神話は現代社会にもあるのかどうか。必要なのかどうか――エリアーデとモルガン

   エリアーデは神話意識とは存在論的な世界了解であって、それに侵入された聖的人間は神話を体現し、すべての人間の本質的活動(食事・性生活・労働・教育など)に対する模範的典型を確立し、特定の時空においてそれを語り、儀式によって神話を再現するという(『聖と俗』第二章、ウニヴェルシタス叢書、風間敏夫訳、一九六九年)。興味深いのは、エリアーデが、そのような神話的心性を、たとえば現代社会でいえば教育における範型の伝承、さらにスポーツ、芝居や映画への集中化した時間や読書への熱中の中に再現されているのだとしていることである(『神話と夢想と秘儀』岡三郎訳、国文社。一九七二年)。読書への熱中ということになれば、その先にはたとえば学術の世界がある訳であるが、その内容がどのようなものであろうとも、それらの心的態度そのものは神話に共通するような存在論的了解という性格を帯びてくる。一度世界の外に出て世界を一望の下に入れたかのような超越(トランス)の感覚の中で存在をふかく捉え直すことである。
 もちろん、そういう神話者は神話時代と現在では、その社会的存在の仕方を異にしているが、しかし、それも一つの「俗」的な社会的分業として存在していることはいうまでもない。このことを考える上で、当面の糸口としておきたいのはモルガンの『古代社会』である。そこでモルガンはWilderness(野性)の時代の後期において最低形態の自然力崇拝と呪物崇拝(フェティシズム)があらわれ、Barbarismの時代の前期に霊の漠然たる認識をともなった自然力崇拝がうまれ、その中期には聖職をともなう人間化した神々が人間の生け贄とともに発生し、その後期には詩の発展と神話の神々のパンテオン、そしてそれにともなう大規模神殿が建設されるにいたると述べている(なおこのBarbarism、Barbaroiという言葉は普通、未開と訳されるが、本来は「鳥のような言葉を話す人」、つまり異文化の人々という意味である。「未開」では「野性」と意味の区別ができないから、これは「異文化の時代」、より端的には上記のモルガンの記述からして「神話時代」と訳した方がよいであろう)。
 我々は、この神話時代における社会的意識形態をどう考えるかという理論的問題をもっているはずなのではないだろうか。もちろん、神話時代における社会的意識をすべて聖なる神話的な意識形態に解消する訳にはいかない。モルガンはBarbarismの時代の指標として「共通の宗教的儀式・審問」を挙げ、そこには「男女の信仰の番人」がいるとしているが、彼ら以外の人々は聖なる存在論的な問いに日常的に侵入されてはいない。「男女の信仰の番人」自体も、実は「俗」的な存在であったことは当然である。また本書で取り扱っているような国家段階では、神話が何重にも操作された虚偽意識を中枢にもつこともいうまでもないことである。しかし、神話時代の人々に一般的な社会意識形態は何らかの意味で神話的なものであったことは否定できない。それが偶像崇拝、呪物崇拝(フェティシズム)をベースにした意識形態であり、そのような呪物崇拝は現在までも貨幣や商品、さらに畏るべき自然などへの意識として社会的意識のベースとなっているということもできよう。歴史学研究は神話学と協同して、実証作業のみでなくこのような問題に対する理論的思考を支え、その謎をとくことに参画する役割ももっているはずである。

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