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人間が楽しくなる妄草//ツタバウンラン

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窮屈そうだと思うのは、あなたで。
私ではない。
私は此処が、パラダイス。
此処から広がる世界で、存分に遊びまわっている。

このツタバウンランと対峙したとき、こんな生意気な気持ちを抱えていた幼少期の自分を、ふと思い出して苦笑した。

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そんなことしないで、こうしたら?
そんなとこにいないで、こっちにきたら?
よく言われる言葉。

どうも私は、やることも居座る場所も、窮屈そうにみえるらしい。

だから私は、雑草のように、すぽっと、引っこ抜かれたことがある。

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幼少期、友達の家。


ひとり、こもりたかった私は、大きなソファの後ろにひそみ、暗く狭い空間を楽しんでいた。

少しして、「外で遊ぼう」という声が聞こえてきた。

と思ったら、どんどん足音が近づいてきて、見つかった私。

「こんなところにいないで、みんなと外で遊んだら楽しいよ」

頑なに拒む私。

「ほら、おいで」

腕をとられ、ソファの後ろからでてくるよう促される。

私は必死に、抵抗した。
この暗く狭い空間で、いま広がりはじめた好奇心躍る自分だけの世界。
もーー邪魔しないでーーー!!


友達のお母さんがひっぱる腕。


私の動くまいと踏ん張った身体。

すぽっ

と何かが外れた感覚。

引っこ抜かれた…?

現実では、ボリッという骨が動く音。


肩が、外れていた。
脱臼した。


すぐには治らず1ヶ月ほど通院。

物凄く謝られたけど、友達のお母さんは決して悪い人ではないし、悪いことをしたとも言い難い。

よかれと思って、私を外の世界に連れ出そうとしてくれた。

無理やり引っ張ったというよりは、抵抗する私の力があまりにも強かったんだと思う。


雑草たちをみていても、なんでそんなところに!?と突っ込みたくなるような場所で生きていることが、多々ある。

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はたからみると、窮屈そうな場所。
生き辛そうな場所。

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"じゃあ、そんな場所から引っこ抜いて、もっと広々生きやすそうな場所に連れていってあげよう"

もちろん、広い世界で力強く根付いていく者もいる。
でも一方、移された場所で、その環境に適応できず、段々と弱っていく者もいる。

よかれと思ってやったことが、裏目にでることもある。


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はたから見たときの「窮屈そう」とか「かわいそう」とか「生きづらそう」とかって、当事者の“実際”ではなく、傍観者の視点からみた"推測"に過ぎない。

人間のなかでも、同じで。
傍観者が当事者の状況を決めつけることはできない。
…はずなんだけど
自分のなかの基準が当たり前になってしまって、思わぬところで誰かを正そうとしてしまう。


それも、厄介なことに、「優しさ」や「思いやり」という良心的な心持ちが作用して。
だからこそ、当事者の“実際”に、気付きにくい。


誰だって当事者でもあり、傍観者でもある。
私も知らず知らずのうちに、誰かを引っこ抜いて弱らせたことがあるのかもしれない。


もちろん、“実際に”窮屈な人間をそこから引っこ抜いて救えるのは、素晴らしいことだというのは前提で、、


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