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197/1096 金木犀の香り

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で197日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

197日目、今日はとても明るい気分だ。いよいよ200日が近づいてきたことが思ったよりも嬉しくて、3日後がとても楽しみ。

今日は、いつもと趣を変えて、なぜか昨夜ふと浮かんできた物語を書いてみようと思う。大したものは書けないけれど、物語を書くのは本当に楽しい。
ときどき書くと、投稿を続けるスパイスになってくれて嬉しい。

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『金木犀の香り』

コンビニでよく考えずに選んだ弁当に微妙に後悔しながら、俺は家までの道を歩いていた。おにぎりと豚汁の組み合わせにすりゃよかった。こんなに遅く揚げ物を食うとまた胃がもたれる気がする。明日も早いから、よく眠れないと困るな・・・

春の夜道は、冬の間の切るような冷たさは誤解だったと言うように色めいていた。金木犀の香りと、どこかの家から漂ってくる入浴剤の匂いとの混ざった空気が、まるで地面に触れてなどいないように軽くて、歩く俺を良い気分に誘ってくれているようだ。

最寄り駅から歩いて15分ほどのアパートに帰り着いたら、もう11時を回っていた。週末にでも近道を探せば、駅からここまではもっと短くなるだろう。

引っ越したばかりのこの安アパートは、俺にとって新天地と言える環境だった。駅にも近いし、帰る途中にコンビニもある。これまでやってきた大手中古品屋のチェーン店でのバイトを辞めて、ハウスリフォーム会社で念願の正社員契約を結んだ。四年もの間バスで職場に通い、レジ打ちと商品チェックばかりをし続けた俺にとって、スーツを着て電車で出勤をするだけで男としての格が上がったような気分だ。

鍵を開けて部屋に入ると、組み立てたばかりの棚の匂いがする。ドアを閉めると部屋は暗く、壁の電気のスイッチの位置がわからなかった。たしかこの辺りだったと思える場所を手探りで探しても見つからず、記憶があやふやになってきた。ああ、はやく気を休めて新しい部屋でくつろぎたい。
俺はすぐに諦めて暗いキッチンを突っ切り、奥のリビング兼寝室兼パソコン部屋のパソコンデスクにあるマウスを探し、手探りでスリープを解除した。ぼんやりと青い光が部屋を照らした。新しい場所にまだリラックスできないからか、疲れているのに頭だけが冴えている。

手に持ったビニール袋から弁当の安っぽくてうまそうな香りがしてきた。
すぐさまキッチンに戻って電気を点けようと、俺は部屋の方に振り返って床にカバンを置いた。置いたはいいが、その、カバンを置く一瞬前に、俺は視界にひどくぞっとする違和感を覚えた。

床を見る前に、デスクの端に何かが見えた。見えた、気がする。ちょうど人の顔みたいなものが・・・・もちろん見間違いに違いないが、俺は恐怖で硬直した。何も考えずに振り返って確かめたいが、じっとしたまま動けない。でもこのままじっとているとますます怖くなってくる。コンビニの袋が呼吸に合わせてチリチリと音を立てた。

このままこうしていても仕方ない・・・まず見間違いだ、確かめよう・・・俺は目を見開いたまま、どこかで平気なふりをしたくて身体だけは緩やかに動かして、そのまま静かに後ろを振り返ってみた。そして机とサッシ窓の間に見えた「もの」に俺は完全にパニックになり、微動だにできなくなった。

デスクとサッシとの隙間は10センチほど。その間に、子供がいた。男の子だ。もちろん生きた人間などではない。肩から上が見える。顔は少し斜め上を向いていて、その、目が、、、、、、思い切り斜め上を見上げている。口が少し開いている。いかなる感情とも切り離されたような、異様な表情だった。

俺は目が離せず呼吸もできないまま、これに背を向けるのが恐ろしくて全身が異常に鋭敏になったまま固まっていた。ずっとこのままではいられないと思い、かすかな理性でやっとの事で一歩後ずさったとき、それが合図になったかのように、意思を介さずに無我夢中で後ろ向きにキッチンまで進んで、そこからは前を向いてドアに突進して外に転がり出た。あとはもう、強烈な耳鳴りがするような感覚の中、狂ったように階下に降り、道路に駆け出した。

なんだ、なんなんだあれは・・・!!確かに見えたぞ!!俺には霊感などないし、疲れているとは言えそこまで正気を失うようなストレスだってない。一体何であんなものが見えたんだ、、あれは何がしたいんだ、なんであそこにいるんだ・・?!

自分になにかとんでもなくマズいことが起こっているのではないかと考えると、恐怖心はさらに増した。俺、これ、どうしたらいいんだ・・・・

あの顔を思い出すといても立ってもいられなくて、俺はどこかで朝になるのを待つことにした。幸い、財布はズボンのポケットに入っている。正気が戻ってきたとは言え、歩きだしてからも俺はアパートをふり返ることすらできなかった。

朝になって、アパートに戻った。少し開けてあった窓から陽が射して、部屋は明るかった。口笛を吹きながら引越し作業を終えた気楽な様子のままだ。
俺はそれでもデスクの方を見るのに躊躇した。急いで窓を全開にして、陽の光と空気を入れた。このときほど、こんなに日差しや空気をありがたいと思ったことはこれまでにない。部屋の中が善良なもので洗われるようだった。その爽やかな気分に便乗して目の端でそーっと見てみると、デスクとサッシの間に、あの子供はいなかった。

あれ、ここに毎夜出るんだろうか。一体、ここでなにがあったのだろう。そんなことを悠長に考えられるほど、春の朝のこの部屋はほのぼのとしていた。昨夜買ってここに放置したあの弁当を温め直して食べながら、疲労で頭がジーンとするのを感じる。今夜も出たらどうしたらいいんだろう。俺はこのままではここで眠ってしまうと思い、会社に行く支度をして、快晴の春の陽気の中で不穏な心持ちのままアパートを出た。

仕事場で同僚の愚痴を聞いていると、俺はいつになく孤独を感じた。呑気なものだ・・・彼らにあの話をしたって、もちろん笑われるだけだ。誰も本気で心配したりはしない。それどころか、こっちの正気が疑われる。

定時が終わってからも仕事は終わらず、俺は会社に泊まろうか、それとも一緒に残業した上司に誘われた飲みに付き合うかを考えて、飲む方を選んだ。
酒の席ならあの話ができるかも知れない。

金曜の春の繁華街はほのかに浮ついていた。通行人は暖かくなってきたことをそれぞれの胸で喜びながら、そこに照れくささを感じているような機嫌のいい人ばかりだった。こんな風景を見ていると、だんだんあのことが嘘だったような、大したことでもないような気がしてくる。

こんな繁華街にも金木犀の香りが届いている。俺は上司に、これ金木犀の香りですよね、と言ってみた。しかし彼は、俺には香らないぞ?と言って笑った。

お通しが運ばれてきて、ビールを一口飲んで気がついた。俺はひどく疲れている。アルコールがものすごくしみて、胃に申し訳ないほどだ。ビールのおかわりをするころ、俺はわりと親しくしているその上司に昨夜の事の顛末を話した。

上司は茶化しもせず、その間一口も食べずビールも飲まずに真剣に聞いてくれた。俺はそれだけでとてつもなく癒やされるのを感じた。一日、自分があの緊張を引きずっていたことが改めて感じられた。全身がいつになく力んでいたのが今になってよくわかる。

一通り話し終えたところで上司が言った。「それで、今夜はどうするんだ。帰りたくなければ俺んとこに来てもいいぞ」
俺は酒で気が大きくなっていたのか、「いや、今夜も出るのか見に帰ってみます。もしまた出たら、明日こそお世話になるかも知れません」と言ってしまった。バカな見栄で、上司に男気を見せたかった。
すると、彼は少し驚いたような目をしたあとにこう言った。「そうか、何かあったらとにかく電話しろよ。しかし、その子は何が心残りなんだろうな・・・」

疲れた身体にはいつもよりずっと酔いが回り、俺は自分の酒臭い鼻息を感じながら電車に乗って帰った。その間、ずっと考えていた。上司が「その子は何が心残りなんだろうな・・」と言ったことが、俺には衝撃だった。まるで心のある生きた人間に対して思うことじゃないか。
あの異様な表情を見たからか、俺はその時まであれを「あの子」とすら思っていなかった。ただの化けものだとしか思っていなかった。でも、生きていた子供だったと考えると、どこかで罪の意識を感じた。俺は自分でもはっきりと理由がわからないまま、なにかに傷ついた。

あの上司の言葉で初めて俺は「あの子供に、何があったんだろう」と思った。なにか、恐怖がほんの少しだけやわらいだ気がする。人間だったなら、生きていたなら、子供だったのなら、、、あれは小学生の男の子だろう。なんであんなところにいるんだ。もしかして、死ぬ前に可哀想な目にでも遭ったんじゃないか?俺になにか言いたいのか、それともあそこにずっといたものなのか。いずれにせよ、俺に何かを求めているとしてもなにもしてやれない。俺はとにかく怖いだけだ。誰か、助けてやれないのかよ・・・・・
化けものだと思っていた昨夜とはだいぶ気持ちが違う。でも、あとで酒が冷めてきたらこんなふうには思えないのかも知れない。

暖かくなってきた外気に少し慰められながら駅からの道を歩いた。外はこんなに良い風が吹いているんだ、きっと今夜はなにもないさ・・・
ほろ酔い加減でそう思いながら暗いアパートの前に来てみると、昨夜、転がるようにここを出たときの記憶がまざまざとフラッシュバックした。あのときの俺は、生きた心地がしなかった。あの子供の異様な顔が思い出される。昨夜の恐怖が少しも色褪せずに蘇って迫ってきた。俺はバカだ。上司の家に泊めてもらえばよかった。とてもじゃないが、家に入る気がしない。

しばらくドアの前で躊躇していると、情けなくなってきた。俺は何をしているんだろう。勇敢な人なら、あっさりとドアを開けて中をチェックし、なんならあいつが居たって「出て行け!」と叫んで追っ払うんじゃないだろうか。ここでこうして自分の部屋にも入れないなんて、俺はなんて気が小さいんだろう。

すると、隣に住む人がラジオをかけ始めたのが聴こえた。聞き覚えのあるDJの声が英語訛りの日本語を響かせて、調子良く話している。俺はそれを聴いて目が覚めたようになって、ここでじっとしているのを誰かに見られるのも嫌だったし、家の中を一度チェックしてみようと考えた。そして勢いに任せて思い切って鍵を開けた。
ドアを大きく開けたままで中を覗いて、携帯で照らしてキッチンの電気のスイッチを入れる。そして靴を履いたままキッチンに入り、隣の部屋の電気をものすごいスピードで点けて、恐る恐るパソコンの方を見た。なんとなく予感していた通り、デスクとサッシとの間に、あの子供はいなかった。

あれは、幻覚か見間違いだったんだろうか。あの日は、新しい生活に緊張しすぎてどうかしていたのかも知れない。俺は部屋中の電気を点けて、ここまで明るければここで眠れるような気がした。IKEAのダンボールやスナック菓子のパッケージを見ると、ここがマトモな場所に思える。
疲れも限界だ。このまま眠ってシャワーは朝浴びよう。一度そう決めると、俺はあっという間にゆっくり眠ることへの強い誘惑にかられて、さっさとカバンを置いて靴を脱ぎ、急いで歯を磨いて、スーツを床に脱ぎ捨てたままベッドに潜り込んだ。

ぐっすり眠った次の朝、俺は9時を過ぎてから目が覚めた。部屋中にこうこうと電気が点いている。寝ぼけた頭で一応デスクのほうを見やると、やはりあの子供はいない。俺はホッとして上司に無事に眠れたとメッセージを入れた。土曜日なのに悪いと思ったが、心配させていても申し訳ない。

まだ身体に疲れが残っていて出かける気にもならないし、こんな日は気分が思い切り明るくなる映画でも見ようと思った俺は、近くのTSUTAYAにいってヒーローもののDVDを借りてきた。子供の頃にこういうものをあまり楽しませてもらえなかった俺は、いつまでもヒーロー系の映画が好きだ。

いつものコンビニで適当に食べ物を買って戻り、早速部屋の照明を少し落として暗くし、映画鑑賞の準備をした。DVDプレイヤーを起動してテレビをつけると、画面に映るものに合わせて暗い部屋の中で光が動いた。
部屋が暗いと多少怖い感じもするが、今はまだ午前中で、窓の外は陽が照っていて、目の前の道路を人々が行き来している。こんなときに幽霊の心配をするバカはいない。問題は、夜だ・・・

床に直接座って、大きいビーズクッションにもたれかかりながら映画を見始めた。スナック菓子を食べながら映画に熱中していると喉が渇いてきて、仕方なく一旦映画を停止して飲み物をとってくることにした。冷蔵庫から冷えたビールを取り出して蓋を開けながら部屋に入ろうとしたとき、俺は目をむいて凍りついた。デスクとパソコンの間には、あの子供がいた。

あのときとまったく同じ様子で。同じ場所に、同じ表情で立っていた。薄っすらと口を開けて、目は思い切り斜めを見上げて。テレビの画面から放たれる光が、彼の頬に当たっている。その部分は光の明るさに負けて形がわからなかった。俺はそれを見て気がついた・・・この子供は、部屋が暗いときにしか見えないのだと。部屋が明るいときには、ただ見えていなかっただけだ。あの日の朝戻ったときにも、昨夜俺が寝ている間も、この子供はずっとそこにいたんだ・・・・・俺は、ここにいる間ずっと、この子供と二人きりでいたんじゃないか・・・!!

昨夜俺は一晩ここで眠った。でもこの子供はここでこのままでじっとしていたんじゃないかという気がする。何も危害を加える気なんてないのかもしれない。

俺ははじめて見たときよりも不思議と恐怖が弱まっているのを感じた。どうしてこいつはまったく動かずにあのままでいるのだろう。それとも、これは俺の幻覚なのか?他の誰かにも見えるんだろうか。
なぜ斜め上を覗き込むように見ているのか、一体何が欲しいのか、どうしたいのか・・・

俺はだんだん、普通に生きている子供に対して持つような興味を持ち始めた。
 
まだ部屋に入ったり手に持ったビールを飲めるほどの余裕はなく、俺はキッチンの電気を点けてから、部屋に入って部屋の電気も点けた。
さっき思ったとおり、子供はその明るさの中では見えなくなった。
 
俺はビールを置いて、カーテンも窓も開けて部屋を外気にさらして、ベッドにドスンと座った。視界に姿が入らなければ、恐怖心は激減した。
さて、どうしたものだろう・・・・・

このままここに住んでいると、呪われたり取り憑かれたりするんだろうか。
それだけは勘弁してほしいが、どうしても俺にはこの子供がそんなに邪悪なものに思えなくなってきていた。

これを誰にも相談する気にならない。俺には母親はいないし、一人暮らしのオヤジとはこんなことで気軽に連絡したいと思えるような間柄でもない。
俺が小さかった頃に母親が出ていってから、オヤジは人が変わってしまった。仕事をして俺に食わせるだけの暮らしを不機嫌にこなしていた。俺はそんなオヤジにバットマンのアニメを見たいとすら言えなかった。この歳になって、幽霊が出るから助けてくれなんて言えるわけがない・・・

しばらくは部屋を明るく保って、塩を置いたりお祓いをしてもらったりしてみよう。それでもいなくならなかったら、引っ越しを考えるしかないな・・・
 
その後しばらく俺は、部屋に塩を盛って、日本酒を置いたり除霊用のハーブで煙を炊いたり、念仏を唱えたりしながらそこで暮らした。
寺に行ってお祓いもしてもらったし、金を払って霊能者といわれる人に見てもらったりもした。その霊能者は、俺には悪霊など憑いていないと言った。
 
最初はそれでも怖くてたまらなかったが、何も起こらない日々が続くうちに恐怖は薄れ、明るい部屋で眠るのにも慣れた。徐々に仕事も忙しくなって、俺はだんだんそのことを考える頻度が減ってきていた。
あの子供はこちらを睨みつけていたわけでもなければ、他に俺に異常が起こるわけでもない。金縛りに遭うこともないし、変な声が聞こえてきたり、寝ていると首を絞められたりだとか、悪夢を見ることだってない。
 
2ヶ月が過ぎるころ、俺はふと、今部屋を暗くしてみたらまだあの子供はいるのだろうかと思った。もしかしたら、これまでやってきたことが効いて、もういなくなっているのかもしれない。

6月も下旬になっていた。ここに引っ越してきてあの子供をはじめて見た頃に比べると、気温もかなり上がった。
初夏の青臭い香りが部屋まで入ってくる。微かになにかの花の香がする。どこか物足りない香りだ。夕方の日差しが斜めに差して、部屋にはどことなく、季節の変化に何もかもを預けているような諦めが漂っていた。

俺はひとつの窓を残してあとをすべて締め切って、開いている窓も小さく開いているのみにして光を減らし、キッチンには電気を点けて、すべてを閉め切る気にはならなくてアパートのドアを開け放ってからパソコン部屋の入り口に立った。それから自分でも意外なほど落ち着いてパソコンデスクを見ると、そこにはあの子供がいた。

やっぱり同じところに、同じ様子で立っていた。
俺は、怖さがせり上がるのと同時に、どこかで安堵している自分と、この子供への同情が湧いている自分に気がついた。
一体、なんなんだよ、お前・・・・どうしたっていうんだよ。つまりはこの2ヶ月、ずっとそこにいたんだろ?俺に何かできるのか?どうしてほしいんだよ。純粋な疑問だった。俺はこの子の事情を本当に知りたいと思った。

俺は数秒間のためらいと恐怖を断ち切って、声を出してみた。
「お前、なにしてんの?」
彼はなんの反応も示さなかった。ただ斜め上を見上げている。
「どうしたの?なんでそこにいるの?」
実際に話しかけようとすると、まるで生きている子供に話すような口調になってしまう。

彼はそのままだった。俺はハッと思いついたように少しだけ開けておいた窓をさらに少しずつ開けて、子供が見えるギリギリの明るさにしてみた。
そしてこともあろうか、そろそろとパソコンデスクに近づいていった。なんでそんなことをしようと思ったのか、自分にもよくわからない。ただ、さっき話しかけた勇気がしぼんでしまう前に、できるだけのことをしてみようという気になった。

デスクの直ぐ側まで来た。
まだそちらを直視する勇気はなかったが、上半身を少し曲げて近寄ってみると、驚いたことにかすかにこの子供の呼吸する音が聴こえた。まるで生きているみたいだ。耳を澄ましてみると、子供が息を吸うときの、小さな声帯を通した幼い音がした。

俺は怖さと闘いながら、なにをやってるんだと自分を止めようとする心とも闘いながら、ギリギリの光量で輪郭を見せているその子供を、初めて間近に見た。

そこで俺は、心臓が止まるほど愕然とした。
見覚えのある顔。
その顔は、俺にとって誰よりも身近な人物だった。
彼は、俺が自分の記憶から消し去った、子供の頃の自分自身だった。

心臓がバクバクして、どうにかなりそうだ。
このどうにかなりそうな中で、俺は何かを思い出そうとしている。

そう、あの日・・少し寒くなりだした、秋の日のことだ。
俺は玄関から、母さんの声を聞いた。
5時の鐘がなる前に帰ってきたから、母さんびっくりするかな。
俺は声のする部屋に真っ直ぐに向かった。
母はキッチンを抜けた居間の奥の部屋で、誰かと話していた。
俺は母さんを驚かしたくて、部屋の入口に隠れた。
母さんはなかなか出てこない。俺はそっと静かに呼吸しながら、部屋を覗き込もうと思った。

見えないように、ギリギリまで頭を出して、目だけでなんとか部屋を見ようと思った。斜め上を見ながら、ぽかんと口を開けて・・・・
ここまで思い出した。この表情は、あの時の俺のものだ。しかし、そのときに見た光景を思い出すことができない。この日の夜から、母はいなくなった。

これ、俺だったんだ・・・
あの時に見たなにかが、今も思い出せないほどにショックだったんだろう。
俺はそう思って幼い自分を見たら、たまらなくなって涙が出てきた。
自分の頭にそっと触れてみた。少しだけ、触った感覚があった。
ますます涙がこぼれた。でも、それがなんの涙なのか、俺には説明できなかった。
 
俺は、母親がいなくなったことを、辛いと思った記憶がない。
ただ、オヤジが二度と俺の前で笑わなくなって、それだけが辛かった。

俺はそのままこのアパートで、あの瞬間のホログラムのような、子供の俺のいる部屋で生活した。今にも母親がやってこないかと思い切り覗き込んだままの、母親を失う直前の俺自身とともに。
 
ある日、俺はパソコンに向かいながら、その俺を眺めていた。
あの時何を見たのか、それを思い出せるまでこの俺はここにいるんだろうか。俺は、子供の日のこの瞬間のことを、真剣に思い出そうとしてみた。

このとき、そ~っと静かに息をして、音を消していたこと。
ここだよー!と言おうとして息を潜めて待っていたこと。
母さんの匂いが早く嗅ぎたかったこと。
あの時部屋の窓から、金木犀の香りがしていたこと・・・・

そうだ、あの日は秋だった。金木犀は、秋の花だった・・・
このアパートに越してきたあの日、あれは春だった。
金木犀が繁華街にまで香っていたはずはなかった。

俺の鼻には、いつも金木犀の香りがする・・・・・・・・・・・・
 

そこで俺は、俺の思い出したかったことがなんなのか、目が覚めるみたいに理解した。俺は、母さんがいないことを、ずっと嘘だと思っていた。ずっと認めていなかった。寂しくなどないことにしていた。

あのとき部屋の中を覗いて何を見たのかなんて、どうでもいい。
母さんが好きだった。スカートとエプロンが重なった脚に、思い切り抱きつくのが好きだった。抱きつくとしゃがんで抱っこしてくれるのが大好きだった。

この子供の俺は、あの時なにか大変なものを見たから出てくるんじゃない。
あんなに好きだった母さんへの愛に蓋をした瞬間だから、出てくるんだ・・・・・
 
「お前、母さんが大好きだよな、俺は母さんが大好きだったよ・・」
そう話しかけると、サッシとの間にいた俺は、斜め上を見たあの姿のまま、少し霞んで見えた。それから、暗い部屋の中でだんだんと霧のように薄れ始めた。
俺は何かを言いたかった。でも、言葉が見つからなかった。
ただその子供の俺は星の砂のように薄れて、消えていった。

母さんを忘れたかのように過ごしてきた俺は、どれだけオヤジを苦しめただろう。週末にオヤジに連絡しよう。酒でも飲みながら、どう思われてもいいから、ここで起きたことを話そう。
外の風は、ハッキリと夏の匂いがする。どこか寂しくて、生き生きとした香りだ。
 

心の傷の直接の原因なんて思い出さなくても、愛さえ思い出せれば人は癒えていく。寂しいことを、寂しいまま。愛しいものを、愛しいまま・・・
というわけで、今日は思いつきをそのまま書いた、ちょっと切ないショートストーリーであった。怖くてゴメンね!

それではまた、明日!!

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