たな気づきや予期せぬ出会いに期待して応募しました。
日頃から伊豆半島の各地で山歩きや海歩きをしているので土地勘もあり、滞在先の希望は、下田、松崎、河津、稲取、伊豆高原、伊東、三島、沼津、いずれの場所になっても何かしら撮影の旅との接点は見出せると思ったので、どこになるかはアーツカウンシルしずおかのマッチングに委ねるようなかたちで応募しました。

マッチングの結果、稲取に滞在することになりました。細野高原には何度か訪れたことはありましたが、港のある稲取の街なかは、漁港の直売所と朝市に1度立ち寄ったくらいで、ある意味で未踏の地でした。旅人採択通知のメールに、ホストの紹介として「【地域名:D. 東伊豆町稲取地区】伊豆半島東海岸のほぼ中央に位置する温泉地で、空き家を活用したリノベーションまちづくり事業を推進し、地域のファンづくりに取り組むため宿泊施設等の拠点を運営。港町ならではの暮らしや文化、認定ジオガイドによる地域案内等を体験できる。」とありました。「空き家のリノベーション」、「港町ならではの暮らし」、そして「認定ジオガイド」。興味のあるキーワードに目がとまり、窓から陽の光がすっと差し込んで部屋が急に明るくなるような気持ちになりました。

父の危篤、予定変更 

12月に入っていよいよMAW滞在まで2週間をきった頃、父が危篤という連絡があり、急遽実家の香川へ帰省することになりました。病室に着いた時にはすでに意識はなく、延命処置を施しても余命はあと1~2週間という医師の宣告。あまりにも突然の状況展開に困惑しつつも、どのような展開になってもこのような状況で MAW滞在は難しいだろうと判断し、アーツカウンシルしずおかの立石さんと稲取滞在のホスト役を務める合同会社so-anの荒武さんに連絡して日程延期の相談をしました。親身になって相談にのっていただいたおかげで心が少し救われました。こういう時、人と話すことはとても大切なことだなとあらためて感じさせられました。

延期の日程について、 2月に予定しているタノタイガさん、松本真結子さん、水野渚さんの滞在時期に合流させていただいて交流中心の滞在にしたいとも思いましたが、自身の作品撮影の旅の延長としてのMAWという当初の目的と、コロナ禍の見通しの立たない状況を考慮して年明け1月に延期させていただくことにしました。突然の出来事にもかかわらず、快く日程変更を受け入れてくださった荒武さんには感謝の言葉もありません。


旅の準備と滞在計画 

3日目の歩行軌跡

年が明けていよいよ出発の日が近づいてきました。稲取での7日間をどのように過ごすか。撮影のための山歩きや海歩きに費やしたいと思う一方で、せっかくの機会なので「港町ならではの暮らし」と向き合うべきではという思いもありました。採択通知を頂いた10月中旬から出発直前まで、どのように過ごすか、地元の情報をどこまで事前にリサーチするべきかずいぶん悩みましたが、白田硫黄坑跡や海蝕洞など、作品制作のための撮影場所の有無と選定については事前にしっかり調べておき、街なかのことについては極力何も調べずホストからの情報提供に身を委ねることにしました。また、近い将来、海外でのアーティスト・イン・レジデンスや長期の滞在制作なども視野に入れていることもあり、滞在7日間のうち半分は子どもたちを含めた家族とともに滞在することにしました。家族も含めた現地滞在のあり方について考えるいい機会になるだろうと思ったからです。

ひとりの時間、家と宿 

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街の空き家をリノベーションした錆御納戸は家と宿の中間のような存在で、ここでの単身滞在は期待していた以上に快適でした。コワーキングスペースとしても利用できる仕様のリビングはワーケーションとの相性もよく、夜戻ってきて一日の旅をふりかえるのにもってこいの空間でした。眺望がきく風通しのよい2階にあがれば、気持ちを切り替えてゆっくり休むことができます。

家というのは自身をとりまく関係性を固定する特性があります。「いえ」という言葉が「い(居る)」と「へ(場所)」から成るように、居住を通して人をその場所に根付かせていきます。「建築」の定義として「土地に定着する工作物のうち、屋根及び柱若しくは壁を有するもの」と建築基準法に定められていますが、「家」という構築物そのものもまた、人を場所に固定する役割を担っているのかもしれません。

一方、宿というのはそこから離れた仮の場所であり、いつでも場所を移すことができる、永続的ではない一時的な空間です。そして旅(身体が「家」から離れて移動すること)は、家がもつ物事を固定する力を和らげ、ちょうどいい頃合いを見出す手立てを講じてくれます。

3日間の錆御納戸での単身滞在で、ワーケーションというのは、家の固定性と宿の流動性のどちらでもないあり方を模索することができる機会なんだなと感じました。

荒武さんと藤田さん 

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今回の稲取滞在のホスト役として街を案内してくださった合同会社so-anの荒武さんと藤田さん。学生時代の課題での関わりがきっかけで稲取に飛び込み、地域住民の方々とよりよい関係性を少しずつ築きながら、人口減少や空家物件の増加など、この街が抱える問題と向き合いながら、自分たちが今できることを自分たちの手で取り組んでいるこのおふたりに出会えたことは、MAWに応募してよかったなと思えたことのひとつでした。

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肩肘張らない愛嬌としなやかな建築家的視点で街に介入していく荒武さんと、ジオガイドとして稲取の地質遺産を解説できる藤田さんのコンビは、極めて特異な個性であり、錆御納戸を利用した方々の多くがリピーターとなり、ここ最近ではそのリピーターの方々が稲取に移住し始めているというのも納得できます。

稲取に立ち寄った私(旅人)に、旅人もいいけど住人になるのもわるくないよ、家の固定性は見方を変えれば可変だよと教えてくれたような気がします。

書く、というリハビリ

今回のマイクロアートワーケーションの旅人には、日記を書くという課せられた役割があります。ここ数年間、日記とかブログとか書くという習慣からすっかり遠ざかってしまっていたので、出発前は自分の考えを言葉にするいい機会になればというくらいに少し軽く考えていました。実際に滞在生活が始まってみると、日中の街歩きからくる疲労感、明日に備えて早く睡眠をとりたいという気持ちと、一日の体験を忘れないうちに言葉にしておかなければという気持ちのせめぎあいに加えて、書くという習慣のブランクからか思うように言葉にできず、旅人日誌を書くということが思いのほか苦渋で、リハビリのような、ある種の快感を伴う痛みを毎晩味わうことになりました。初日の夜はほとんど夜通しモニターの前でうなされている、という悲惨な状況でしたが、2日目、3日目と日を重ねるごとに慣れてきて、滞在が終わることになってようやく書くということが定着してきて、リハビリをへて歩ける身体に戻ったような実感がありました。

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滞在先の宿でMAW旅人日誌を書く、というリハビリのような経験を通じて、建築や文字を利用することについて考えるいい機会にもなりました。建築や文字の持つ記録性、持続性というのでしょうか。建築や文字は生活を便利にする一方で、権力や制度を固定化し恒久化する特性を持っているといえます。自分が文字や建築を用いた作品を制作しているのも、文字や建築が持つ物事を固定する力にあらがう姿勢、あるいは固定する力を受容しながらも拘束されないしなやかな姿勢や態度を模索しているのかもしれないなと、あらためて気づかされました。旅が終わった後も、意識的に日々の出来事や考えを言葉にして書くということを継続し、もう少しこのことについて考えてみたいと思います。

風と集落、空き家と空き地

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冬風が強く吹きつける滞在3日目の街歩きで、荒武さんが「港の集落の外周部の家々はしっかりとしたつくり、その内側の家々はわりと緩めのつくりになっていて、民家が集まることで強風から人々の生活を守っている」と語っていたのはとても印象に残っています。MAW日誌と格闘していた夜間、建物が強風に煽られる音がしていたことを思い出しました。錆御納戸の向いが空き地になっているから風が入り込んでくるんですね。

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民家が集まることで強風を凌ぐという集落のつくりと、醤油の貸し借り的な集落のコミュニティが相関関係にあり、内側の家々の(生活音が互いによく聞こえる)緩いつくりがコミュニティを活性化する。一方で、近年の人口減少による空き家の増加とそれにともなう空き地の点在、高気密高断熱が推奨される(隣家の生活音が聞こえない)住宅建築の風潮と地域コミュニティの衰退。

集落に点在しているステージのように道路面より60センチほど高く、防草のためモルタルで舗装された空き地の光景は、象徴的でとても強く印象に残っています。そんな空き地をつれてきた子どもたちが無邪気に走り回っている様子もまた感慨深いものでした。

「分からなさ」がもたらすもの

滞在2日目の日記に少し書きましたが、稲取に着いて荒武さんと藤田さんとの顔合わせの時に、稲取の水源のことと、地形について質問しました。水源のことはおおよそ見当がついていましたが、どうしてもわからなかったのが岬の中央部分がへこんだ地形についてです。通常陸地で火山が噴火すればマグマは低い方へ流れ、伊豆高原や城ヶ崎海岸のように海に向かってなだらかな地形が形成されますが、稲取の岬の地形はどういうわけか中央部分がへこんでいます。どうしてこういう地形になっているのか藤田さんに質問したところ、「実はこれ、浸食してへこんだ、先端の別の島がくっついた等、いくつか見解はありますが、はっきりしたことが分からないんです。」という答えが返ってきました。

稲取の地形

わからない、という藤田さんの返答に、不思議にもすっと腑に落ちたのを覚えています。わからない、説明できないからこそ魅力を感じるのかもしれない。そう思うと、東伊豆地域が80~20万年前の天城火山と1万9千年前の稲取火山列から成り立っているという説明だって、文面だけでわかったつもりになっているだけなのかもしれません。作品だって全部説明できてしまうとつまらなく感じてしまいます。わからない、という空白があるからこそ惹かれていく、答えを出すことを急がず、分からなさを保持したまま固定しない。固定しないからこそ、わからないという空白の窓から可能性という風が入ってくる。わからないこととよろしくやりながら、自分の目でみて考えていけばいいんだなと思えると気持ちがすっと楽になりました。

子どもたちから学ぶこと

子どもたちと生活するようになると、作品制作に費やすことのできる時間は極端に減ります。本を読む時間や、ひとりになってじっくり考え事をすることでさえ、自分の意志だけで確保することのできないとても貴重なひと時だと感じるようになります。家というのは自身をとりまく関係性を固定する特性がある、と書きましたが子どもたちとの生活はその流れをさらに加速させてしまいます。

子どもたちとの生活は、自分の生活リズムの変更を余儀なくされる側面がある一方で、子どもたちが成長していく過程をともにすることで、自分の幼少期の記憶を思い起こしたり、生きること、そのうえでつくること、なぜつくるのか、なぜ制作を続けているのかという根源的な問いと向き合うきっかけになったりもします。

子どもたちの、人に見られることを意識せずに遊びの中で作り出す線や絵や立体物は、より良い作品を作ろうともがく私の心の片隅を容赦なく炙り、焦がし、えぐり取ろうとします。同時に彼らの遊ぶ姿と幼い頃の記憶が重なり、自分の中にあるものづくりの源泉のありかを指し示してくれます。子育ては自分育て、とはよく言ったものです。

7日間の滞在うち後半は、錆御納戸での単身滞在という貴重な時間に、あえてそんな子どもたちを呼び寄せて過ごしたわけですが、そうすることで家と宿、ワーケーションについて考えるいい機会になりました。

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4日目の日記にも書きましたが、私は仕事柄もあって日ごろから意識的に子どもたちを連れて旅行に出かけ、できるだけ様々なタイプの宿を利用するようにしています。これは私自身が、家がもつ固定性に圧迫されて息苦しくなってしまうことを回避するためでもありますが、子どもたちに、家だけが帰るための唯一の場所ではなく、旅という移動を通じて、あるいはつくるという能動的な姿勢が家や住まい方に流動性を生み、風通しをよくするということを伝えたいからだと思います。

「港町の暮らしを旅する」という理念のもとで活動する荒武さんや藤田さんは、稲取という街で、宿でありながら家である、家でありながら旅である、といったありかたを実践されていて、能動的な住まい方のひとつの可能性を垣間見ることができました。今年の春には荒武さんも父親になられるそうで、きっと荒武さんの街との関わり方もまた、新たな歩みを模索していくのだと思います。元気なお子さんが無事に生まれることを祈るとともに、うちの子どもたちがもう少し大きくなったら再び稲取に訪ね、荒武さんや藤田さんの活動を、彼らとの対話を交えて体験させてあげたいなと思っています。

おわりに、細野高原から天城を越えて

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このまとめ記事を書くにあたって、ひとりになってゆっくり落ち着いて振り返りたいなと思ったこともあり、1月の終わりにもういちど稲取を訪ねました。登校中の生徒たちで賑わう早朝の電車を降りて細野高原に向かい、そこから三筋山に登りました。

三筋山の展望広場からは稲取の街並みがよく見えます。民家の屋根に反射する朝日の光が荒武さんたちとの街歩きを思い出させてくれます。細野高原の朝の空気の冷たさは、滞在2日目に早朝から藤田さんと白田硫黄坑跡まで歩いたことを思い出させてくれます。

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稲取の街並みに別れを告げて、天城を越えていきます。三筋山から大きな風車が並ぶ天城三筋山遊歩道を歩いて八丁池、八丁池から天城縦走路を通ってカワゴ平へ、カワゴ平から大見川、狩野川を下って駿河湾にでれば、一昨年から続けてきた伊豆半島をめぐる撮影の旅もとうとう終わります。

冬の山は驚くほど静寂に包まれていて、自分の息づかいや足音がよく聞こえ、深呼吸すれば冷たい空気が肺に入るのを感じます。

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氷に覆われた八丁池をこえ、天城縦走路を経由してカワゴ平へ。あたり一面苔に覆われたブナとヒメシャラの森は、約3200年前に起きた伊豆東部火山群の中でも最大規模の噴火跡地。噴火によってできた岩石に苔が生して青々とした風景を形成しています。

昨年2月に中伊豆で開催された「Cliff Edge Project -躍動する山河-」展の起点となった場所です。プロジェクトのリサーチのため何度もここに足を運ぶうちに、カワゴ平は私にとって心の拠り所となるような場所になりました。

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私の伊豆半島を巡る撮影の旅は、地形の成り立ちを辿る旅であると同時に、かつて両親が中伊豆に住んでいた痕跡を辿る旅でもありました。山に入り、森をぬけて、こういう場所で佇む。こんなこと、以前の自分には怖くてとてもできませんでした。まして一人でなんて無理無理。2年前にはじめてこのカワゴ平に来た時、案内してくださった方にそのことを話すと、「怖いというのは″わからない″からじゃないかな。″わからない″ということを自覚して向き合おうとすればおのずと怖さは消えていくと思うよ。」という言葉は、いまでも強く残っています。

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わからないこととよろしくやる。稲取での1週間の出来事が、突然現れてあたりを包む山雲のように頭に浮かんできました。私が滞在させていただいた1月中旬は、ちょうど新型コロナウィルスの感染者数が急増する兆しが見え始めていた時期であったこともあり、こちらから積極的に地域の人たちと交流するということはしませんでした。また、旅人は私一人でほかの旅人との交流の機会もありませんでした。そういう意味では、私は稲取の街のリアリティを深く知るには至っていないと思います。しかしながら、荒武さんや藤田さんとの街歩き山歩き海歩きをしながらの対話と、その対話を家族とともに再びなぞることで、家と宿のあいだにある可能性を垣間見ることができました。マイクロアートワーケーションを通じて、稲取という街が私にとってカワゴ平のような特別な場所になったことは間違いありません。

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このような機会をいただいたアーツカウンシルしずおか、ホストをつとめてくださった合同会社so-anの荒武さんと藤田さんにあらためて感謝するとともに、私の日記とまとめ記事が、東伊豆町稲取地区を含むほかの MAW 旅人のみなさんにとって何らかの参考になれば幸いです。いつかどこかでお会いできることを期待して。

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2022年2月3日  清水玲


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