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日記 2024.9.3 墜落フェチの話

 夜になってしんしん鳴いているのは秋の虫だろうかと思えばすぐに止んだので、会社貸与のノートパソコンが呻いていただけだったのかもしれない。よく考えればマンションの13階まで飛んできたとしたら相当に虫くんがんばってるな。燃えてよだかの星にでもなる気かよ。

哀れなる哉、イカルスが幾人も来ておつこちる。

 夜空を昇った末に天体になる話の類でいうと、この梶井基次郎「Kの昇天」で引かれているラフォルグの詩の一節が昔からずっとわたしは気になっている。よだかは星になったし、Kは月へ昇った。本当はどちらかというとそれが普遍的な人間の切なる希望なのだろう。しかしわたしが時に夢想するのはどういう訳か昇天ではなく墜落の方なのだ。この先もし自殺することがあるなら絶対に身投げがいい。ちなみに残念ながら今のところ自殺の予定はありません。
 もちろん自分で墜落したこともない癖に墜落を語るなという人もあるかもしれないけれど、探せばこの世には(疑似)墜落体験ができる場所がある。たとえば、わたしが好きなのは東京ディズニーシーのタワー・オブ・テラーだし、遊園地によくある海賊船みたいなアトラクションもわりと墜落系だ。バンジージャンプやスカイダイビングはずっと長らく行ってみたいと思っているのだが、誰もお連れになってくれないのでまだ行けないでいる。まだまだわたしは墜落初心者なのかもしれない。いずれにせよ、とにかくあの胃袋がゾワッと浮き上がるような落下の感覚だけでも堪らない。癖になる。
 さて、ラフォルグの1節に話を戻すと、この1節の好きなところは、どれだけ天に挑んでも落下してしまう人間の切なさ・愚かさと、それを詠うどこか諧謔的な語りの調子だ。大いなる天に対峙したとき人間たちはあまりにもちっぽけな存在で、それはほとんど面白可笑しいほどなのかもしれない。たぶんわたしは神(攻め)×人(受け)のカップリング推しみたいな感じなので、人がかわいそかわいいシチュが最高にしんどい。さらに、それを描くのにこのどこか皮肉っぽいような文体を選んだラフォルグさん(あるいは訳者の上田敏さん)天才。

お月さまは盲だ、険難至極な燈台だ。
哀れなる哉、イカルスが幾人も来ておつこちる。

 もちろんそれはあまりにも希望がないではないかと思うかもしれない。かわいそかわいいなんて暴力だろう。人が苦しみ、ましてや死んでいるんだぞ。そういわれても仕方がないかもしれない。
 でも、わたしは墜落にもある種の希望はあると思う。これはきっと幻想のようなものなのかもしれないけれど、墜落してついに地面に触れる直前の瞬間には永遠があるかもしれないと思うからだ。もちろん地面に触れた瞬間、肉は裂け骨は粉々になり、痛みを感じるか感じないかのうちに墜落した人は死んでしまうだろう。その人にとっての世界の終わりだ。だが、だからこそ地面に触れる直前の瞬間は永遠になるのではないだろうか。次の瞬間から世界が存在しないのだとしたら、その瞬間は永遠に終わらない。まるでどこまでいっても軸と交わらない双曲線のように。
 これは、くだらない空想かもしれない。自分は拳銃自殺をして人神になるといって死んだアレクセイ・ニーロイチ・キリーロフだって、結局ただの死体になって暗い部屋で転がっていた。しかし、よく考えてみてほしい。わたしたち人間は絶対に天にも昇れないし、絶対に燃えて天体になったりもしないのだ。それはわたしたちの宿命だ。人は天には決して敵わない。それなら、せめて永遠に墜落しつづけていたいと思わないだろうか。それが天に対峙するわたしたちにかろうじて願える唯一の希望、あるいは抗いといってもよいのではないだろうか。

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