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683/1096【潜在意識】あなたは自分と他人を識別していない

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で683日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

683日目、今日は朝から海!夏で暑いから海に入るという単純極まりない発想さ!そしてそれは幸福である!
アドリアの海はエメラルドグリーンのまろやかな水だ。そこへ自分という生命の滴を落とす。自分の意識の色はあっという間に海水に散り溶けて、八方にわたしが広がる。わたしがそう、認識するかぎり…

海に入るのは不思議なことだ。海水に浸からねば出会えない自分の意識があって、そこには飽くことなく死や永遠への思いが溶け込んでいる。まるで海水がいつだって塩辛いのと同じように…!!

そして思うのだ、ああ今自分は恐ろしく厳しくて甘美な”自然”のもとにあることを。すごいことだ!!真っ暗な宇宙の真っ只中で、太陽のそばの青い惑星の上で、エメラルド色の水の中に、我あり…!!たった今、生きて、これを味わっている、ああ!!

やさしく揺蕩う、砂の畝のきれいな縞模様を見ながら水の中を歩いていると、わたしが海を愛し、地球を愛し、自然を愛し、色を愛することに、なんら個人的な理由がないことが胸に迫ってきた。とにかく素晴らしくて素晴らしくて、なぜかと問われても、もうそこに根拠なんてないのだと思った。

わたしが足をついて崩しても、あの縞模様は波に呼ばれてすぐに戻ってくる。わたしはちっぽけだ。海は広大だ。

わたしはなにかが惜しくて切なくて悔しくてたまらなくなった。夏の短い時間が過ぎることだろうか、自分の命が尽きることだろうか。いや、そうではない、このエメラルドの海を持つこの青い星がいつかは消えてしまうことだ。寂しい。海と、海の美と、それをこんなにも楽しむ生命体の組み合わせが、ずっとずっと未来永劫、ここにあったらいいのに。

今日の波は今日だけの波。よし、わたしも、今を大切に今日も書こう。今の気持ちを書くことができるのは今の自分だけで、それはなんだか、直視したら受け止めきれないくらいに、切ないことだという気がするから…

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ある日のイベントで、「わたしはいつも自分がある時死ぬということを思っている」と参加者さんに伝えたことがある。実際いつもわたしは自分がこの世を去ることを思っていて、思いすぎて常にそれとともにあるようになってしまった。そして、もう日常的になっているから慣れ親しんでも良さそうなものだけれど、それがいつもどこか新鮮なのが興味深い。。これのおかげで、生きていることを貴重だといつも思う。

するとある人が、「死のことを思ったり考えたりすると、当然死を引き寄せると思うからわたしは嫌だ」と言った。引き寄せの法則のことを言っているのだと思う。でもわたしはそのときに思った。引き寄せるから死ぬのではないし、死を忘れていたって死にますよ、と。

でもわたしはそのとき、「大丈夫ですよ、ほら、わたしは生きているし!」とだけ伝えた。彼女には、死のことを考えるのは縁起が悪いことだと感じられるのかもしれない。忌々しいものについての話を早く終わらせたい、というような様子だった。彼女は死に関するものを目にする度に、嫌な気持ちを味わう。わたしは、どちらかといえば切なさと生へのありがたみを感じる。

今日このことを海に行って思い出して、今日は引き寄せの法則と”主語”について書こうと思った。どういうことかと言うと、わたしたちの経験することは、宇宙(と言うとロマンチックですが、ここでは潜在意識のことです)は、「誰の」経験なのかということを識別しないということ。

わたしの潜在意識にとっては、たとえばわたしが喜んだときに、その喜びを味わったのが誰なのかということはどうでもいいのだ。潜在意識にとって、そのときの喜びが、「わたしに」起こったことによるものだろうが、「他者に」起こったことによるものだろうが、主語はどうでもいいのである。喜びは、喜び。どちらだろうとも、自分が味わったのは「喜び」なのだ。そして宇宙はそれに応えて、わたしに喜びを返す。これについてよぉおーーーく考えてみたことがあるだろうか!ほんとうに、非常に深い、日頃のエゴの感覚を覆すほどの、とてつもない事実である。

これをわたしは、とても重要なことだと思っている。もちろん知らなくてもまったく問題などないし、幸せに生きることにも関係のないことだけれど。でも、こうしたことを学ぶ人にとって、これへの理解がどれほど深く腑に落ちていて、どれだけ自分の日常生活に浸透して取捨選択やフィーリングに影響しているかということは、なかなか大きなことだと思うのだ。

わたしは先日お仕事で良いことがあって、とても嬉しかった。個人セッションのクライアントさんが、突如大きく覚醒される瞬間に立ち会わせていただいた。個人的に、仕事上で最も嬉しいこと。わたしは感動溢れて涙してしまった。とにかく嬉しかったのだ。これはわたしに起こった嬉しいこと。

また、今日は海を歩いていると、向かい合ってふたりでサッカーボールをリフティングで渡し合いながら遊んでいるお兄さんたちがいた。困惑するほど美しい二人だった。彼らを見て、わたしは人類を礼賛した。このような個体が生まれ出るなんて。我らのDNAは神の傑作である。もうもはや、ちょっとやりすぎ感…

そう思いながら彼らの横を通りかかると、ちょうど彼らが落としたボールがこちらに転がってきた。それを母が蹴って渡したのだが、するとひとりのお兄さんがそれを拾いながら「なんて上手なんだ!素晴らしい!ありがとう」と言って、母の目の前で彼女に親指を立ててウインクをしたのである。

引き締まった筋肉を包む完全に均一な褐色の肌が、全身で光っていた。絵に描いたような菱形のふくらはぎ、その美しさにとどめを刺すような弓のようなアキレス健。盾のような胸板、輝く鳶色の目、水を弾く若い笑顔が、全身で母を喜ばせようとして友好の甘いウインクを作っていた。

男性というのは、親切なときにその美しさが1億倍くらいになる(壇珠調べ)生物であるため、彼の瞬間最大美しさは距離に変換したところ地表から大気圏を突破するほどになった。わたしはそれを見てついつい「デヒャ…!!」と言ってしまった。あの瞬間、思わずデンキウナギのように電気を発した気がする。発したし感電した。男性がウインクした相手は母だったけれども、それを見た母の顔がパッと明るくなって、それがわたしは自分のことのように嬉しかった。

仕事上のことはわたしに起こったこと。ウインクを受け取ったのは母に起こったこと。でも、そのどちらにも喜びを感じたのは他でもないわたし自身だ。潜在意識は、誰に起こったことなのかをまったく考慮しない。わたしが感じたのなら、喜びは、喜び。そして、わたしが喜びを放てば、喜びが返ってくるのはわたしなのだ。この宇宙はそんなところだ。。これって、すごいことではないだろうか!

自分に悲しいことがある。
誰かに悲しいことが起こる。
どちらだとしても、”わたしが”悲しければ、潜在意識にとっては同じこと。悲しみは、悲しみ。

わたしたちはつい、他人のことなら関係ないじゃん。自分の身に起こったのでなければ別にどうでもいいじゃん。などと考えてしまいがちだけれど、自分に起こったことだけを”悲しさ”としてピックアップして、他人に起こった分のことはどうでもいいや、とはならない。何を味わったのか、それだけが拾われるのだ。

わたしたちの自意識がどれだけ自分と他人を分けて考えていても、潜在意識はそれに取り合ってくれない。これだけでも大変なことだが、さらにすごいことには、誰か他の人を喜ばせたという実感は、通常われわれ人間にとって最も強い喜びとなるのだ。えらいこっちゃ、ほんとうに!

だから、ここでわたしは思うのだ。誰かを喜ばせることでもし自分が喜びを感じられるのだとしたら、そしてそれが自分に返ってくるのだとしたら、それを利用しない手はないのではないだろうか??まさに、他者を利用して自分が幸せになる方法だ。他者は”喜ばせる”という方法で、ある意味でわれわれに最も都合よく利用できるのである。

もし他者の喜びのために自分が我慢する必要が出てくるのだとしたら、そのときに自分が感じるのは”苦しみ”だ。これでは単なる自己犠牲。あくまでも、それが喜びになるとき限定の方法ではある。

だから、自分が嬉しくなるようにすることが基本で、これがいちばん大切なこと。そしてそれから、他者を喜ばせたときに、それによって自分も嬉しかったのならば、「損した気」になる必要はないということ。そのときに自分が放った喜びが喜ばしいこととして返ってくるのは、あくまでも自分自身なのだから。

つまり、誰かを喜ばせると、めっちゃお得なのだ。誰かになにか善いことをして自分が嬉しくなったとき、相手の人がお礼を言ってくれたならば、いやいや、礼を言いたいのはこちらの方でございまっせ、と思ってしまおう…!
その人がいたから、喜ばせることができた。それで自分が嬉しくなった。それが返ってくるのは自分なのだ。それは、その人がいなかったらできなかったことなのだ…!!

人は、この世に自分一人になってしまったら、もうほとんど喜びを味わうことができなくなってしまう。他人がいてこそ、自分の人生が良くなるのだ…

ああ、そう考えると、わたしたちはどこまでもひとつだ。。。
わたしたちは、無意識領域では誰のことも他人だと思っていない。
自分のことも、自分だと思ってはいない。
自分が何を感じるのか、それだけなのだ。

誰かの喜びが、自分の喜びだなんて、人はなんて素敵な生き物だろう。
喜びを感じた人に喜びが返ってくるなんて、この宇宙はなんて素敵なところだろう。それならば、わたしたちは、誰を憎み、誰を恨み、誰を妬めば良いのだろう。それによって味わった嫌な気持ちを受け取るのは、どこまでいっても自分だというのに…

このことを、いつも覚えていたい。自意識の自分と他人を分けて認識する機能はもちろん必要で、それがあるからこそのエキサイティングな人生だけれど、でもその枠をいつもスーッと飛び越えて、他者の喜びを自分の喜びだとする自分の機能を思いっきり発揮して生きていきたいと思う!!わたしたちは、そんな生物だから。自分に目があれば目を、指があれば指を、自分が満足するだけ存分に使ってみたい。それと同じように、自分にもそんな博愛が備わっているのならば、それを存分に使ってみたい。

だから、これを読んでくださった方に、この記事を通して味わったことに、喜びがあらんことを。それはその人に返っていき、もしその喜びを知ることあらば、それはわたしに返ってきます。明日は、この喜びの表現と豊かさ(お金)の循環について書いてみようと思います。(珍しく予告!)

人類よ、同士よ…!どうぞ明日もまた、よい日をお過ごしください。。。
それではまた、明日ね!!

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