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RegTechとしての企業倫理 - 法は良心を形成しうるか

ナイキの人種差別反対を訴えるCMが賛否を呼んでいる。

全体としての反差別のメッセージに反対する人は少ないだろうが、「まるで日本人が外国人を差別しているかのような内容だ」と反発を感じる人も一定数存在する。こうしたCMがわざわざ日本向けに作られた意図や背景については、今後明らかになっていくだろうが、ナイキをはじめとする米国企業(特にBtoCのコンシューマー商品を扱う企業)が、こうした社会正義のメッセージを込めたCMやプロモーションを行うことは珍しくない。ナイキは今年前半に全米各地にBLM運動が広まったときも、これを支持するCMを公開し、話題となった。

ナイキのBLM支持を表明したCM

ナイキは「CSRの優等生」と呼ばれるほど企業の社会的責任に対して積極的に行動する企業として知られており、差別反対や環境保護のメッセージを打ち出すのは今回が初めてではない。そういう意味では、今回のCMも同社のCSR基準からすれば「通常営業」の範囲内ともいえる。

同社が今回のようなCMを作成した理由としては、そうしたメッセージを好む層へのマーケティングとして捉える冷めた見方もある。営利企業である以上、そうした側面もあるだろう。また、米国では企業の差別行為を監視して批判するアムネスティのような国際的NGOや消費者団体が目を光らせており、不正義に加担したと見られると大規模な不買運動が組織される(後述するが、ナイキも1990年代に差別の加害者として糾弾された苦い過去を持っている)。こうしたレピュテーション・リスクに対応するため、常に自社が社会的公正を重視していることをアピールするプレッシャーは、日本企業に比べるとはるかに大きい。

しかし、米国企業がこうした社会正義への準拠をアピールする理由には、もう一つ米国特有の背景がある。それが本稿でメインテーマとして取り上げる法とそれに基づいた政府による介入である。簡単に言うと、米国には人種や性別による差別を禁止する法律が存在しており、それを根拠に政府が企業を訴えて制裁金を課すことがたびたび起きる。米国企業にとって、CSRというのは企業のブランディングという以上に、明確な経営リスクへの対応 ― いわば規制対応の一つという重要な意味を持っているのである。

米国の差別禁止法

たとえば、米国における企業を対象とした差別禁止の法律としては、金融分野におけるECOAという法律が有名である。

ECOAは「The Equal Credit Opportunity Act」の略で、1974年に施行された。ECOAは、クレジットカードやローンを申し込む時に、申請者が「人種、肌の色、宗教、国籍、性別、配偶者の有無、年齢」などを理由に不利な扱いを受けることを禁止する法律であり、いわゆる信用差別を禁じている。ECOAが制定される前の米国では、女性であるとか黒人やヒスパニックであるという理由でクレジットカードの審査を落とされたり、ローンの条件を悪くされるということがまかり通っていたという。

主に監視の対象となるのは、銀行やカード会社、信用組合などの金融機関であり、企業が差別的行為を行っている疑いがある場合、司法省がECOAに基づいて企業を訴えることができる。ECOAはよく日本にある努力目標を定めたお飾りの法律ではなく、過去ECOAによって訴えられた企業は数多い。

たとえば、2012年にはクレジットカード大手のアメリカン・エキスプレスの子会社3社が訴えられ、$85Mの制裁金を課された。2015年には日系企業ホンダの子会社アメリカン・ホンダ・ファイナンスが、オートローンの審査において黒人、ヒスパニック、アジア系の申請者が白人に比べて高い金利を課されたことを理由に訴えられ、$24Mの制裁金を課された。企業を斬る刃のついた実効性のある法律なのだ。

少し横道に逸れるが、今年前半に全米各地でBLM運動が広まったとき、ホンダは日系企業としては珍しく、早期にBLM支持を表明した。

これはもちろん、純粋に企業としての社会的責任を果たしたという部分もあるだろうが、2015年の事件が頭をよぎったというのは穿った見方だろうか。よく知られているように、ホンダの最大の稼ぎ頭は北米市場であり、米国で不買運動に繋がるようなことがあれば致命的な打撃をこうむる。ただでさえコロナ禍で自動車販売の落ち込みが激しい時期であり、「人種差別に加担した」という負の歴史を掘り起こされることは絶対に避けねばならないタイミングだった。先手を打って批判を封じた、見事なリスク管理だったと思う。

余談ついでに歴史を遡ると、ホンダは1988年にもオハイオ州で黒人や女性に対する雇用差別訴訟を起こされ、$6Mの和解金を支払ったことがある。これは別にホンダが特別に差別的というわけではなく、米国進出に積極的で、同地での企業と人権の問題に早くから直面した歴史を持っているということである(後で見るように、少なくない米国企業も差別や人権の問題で炎上を経験している)。

話を戻すと、ECOAに見られるように、米国では不当な差別を行っていると政府が認定した場合、政府が企業を訴えることが普通に起きる。矢面に立たされやすいのは、一般消費者にサービスや消費財を提供するBtoCの企業、いわゆる金融やリテールが多いが、BtoC企業だとしても油断はできない。先日記事で取り上げたソフトウェア企業のPalantirもオバマ政権時代に人種差別を理由に連邦政府から訴えられたことがあるが、この時の訴因は「雇用する従業員に不当にアジア系が少ない。選考過程に偏見が含まれている」という疑いだった(結局Palantirは$1.8Mの和解金を支払った)。こうした雇用差別はあらゆる企業で起きる可能性があるため、気を抜くことはできない。

また、冒頭でも述べたように、政府から訴えられることがなくても、大規模な不買運動を起こされることも多い。コカ・コーラ、アディダス、GAPといったグローバル展開するコンシューマー企業は、だいたい一度は人種差別や労働者の人権侵害といった行為への関与を告発され、大規模なボイコットを経験している。今回議論を呼んだナイキもまた、過去に差別や人権侵害への関与によって不買運動を展開された苦い経験を有している。「搾取工場(Sweatshop)」と呼ばれる問題である。

1997年、ナイキが委託するインドネシアやベトナムといった東南アジアの工場で、低賃金労働、劣悪な環境での長時間労働、児童労働、強制労働が発覚。この事態に米国のNGOなどがナイキの社会的責任について批判した。世界的な製品の不買運動が起こり、経済的に大きな打撃を受けた。

同社は企業の責任として、サプライヤーの労働環境や安全衛生状況の確保、児童労働を含む人権問題に取り組まなければならないことを、身をもって経験した。これを契機にCSRへの配慮を進めていったのである。

法によって良心は作れるか

このように、米国企業というのは世論や人権団体からの監視と、公的機関からの訴追という二重の外部環境を意識して企業活動を営む必要がある。企業の行為が差別的・人権侵害的であるとして政府が訴えてくるというのは、日本ではまず起きないだろう(逆に国家賠償で政府が訴えられることはたびたびあるが)。

こうした不正義を是正するアプローチは、法によって良心や倫理といった人間の内面領域をコントロールすることを許容するものだとも言えるが、米国の様々な差別禁止法の礎となっているのは、1950年代から起きた公民権運動の成果である公民権法(1964年成立)である。この法律によって、人種や宗教、出身国などの属性によって公共施設、レストラン、ホテル等の施設での分離や財・サービス等のアクセスへの不平等を禁止することが定められた。ECOAが公民権法の金融分野における系であることは、言うまでもない。

こうした法によって差別撤廃を推進するアプローチは、トランプ政権において一時足踏みしたが、民主党政権が成立することで再び加速する可能性が高い。次期大統領のバイデンは、就任後100日以内に平等法を成立させると公言している。これは、同性愛者など性的マイノリティに対する差別を規制する法律であり、公民権法をさらに拡大するものである。

共和党が多数を維持すると見られる上院で可決できるかは未知数だが、米国が法による良心の形成を躊躇しないどころか積極的に推進することの好例である(こうした方向性の淵源を探っていくと、合衆国憲法で内面の自由が明示的に保障されていない、というあたりまで行きつくだろう)。

こうした強力な法律が存在することで、企業としては、消費者からの不買運動のみならず、法規制(レギュレーション)の遵守という観点からもCSRを考える必要があり、これが米国企業のPR戦略に大きな影響を及ぼしている。ときどき在米邦人などから「米国企業が社会的価値や倫理について積極的にメッセージを発信するのに対し、日本企業は営利活動に集中していて社会的責任についてのスタンスが見えない」という批判がなされることがあるが、これは必ずしも日本企業(あるいは主語を大きくして日本社会)が倫理的に劣っているということをただちに意味しない。両国の企業の置かれている環境があまりに違うからである。

日本では企業倫理や社会的責任は、米国に比べれば法律や規制の形であまり実装されておらず、世論というソフトパワーへの対応がメインなのに対して、米国企業にとっては法律、訴訟、制裁金といったソリッドなリスクとして見えている。企業というのが消費者の需要という狭義の市場だけでなく、外部的な環境要因の集合という広義の市場の要求に応えていく主体である以上、環境に対するレスポンスとして企業活動の現れ方が異なる点は、見過ごすべきではないだろう。

RegTech - 技術は倫理の問題を解決するか

法によって企業の - それは要するにそこで働く人間の -良心や倫理を統制しよう、というアプローチを突き詰めていくと、いささかグロテスクにも見える景色が出現する。特に、それがシリコンバレーのあらゆる問題を技術課題へ落とし込み、効率性と生産性の指標に置き換えていく解決主義(Solutionism)と出会うと、RegTechという不思議な技術ジャンルを生み出すことになる。

様々な応用領域に技術を適用して「〇〇Tech」と呼ぶのはここ数年の米国テクノロジー業界の流行で、Fintechという成功例に勇気づけられてWeedTechやSexTechなど珍妙なx-Techが登場しているが、RegTechはその中でもひときわ不思議なものである。もっとも、RegTechのもともとの発想がそれほどおかしいわけではなく、金融に代表される複雑な規制に対応する必要のある業界で、規制対応を効率的に実施するという目的で考えられた分野であり、それ自体は自然な発想である(当初はFintechのサブ分野として位置付けられていた)。政府が金融機関に課す規制は、基本的には経営の透明性や収支など純粋に会計的なものが多く、それらのレポーティングを自動化して効率化したり、透明性を高めるのは理に適っている。

しかし、米国で問題になるのが上述のECOAのように倫理的基準を課す法律である。ここにテクノロジーで対応しようとすると、「ん?」という方向性が出てくる。たとえばECOAは、クレジットカードやローンの審査で落ちたとき、申請者からの理由開示請求に応じることを金融機関に義務付けている。差別的理由で落ちたのでないことを証明するためである。一方で、こうした審査業務をAIで自動化していく試みが盛んにおこなわれているが、AIのブラックボックス性の高さから、ある申請者が落ちた理由を明確にするのが難しい。

もし仮に、AIに審査を任せていたら黒人の申請者が明らかに落とされやすいという不穏な結果が出たとき、AIのアルゴリズムがECOAに反していないと証明する必要が生じる可能性は高い。ほかにも、米国連邦政府は「SR 11-7: Guidance on Model Risk Management」というガイドラインを金融機関向けに出している。これは、審査などのモデルに対してリスクを厳格に管理および統制することを義務付ける規制で、数理的・統計的モデルも対象となっているため、AIのモデルも含まれると想定される。もし人種や性別のような差別的特徴量をこっそりモデルに利用する金融機関がいた場合、このガイドラインに抵触する可能性が高い。このように、AIのようなブラックボックス的機構は情報の非対称性を生むため、透明性を要求する法律と相性が悪い。

こうした懸念から、現在米国ではAIの判断プロセスを人間に分かりやすい形で提示する説明可能AI(XAI)に注目が集まっており、多くのAIスタートアップが技術開発に取り組んでいる(この「説明」が本当に有意味なのか、という点にはまだ懐疑的な点も多いが)。IBMやマイクロソフトといった金融機関を顧客として持つ大手ベンダもAIの公平性や透明性を担保するための技術開発に力を入れており、ModelOpsというモデルの監査やトレーサビリティの運用を自動化する分野も立ち上がろうとしている。IBMのOpenScaleはこの分野の先駆と言ってよい。監査法人のKPMGはOpenScaleを使って「AIモデル監査」なるサービスまで始めている。今後、監査法人の仕事にはAIモデルの倫理性に関する監査も入ってくるのだろう。

アクセンチュアが公開しているAI倫理に関するレポート「RESPONSIBLE AI: A Framework for Building Trust in Your AI Solutions」では、次のように述べられている。

AI技術が社会へ浸透し、既存のソリューションに深く組み込まれ、給付金の支払いや住宅ローンの承認、医療診断などの意思決定を担当するようになると、AI技術の可視性や透明性は低下していきます。自律走行車や倉庫ロボットとは異なり、アルゴリズムは目に見えません。

組織が「ブラックボックス」アプローチでAIを採用すると、倫理的なリスクだけでなく、法規制上のリスクにも直面することになります。

ここでは、倫理的リスクと法規制上のリスクは並列され、ほぼ同義として扱われている。「AIの倫理だの公平性だのいったところで、しょせんこの世は規制対応」というリアリズムを感じる。

このように、米国のテック業界では、平等や公平性といった社会的価値に属する問題を技術課題に置き換えて解決策を探るRegTechが急速に発展している。その合理性を誉めるべきかもしれないが、倫理や良心に属する問題をあっけらかんと技術パズルに落とし込む解決主義のスタンスには、少し不気味なものを感じるのも事実である。倫理というのは、もう少し自省とか反省とか、人間の内面と結びついた領域ではないのか? という素朴な疑問も湧き起こるが、シリコンバレーの解決主義者からは「でも規制には対応しないといけないでしょ」と返されるのだろう。内心でどう思っているかより、外面に現れた行動によって倫理は測定されるのであり、測定されないものは存在しない、というのが解決主義のテーゼだ。

法規制によって企業と人間の行動を変容していくことで、倫理的な社会を実現するという米国流のアプローチは成功するだろうか。そのアプローチにシリコンバレーの解決主義はどのような役割を果たすだろうか。今後数年の間にその姿はより鮮明になってくると思われる。RegTechという、一見地味だが倫理と解決主義の交差するポイントについて、注目していただければ幸いだ。



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