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#108「世界を(カッコ)に入れてみる」フッサールの現象学のはなし(その2)

前回、現象学の話をラジオでしてます。個人的にその内容を書きましたが、ここでは本来、現象学とは何かを専門家の著書から翻訳してみます。詳しくは参考文献ごらんください。
参考文献・轟孝夫(防衛大教授)「ハイデガー『存在と時間』入門」講談社現代新書2437 1000円 2017  PP 162より

世界の現れ方を意識がどのように把握するかを記述するのが現象学です

通常、わたしたちは世界には客観的事実があると思ってます。それは特権的意識、つまり、「自然科学の方法」により把握できるとしています。ではそれ以外のものはどうかというと、客観的でない・つまり主観的ということです。

現象学はこのことについて異議申し立てしています。意識にあらわれるものが実在しているかどうか、それはいったんカッコに入れて、多様な現象のありかたを認めていくという方向です。多様な実在のありかたを認める態度です。

ここで「あり方」というのが広い意味で「存在」ということになります。道具がある。それを客観的にみてハサミだとする。それで終わり?

それでその道具を把握したといえるのだろうか?現象学とは、ものごとの存在や意味をつねにそれが現れる場である意識との関係においてとらえようとする態度を意味します。

道具が使用されている状況とその状態の場面にそくして記述することこそ道具の存在を本質として明らかにすることができる。

これにより道具固有の現象が記述できる。道具を使おうとする志向性そのものの意識を記述することが現象学の本質です。   「意識はつねに何ものかについての意識である」とフッサールがいいます。

科学的な客観性にしても、観察の結果、意識が構成したということになりかす。だから、結果は意識があり観察対象がありそれを意識が構成しているということです。それは主観だというなら、主観と主観の間の間主観によって正確さを担保しようではないか。

そうなると、科学とはなにか・自然科学は信用できない?ということになります。これについては別の機会に話したいと思います。by髙松