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わたしたちが見た風景 非日常の共有 MAWまとめ 蜂谷充志

 これまでの滞在制作が目的のアーティストレジデンスと違い、アーティストがふらっと立ち寄り、そこで感じ取った感性を共有することが目的だと知り、大きな関心を持ち参加することになった。

これまでのわたしの芸術活動で追いかけているもののひとつに、アーティスト(自分自身)が起因となって滲みのよう広がっていく感性の共感、差異確認がある。曖昧で不確かなものであるが、実感のある手探りの痕跡が記憶のどこかに残る体験がある。

私の中に元来、徘徊癖があるようで、たとえば行きと帰りを同じ道で帰ることができなかったり、興味に惹かれつい脇道に逸れていることにフッと気付いたりする。

天竜川上流の町、長野県飯田市に帰省のため何度も通過した折り、徘徊癖が沸き起こるもなかなか立ち寄れなかった秋葉ダムが作るダム湖に沿って走る国道152号線を中心に広がる龍山町に滞在できることになった。そこは、広がるといっても、天竜川を中心線に標高800メール近い山々がシンメトリーに連なり、急斜面がU字谷を作っている。平らな面といえば、深い緑色の水を貯えたダム湖の水面か山々の余白に見える青い空が1番大きい。空と天龍杉林と天竜川から構成される風景の美しくさはたまらない。わたしはその風景を時間をのある限り隅々まで見たいと思った。滞在中、そこで生活する人に丁寧に案内していただいたことで、自然が作る風景、人が暮らす風景、歴史が創る文化の風景、通り過ぎるだけでは出会えない風景への補助線を引くことができ、眼前にある龍山の風景の深さが増した。治山、治水の知恵として天龍杉の美しい林ができたこと、ダム建設によって生活基盤が変化したこと、峰之沢鉱山の繁栄と衰退、生活様式の変化での人口減少、龍山は人の生活の痕跡と記憶に満ちた風景と出会えた。さらに、わたしはそこで暮らしている方が見ている風景にも興味が湧いた。

 

龍山 そら

天竜川の風が見える風景 寺尾のぶか凧

 

寺尾のぶか凧という子供の成長を願い代々受け継がれてきた行事。6月に天竜川に沿って下流から噴き上げてくる強風を利用して急峻な斜面から、大きな自家製の凧を上げる。その場所、寺尾地区からは遥か眼下に天竜川を望む立地、そこで暮らす人たちには風の道が見えているようだ。毎年その風を心待ちにして、凧が天龍杉の上にある高い空に上がる風景を夢見る遊び心は魅力的だった。

 

龍山 てんりゅうがわ

ゆるぎない風景 猟師の眼差し

 猟師さんと人知れず蠢くように山中を歩いた。猟師さんが狩猟の合間、心休まる龍山の風景を見たいと伝えたところ、思わぬ答えが返ってきた「風景なんか見てない、見ているのは獣の足跡と痕跡だよ」と。反論のしようのない言葉、素直にかっこいいと思った。彼らが見ている風景は山に入る目的にこそあり、そこを見つめる視線の先に日常の風景があるのだと。

 

龍山 すぎ

効率と非効率の風景 峰之沢鉱山

 龍山は一時、銅鉱山で繁栄したという。大勢の人々が暮らし活気に溢れ龍山の急峻な斜面に映画館や会館、診療所に学校、スーパーなどがあり、明るく煌めいていた。その光は、現代では見る影もないが、記憶は残像として少し残っていた。鉱山閉鎖から50年、人の記憶もそう長くないと感じる。

 

龍山 うず

生活者の風景 龍山茶の畑

なぜここにある、という疑問すら生まれる茶畑。やはり見えるのは、対岸の山々林の中にかろうじて見える民家、眼下には天竜川。竜神信仰にも興味がありある本を読んだ。長野県諏訪から始まる天竜川に伝わる数々の伝説、龍山にも残る竜にちなんだ地名、竜頭山、尾曲、瀬尻、、、。畑作業の一服のひととき天竜川から噴き上げる風に乗って泳ぐ竜の姿が見えたのではないか。

 

龍山 きんもくせい

音が見える風景 早朝の新開沢

美しい天竜杉の林の中の清流。のぞみさんが作曲をするためにしばしば訪れるという。上流には人の気配すら感じない。小鳥のさえずり、水の流れ、木々のなびき、風の渡り、人が織りなすものがない世界。のぞみさんの耳で見ている風景を感じる。河原に降りると僕たちが踏み込むたびに鳴る石ころの擦れる音がした。そこではしゃぐ僕たちの音も少しだけ調和していた。

 

龍山 すきま

人々を見守る風景 瀬尻白山神社

雨の龍山にも出会えた。これも龍山の日常の一場面。川面や稜線を霧が覆い、平坦な諧調の風景画のように見える。山頂にある龍山を守る瀬尻白山神社に向かう。標高が上がるにつれて強風と雨が強まり、雨雲と霧と杉林に囲まれ明度が低くなった頃に神社に着いた。宮司さんは神社にあかりを灯し、神社の謂れを話してくれた。

宮司さん「この神社と場所が好きで、ずっと守っていきたいとう思いを持ちお仕えしている」と、、、。こういうひとつの力から力がもらえた。

 

可能性へ続く風景 龍山の体験

 わたしは、長年大学で現代アートを教えていて、今回はその仲間たち4名を同伴して龍山を訪れた。龍山で僕たちを迎え入れてくれたのは、龍山出身で天竜四季の森音楽団を主宰する作曲家の鈴木のぞみさん、浜松山里いきいき応援隊の長谷山大騎さん、鈴木千陽さん。僕たちは日常を離れてのぞみさんたちの日常へ割り込み、のぞみさんたちの日常も変化したはずだ。人と人の関係は色が混じるようで徐々に馴染んで行くのかとても面白い。のぞみさんたちは、精一杯、龍山をぼくたちに伝えてくれたし、ぼくたちも初めて見る龍山を構成する風景や人々の暮らしの中に入り込み、膨大な気づきがあった。4日間過ぎてみれば、みんなで撮影した写真1700枚。それぞれがいろんな視点で龍山を見つめた証だと思う。もちろん、自分の目で見たものを切り取っている。

現代アートの潮流に、特権主義や中央集権主義に対する問いと反省のなかから、大きなマーケットや過度な競争や駆け引きのプラットーホームではなく、ひとりの人間性を尊重しながら協働するプラットホームへの移行の可能性を問う「アーティスト・コレクティブ」がある。この流れは、具体的に各所で起こっている。ドイツのアーティスト、ボイスのことば「自ら考え、自ら決定し、自ら行動する人を私は芸術家と呼ぶ」わたしも全面的に同意する。

いま、まさにわたしたちに降り掛かり生活を翻弄し続ける新型コロナ感染症、異国で起こっている凄惨な事象もこれからぼくたちにも違う形で降り掛かってくる。そんな時勢わたしのやっている現代アートで何ができるのかつくづく無力感に苛まれる。アートは可能性を示す可能性のための可能性。そこにいる人が自分にとって大切で意味のあることを考えて決定し継続という形で行動していくこと、効率性より有効性を問うこと、誰でも自然と体現していると思う。そんな芸術家がとても大切で愛おしい。活動すること自体を目的化しないで、この魅力的な芸術家同士の出会いを温めていきたい。

 

龍山には、幸い破壊されずに残っているたくさんの記憶の宝ものがある。そこには、のぞみさん、長谷山くん、千陽さんがいる。大きくなくていいと思う、ひとりひとりが互いの感性を楽しみ認め、一過性ではなく無理のない継続を希求してやまない。

最後に、快く迎え入れてくれた龍山の皆さん、レジデンスの機会をいただいたアーツカウンシルしずおかのみなさん、素敵な感性の交換をしてくれた、のぞみさん、長谷やくん、千陽さんに感謝申し上げます。

 また会いましょう。


龍山  うえ した


 

 

 

 

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