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650/1096 優しい「しゃーない感」

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で650日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

650日目、600日目台が半分に達して小さく嬉しい日。

小さくと言えば、このところ小さな嫌なことがたくさん重なってちょっとどんよりした。なぜかキーボードのBluetoothがとぎれとぎれになって文章を書くのが難しいし、Wi-Fiが使えないときがあるし、電球が切れるし、つながりのあった人の密かな行動を知って密かに心離れたし、「ああ、なんだかなあ」なことが重なった。

でも、いいのいいの。大丈夫なんでございますよ。できることはひとつひとつ丁寧に対処して、あとは知らん!(笑)成るように成るでございましょう!そして、わたしができることなど微々たることだから、自分が頑張った気になって進むことと言えば、自分が気がかりを終わらせて「自分なりにやったぞ」と思える、ということだけなのだと思う。

そうして、気が済んでしまったことは、なぜか収束していくのが不思議。
自分を歯車のひとつだなあと思う。。

今日も、今日の分を書いて、自分の微々たる尽力で、しかし自分にとってはとても大きな今日の一歩を、丁寧に収めよう!

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デッサン画を描く力をつけたいと思うあまり、最近すっかり巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサンその他を観る機会が増えた。

彼について学べば学ぶほど、「いやはや人間ってとんでもない生物なんだが」という気持ちが増し増しになる。誇らしいばかりだ!

それで、先日「アンギアーリの戦い」という有名な壁絵の模写を目にして、大変心が騒いだため、パソコンの壁紙にした。

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今朝のわたしはとても疲れていて、気分が非常にどんよりとしていた。その気分でこの絵を眺めていたのだが、そこであることに気がついた。

右下の帽子をかぶった男と仰向けに倒れている男の絡まった部位の身体の部を見ても、どこがどうなっているのかさっぱりわからなかったのだ。

気になったわたしは、解説を見ようとあれこれと検索してこの壁絵の模写をいくつも見たのだが、それらの解釈で描かれているものを見ても納得がいかなかった。この部分がこの人の腕なの?それで、ここが背中、ここがお尻??それじゃあ首や肩の向きが不自然じゃない?!というように。

見方を変えよう、解釈を変えようとして頑張ってみても、どうにも不自然に見える。そこでわたしは一旦それを放り出し、ブログの執筆に取り掛かった。それを少し書いたところで、絵のことなど忘れてそのままオンラインサロンのお茶会を開いた。

今回のお茶会はいつもに増して素晴らしくて、最高だった・・・!
そして名残惜しく気分良くそれを終えて、晴れ晴れとした気持ちでパソコンに向かい、ハッとした。

そこには、先程までどれだけ見つめてもつながって見えなかったひとりの男性の身体が浮き上がっていた。まるでだまし絵を見たかのように、急に線のすべてがつながって、ひとつの自然な身体を形成しているのが解ったのだ。そうか!そう観ればよかったのか!と膝を打った。

ゲシュタルトの崩壊と新規作成が起こったのだ。

わたしたちは、気分が違えば目から入る情報も変わる。見たものをどう解釈するのかが、同じ人でも一定ではないのだ!

いったいわたしたちはどれだけ正確にモノを見ているのだろうか。モノをどう観るのかということは、なにによって決まっているのだろう?

以前まだわたしが日本に住んでいたころ、脳機能学についての本をいくつか読んだり勉強できるところに出向いたりしていた。そこで、「人間は、自分にとって重要であるものを元にしたブリーフシステムをもって世界を見ている」と知って、たいへん驚いた。

人は、自分が大事だと思うことについての情報を優先的に処理して見ているのである。わたしたちはそれにも関わらず、いつも真実を見ている気になっているのだ。

すごいことだと思った。あわわわわ、そりゃあ確かにそうだ!しかしこれはえらいこっちゃ、と思った。このことひとつを知っただけでも、わたしの世界観は大きく変わった。

わたしがいくら、これ重要じゃん?と言っても、他者にしてみれば、ハ?どうでもよくない?ということがいっぱいなのだ。ひとりひとりの世界観は、指紋のように違った「その人なりの重要度」で組み立てられているのだ。

たとえばわたしが夫に「睡眠の質って大事よね!」と言ってみても、夫は「???」という顔をしていることがある。夫にしてみればそれは、解釈不能のことなのだ。きっと、「جودة النوم مهمة?」と聴こえているのだ。

これを知ってから、わたしの心にいきなりそれまでになかったような他者への酌量が生まれ、他者を思う心に「しゃーない感」が激増した。誰かとうまくいかないとき、その人とわたしとでは重要なものが違うのだ・・!と思えるようになった。

その人にとっては、その「わたしにとって重要でないもの」がとても重要なものと位置付けされるのに十分な経験があったということだ・・・そうなるに至る、その人にとっての十分な理由が。

それを、自分と違うからといって責めることができるのだろうか。。その人がその経験をする状況を創り出した何もかもを。この世は何もかもがつながっているというのに、その人個人を責めることなのだろうか。下手すると、回り回って自分だってその要素のうちのひとつだというのに・・・自分だって同じ経験をしたらきっとそれを重要視するであろうというのに・・!!

相手がわたしにとって重要でないことを重要だと考え、わたしが相手にとって重要でないことを重要だと考えること、それはもう「しゃーない感」以外のなにをもって観ればよいというのだろう。しゃーないじゃん?(笑)

だから、ああそれじゃあ、その人はそれでバランスを取ってるんだな、つくづく、潔くスパッと、それしかなかったんだなあ・・・と、思えるようになった。こんなに、心の狭いわたしが・・・!

そこに、無理があったり、そう考えるほうが道徳的に立派だからという矯正があったわけではなくて、「うわー、ほんとうにしゃーないんだなあ!」という理解が訪れて、胸の真ん中が「なんだあそうか~~~、ほんじゃなんかもう、今からワンカップ片手に公園のベンチで寝ちゃおっかなあ~」と思うくらいの気楽さでいっぱいになったのだった。

人は育ってきた環境が違うから、
すべての経験がまったく違うから、
そのために重要なものの順位が違うから、
わたしとまったく同じように世界を見る人は、この世にひとりもいないのだ。。。。。

この真実のインパクトよ・・・!
そのインパクトの波及よ・・・!

昔、わたしはこれで(小指を立てて)会社を辞めました、というCMが流行ったけれど(昭和)、このことは、わたしはこれで世界観が変わりました。と言える、ありがたい気付きなのでありました。

というわけで今日は、ひとりひとり見ている世界が違うってすんごい気楽だとも言えるね!!という観点のシェアでございました。どなたかに、この記事が良い形で役立ててもらえますように。

それではまた、明日ねー!

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