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573/1096 この外見「だから」愛されない・・?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で573日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

573日目、今日は天気が良くてそれだけで気分がいい。気分はいいのだが、他の仕事などの兼ね合いでめっちゃ時間がないという憂き目に遭っている。更新のタイムリミットまであと1時間!恐ろしいことだ、573日も続けてきた毎日投稿が途切れてしまうまであと1時間である!

これまでにもこうしたピンチは何度もあったけれども、なんとかなってきた。きっと今日も切り抜けられるであろう。いや、過去を参照にしてもまったく意味がない。ただ切り抜ける。とにかく切り抜ける。今から書いて更新するぞー!!

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今日は容姿のコンプレックスについて書いてみようと思う。思うことを垂れ流すように。なぜそう思ったのかと言うと、今日のオンラインサロンでチラッと出た話題だったからだ。今は時間がない。今日はこれだ、これが思いついた以上、これについて書くしかあるまい!

わたしの知るかぎりでのことだけれど、わたしたち人間には「容姿のコンプレックスを持たない人」はなかなかいない。もちろんときどきいることはいるのだ。でも、かなりレアだと思う。

わたしもその中のひとりだった。だった、というと過去形になってしまうのだけれど、今ももちろん自分の好きな容姿と自分の容姿にはギャップがある。そのギャップを埋めるのは常に楽しい。けれども、もうそのことで自分を卑下するのはやめたのだ。

わたしの持っていたコンプレックスというのは、まずは背が高いこと、痩せ過ぎていること、髪がサラサラでないこと、可愛らしい顔でないこと、肌が綺麗でないこと、などなどなど・・・言い出すときりがないのだけれど、カマキリに近いものがあると思っていた。あの体型、あの動き・・・!!
そしてそれらが自分にとって、「モテない原因」「愛されない原因」に確実に含まれるという位置づけになっていた。位置づけというか・・・強固な思い込みだったため、そんなふうにしか思えなかったのだった。カマキリだから、ダメなのだと。100%、絶対にそうだもんと思っていたのだ。

けれども、今はそれらについて、モテない原因だとか愛されない原因だとかいう決めつけがなくなっている。もちろんふくよかになったり髪がサラサラになったりしたら個人的にはとても嬉しいけれど、そのことと、「モテ」や「愛され」ということがつながっていない。

そのつながりが切れてなにがよかったかというと、まずはとてもとても気楽であること。それから、「そうやって見てみると、ほんとうにそれらには関係がないものなんだな!」という嬉しい実感しかないこと。くよくよしていたころに比べると、なんと清々しいことだろう!世界がまったく違って見えると言っても過言ではないと思う。

考えてみれば、わたしが外見のことを理由に卑屈になっていた頃というのは、男性のことをナメていたのだと思う。「みんなそういうところしか見ていないんでしょ」と言っていると同じではないか。たしかに外見というのは大切な第一印象でもあるし、そういうところばかりを見る人だってもちろん確実にいることだろう。けれど、そうでない人だってたくさんいるのだ。卑屈になっていたころは、その「そうでない人」たちのことが、頭になかったのだと言える。なんて狭いものの見方だったのだろう。

そんな感じ方をしていたころのわたしは、自分を好きでいてくれる人のことを、「わたしみたいなのが好きな変態なのだ」という決めつけを持っていた。ひどい!自分にも相手にもひどい!なんと失礼なことだろう!しかし、当時の自分は本気でそんなふうに思ってしまう自分を、どこかおかしいと胸の端っこで思いながらも、自分でもどうにもできずにいたのだった。

そうした感覚というのは、いくらどんなに誰かに「そんなことないよ!カマキリじゃないじゃん!大丈夫だよ!」と言ってもらえたとしても、たとえどれだけモテたとしても、変えられるものではなかったと思う。外側にいくらそんな現象を見ることができたとしても、卑屈度が高すぎると「みんなそう言って慰めてくれているだけなんだ・・・」「たまたまこの人も変態なんだ・・」と思ってしまうから。その感覚は心の色眼鏡みたいなもので、それをかけている限り、なんでもかんでも自分の思い込みどおりに見てしまうのだ。

自分をダメだと思う人もそうだろう。馬鹿だと思う人もそうだろう。そう思うから、その色眼鏡で見るから、なんでもかんでもそれを裏付けるものとして見えてしまう。わたしの母などは、自分自身を「馬鹿だ」と強く強く、重力があることと同じだけあたり前のことのように思い込んでいるため、風邪が早く良くなった理由ですら「ほらな?馬鹿だからだ」と言うのだ。わたしにもその気持がわかる。その思い込みがどんなものであれ、強く信じていることがある人にとって、そこを覆すのは容易でないという感覚があるのも痛いほどにわかる。どう説明されても、なかなかどうして、それらは切り離して考えられはしないのだ。

外見で卑屈になってしまうことを覆すのには、二通りの方法があると思う。ひとつは、自分の好きな、自分の理想の容姿になって自分を楽しむこと。もうひとつは、「外見」と「愛されるかどうか」がつながっているという思い込みを解いてしまうこと。わたしは、後者を経て今の気楽さに至った。

どうやって解いたのかと言うと、「秘行」で単に自分自身を他人のように眺めてみることだった。はじめのうちはもちろんカマキリっぽく見えてとても辛かったのだけれど、そう決めつけて何度も見るうちに、「何度見てみたって、あくまでも自分で自分をどう思うか、しか想像できないな・・他人はわたしをどう思っているのだろう・・・」「はて・・・?まさかとは思うけれど、これ(カマキリ)って自分で勝手に思ってることじゃ・・・?」と思いはじめたのだ。

そしてそこから雪崩が崩れるように、「つーかフツーに、誰もが私のことをこう見ているとは限らなくね・・・?」というとても中立な感覚になっていった。それからあっという間に、「ひとりで苦しんでた~~~なにやってたんだ~~~」と思うに至った。自分を見るということは、自分で自分に持っている思い込みを自分に暴露し、自分で思い知り、自分で目が覚めて、自分でジャッジを手放すプロセスに他ならないと言える。わたしにはこれが、自分を客観視しようとしなければ決して起きなかったことだと思う。

そうして自分の外見に卑屈になることが沈静化してしまってみると、他者が自分をどう見て、自分のなにを見て、なにを感じ、どんな思いになるのかということを勝手に決めつけなくなった。目の前にいる人が、人の外見のみを恋愛のものさしにしているかどうかなんて、わたしにはわかることではないのだ。人間はそんなに単純じゃない。外見というものは、とても小さな要素のひとつにすぎないのだと思う。写真だけで相手を愛せたりはしないのだ。

それからというもの、わたしから「外見」と「愛し愛されること」をつなげて考えるという色眼鏡は晴れ晴れとなくなって、人間をもっともっと素敵なものだと思えるようになった。美しさは、もちろんとても素敵な要素。でも、それが愛を左右するものではないのだと腑に落ちたことが、とても豊かな思いとつながっていた。自分を貶めなくなって、わたしは人間が好きになった。

自分を客観視するというのはチョット怖いことでもある。でもわたしはこれを、自分の思い込みを疑ってみるのに最もシンプルで最速の方法のひとつであると思う。心の遊びとして、ぜひたくさんの人に試してもらえたらと祈っております。というわけで今日は、わたしが容姿のコンプレックスから楽になったプロセスについてのシェアでありました。響き合える人がいますように!

それではまた、明日ね!

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