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【往復書簡】言葉の次元の外で

上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!われわれ、この”おはようございます!!”という書き出しが互いにとても気に入っていて、なんだかバチッとハマっている感じがありますよね。わたしは勝手に圭吾さんもそんな感覚にあると感じているのですが、いかがでしょうか。こういうことって、なぜか伝わり合うものだと思うのです。わたくしめはこうした直感的なものを感じるのがとても好きで、こうしたことを非常に大切にしております。

もちろん、口で言わないとわからないことはたくさんあり、それが大切な場面は多々ありますよね。そうしたことをないがしろにするという意味ではないのです!でも言わなくても伝わっていることがあるということを感覚に携えているのは、それと同じだけ大切だと思うのですが、圭吾さんはどう思われますか。この世界を、「言葉で伝えなければなにもわからない」と思いすぎると、世界が機械的で効率重視型で事務的な世界に見えてしまう気がします。機械には入力しなくては伝わらないでしょうけれども、人間はそういう生き物ではないと思います。

世の中では「この言葉をキミに伝えたい~」みたいな歌詞などによくあるように、なにを言葉にするのかを重要視するものばかりを見かけますが、わたしは「なにを言葉にしないか」ということが同じだけ、あるいはそれ以上に大切だと思います。言わなくてもいいことは、言わない。そうすると、他の感覚が開くのを感じます。仙人が修業をするのに人里離れた山にこもったりしますが、その必要性がちょっとだけわかるような気がします。言葉の次元じゃないことを大切にすると、頭が過剰に働くのを鎮めて、ハートを開き、それはちょうど書道を見たときに、これまで字の部分を見るあまり気がついていなかった余白部分を味わえるようになることにつながるような気がしております!!

毎日色々な気持ちになりますが、まだ誰にも汚されていない早朝の空気は、すべてが一旦リセットされたような、昨日死んで今日生まれ直したような、大袈裟ですが「一回死んで奇跡的にまた生まれ変わっていま再び生きることができている」ような境地に立つことができるから、好きです!!

ここを読み、感服いたしました!!うおおお~!!わたくしめの心から尊敬するお人の本にあった、『朝の太陽の光によって、人の変化を阻害する観念や感情がクレンジングされる』という内容を思い出しました。わたしはそのお話が大好きで、圭吾さんが自然と感じ取っているものがまったくそれと同じだったので、非常に驚きました。圭吾さんをとおして、改めて人間の神秘をひしひしとリアルに感じました。ありがとうございます!!

流れていくことに抵抗をしているとき、私は苦しさを覚えている気がします。変わることだけは変わらないことを受容できたとき、心は穏やかであることが多いような気がします。変わりたくないという思いより、自分、他人、世界に対して「一緒に変わって行こう」と思えているとき、運命共同体とも言えるようなある種の連帯感を覚えます。

そうですね!!猛烈に同意しております!!流れていくことに抵抗しているとき、わたしは自意識が働いています。俺が俺がとなっています。自分のことをぜんぶ自分の都合によいようにしようとして、うぬぼれて勘違いしていると「いや、そうじゃないよ?」という出来事が起こります。

逆に、流れ流れて変化して、自分なんてちっとも自分のものなどではないと思えるとき、とても楽になります。ま、いっか!と思えたことこそが、解けて溶けていきます。そして、自分が自分のものではないということを受け入れると、他の人のことも「ああ、そうか、君も君のものじゃなくて、君のせいじゃなくて、流れの一部なんだね!!」と思えたりなんかしちゃって、すると「じゃあ全体の流れは、ぜーーーーんぶの人と物で創っているんだなあ」と思うと、圭吾さんの仰るようにまさに「運命共同体とも言えるようなある種の連帯感」を覚えます!!

するとなんだか俺が俺がという気持ちさえもが「ま、いっか!案件」に含まれてしまい、観察対象となり、まるで他人事となり、そうなってくると、一体どこからどこまでが自分なのだろうと思ったりします。そういうときに「あなたが壇珠さんですよね」などと訊かれたとしたら、「質問者よ、その”あなた”というのはなにを指すのだろうか」などという面倒くさい禅問答をぶちかましてしまいそうで、そんな自分がウザくて正直でなかなかいいんじゃないかと思えてきたりしてしまいます!!!「壇珠さんこんにちは」と言われて正直に返答しようと思うと「こんにちは、わたしを壇珠さんだと思う存在よ」となってしまいそうですが、そんなことをしているときっと人が離れていくのだろうなあと思ったりします!!

昔から「なんで俺はこうなんだろう」とか「いったい俺はなんなのだろう」と、自分というじゃじゃ馬にほとほと愛想が尽きそうになることがたくさんあります。これはもちろん現在進行形なのですが、そういう自分であることを「自分で選んでいる」ことを客観視できるようになってきただけ、昔よりは余裕があるのかもしれません。支離滅裂な自分を統合したいと願う気持ちと、より加速度を上げて「もっとめちゃめちゃにやってしまえ」と崖から突き落としたくなる気持ちと、そのどちらもが自分の中にあります。

あああーー!!わたしも自分のことをじゃじゃ馬だと思い、その扱いがもう危険物・劇物の扱いみたいでヒヤヒヤなところがありました!!「なぜこんなにも、狂っているのだろう、ズレているのだろう、劣っているのだろう」などと、ずっとずっと思っていました。わたしの場合は、なにかについていちばんヤバそうで選ぶのが怖い選択肢が現れると、それを選ぶまで自分の喉元にナイフを突きつけて「やれや」と脅してしまうようなところがありました。それで、これにほとほと呆れ苦しみつつも、「いや、誰になんと言われようとも自分だけはこれを捨ててはならない」という気がして仕方がありませんでした。その間で苦しんでいて、どうしたらこの激しい自己乖離が収まるのだろう、と思っていたんです。

けれども、圭吾さんの書いてくださったように、そんな自分を客観視するようになったら余裕が生まれ、その余裕に染まるうち、「ありゃ?なんと、穏やかになろうとエキセントリックなことをしようと、どちらでも問題などなかったのだなあ」と思うようになり、落ち着いて楽になってしまいました。
こんなにも自分のことを他人事のように思うだなんて意外でもありますが、これがよくあちこちで見かけるような「自意識を手放す」というようなものではなくて、自意識すらも他人事、という感じになっておりまして、ある意味で自分の中で「ブレーメンお前もか」がいつも起こっています。

わたしは個人的に、どちらの経験も面白い冥土の土産であって、優劣などどこにもないと感じます!!統合すると偉い、みたいなことはなにもないですよね!

私が見る限り、多くの人々は思っていても言わないということができているように見受けられ、本当に凄いなと尊敬します。時折、出会う方々から「取り繕わないで生きている坂爪さんは凄いですね」と褒めていただくことがあります。しかし、私から見ると「取り繕って生きることができるほうが凄い。自分にはそれができなかった。これは強さではなく弱さだ」と思います。自分の心がつまらないと感じることを続けることができず、どうしても破壊をする方向に舵を切ってしまうのです。そのため軋轢が凄いです。その場で自分を発揮しないでも、とんと問題ではないと思える壇珠さんの在り方に、強さと言うのも違うかもしれませんが、器の大きさを感じます…!!

ありがとうございます!!取り繕わないことを、弱さゆえだと感じるお気持ちがわかる気がいたします、激しく!!同時に、取り繕うことができる人を、尊敬する気持ちもわかる気がいたします。

わたしは、一旦冷静になれたり、丸く収まる方を大切にできたりする人を尊敬しています。かつ同時に、取り繕わなくていいところで取り繕わない人をも、尊敬します。

以前はその尊敬のために、自分にどちらもできるようになるべきだと押し付け続けていたのですが、今は自分の娘がたとえばレゴで遊んでいて、嫌になったら潔く壊して別のものを創るタイプでも、嫌になっても少しずつ改善して変化させようとするタイプでも、どちらでも構わないと感じるのとまったく同じように、自分が取り繕えてもそうでなくても、どちらでもいいや!という感じがしてしまっているのです。

これは「ま、いっか!案件」が増えただけといった感じで、なんだか器が大きいと言っていただくのがもったいない感じがします!!ありがとうございます!!

皮の下に響く音波・・・これはもう言葉を越えて音楽で話す感覚ですね!!新しい視点をいただきました・・・化けの皮を剥がすことに命を燃やしてしまいがちな私ですが、こちら側から無理やり剥ぎ取らずとも、本当の言葉で会話をできているならば、相手も(自分も)自ずから皮の下にあるコアの部分から、言葉を引っ張り出したくなるものだと思いました。

ほんとほんと、相手の化けの皮を剥がすことをしているときって、どこかその化けの皮と戦ってしまっているんですよね。でも化けの皮の中の人に直接話しかければいいと思うのです。

それを「化けの皮の下に響く音波で話そう」と表現すると、よくあるポップソングのように優しい感じがしますが、言い換えればこれは、「どんな皮をかぶっていたって無駄だぜ」「バレてるぜ」「中のお前に話しているんじゃ、聞こえているんじゃろう?キッキッキ」ということでもありますよね!

すると相手は「な、なによこれ!!このわたしの猫かぶり作戦が効いていない?!嘘だわ!!」となり、なにを着てもヌードが見透かされている気分となって、こちらもヌードだぜということにも気が付き、互いにごまかしが効かない世界にいたことに気がつくのだと思うんです。

たいへん怖ろしく、真心の通じ合う、血の通った、かついい気味である、互いにとって優しく、互いの境界線を取っ払ったものだと思います。コミュニケーションとは、連帯ぬくもりや連帯恥をともにする、穏やで美しくてエキサイティングなものですね!!

合唱コンクールの際に、様々な音がひとつのハーモニーを織り成した瞬間、もう、感動しないではいられないあの感覚。そんな情景が目に浮かびました。合唱曲を歌うように、他者と生きることができたら本当に素敵ですね。全然違う存在だからこそ、ハーモニーも美しくなる。

合唱に感動するのって、われわれ地球人には共通したわかりやすいことですが、これは理屈で説明できるものではないですよね!!
「複数の人が同じメロディーを同時に歌っている」ので感動します!!と言ったとて、これが果たして他の星の生命体やAIにわかるだろうかと考えると、なかなか難しいものがありますね。それがなぜ感動になるの??と言われると、ウーンと唸ってしまいます。

こういうことっていろいろありますね。わたしたちは、動物の出産を観ると涙が出たりしますが、それもなぜかと言われても説明ができないですよね。
「新しい命が生まれたからです!」というのは地球人には理屈抜きでわかりますが、「新しい命が出てくるとなぜ感動するのですか。なにを理由に嬉しいのですか」と訊かれても、ただそうであるだけで、明確な理由が述べられないのですよね。

こんなふうに、わたしたち人間には理屈じゃないことがたくさん備わっているのに、なんでも理屈で考えようとすると頭がヒートアップしてしまうように思います。だから、頭でわからないことがあるのを、自分に十分に許していたいと思います。それを解明しようとせずに、味わって楽しむだけでよいのだと思います。人は飛行機を発明して使っているというのに、今だになぜ飛ぶのか理解できていないそうですが、理解できなくても味わうことができますよね。そして、高いところに行くと嬉しいですが、これがなぜなのかが説明できません。わたしはピアノが鳴る仕組みを正確には知りませんが、けれどもあの音色に心が震えます。なぜ震えるのかはやはり説明できません。

わたしは誰か他の人の気持ちを永遠に理解し切ることができません。でも、おなじ地球人なので、理屈を超えてわかるものがあります。皆が理由も理屈も抜きでおなじものを持っていることに思いを馳せると、たったこれだけのことで、超絶な連帯感を感じます。俺たち、おなじ生物ですね。個々の指紋も経験も記憶も特徴も性格も生まれ育った環境もまったく違うのに、命の生まれ出るのを見ただけで、そんなこたぁ吹っ飛んじまうくらいみんな一様に泣いちゃったりするくらい、こんなにも同じです。性差も、個体差も超えて、ほとんどおなじだと言えるくらいにとても似通っています。

そのことに、わけもなく涙が出るほど感動する自分がいます。これももちろんなぜなのか説明できないのですが、でも人間ってこういう生物なのだと思うんです。そう考えると、なんだかわたしの状態やあれこれの特徴があまり重大なことだとは思えなくなってきます。大元のところでバッチシ理屈抜きにひとつだから、俺たち人類は大丈夫なんだぜという気がしてきます。

人は理屈で考えるから、個性が個性がと言い出して、人と違っているところで価値があると証明しようとするような気がします。そして苦しんでいる。でも、そんな小さなところで証明しようとしなくても、実は人類というだけでわれわれに共通している部分こそがわれわれの素晴らしさだというこをさっさと認めてしまうほうがいいような気がします。すると、否が応でも個性って目立ってくると思うんです。

壇珠さんは絵を描かれていて、私は曲を作っているのですが、なにかを作ることって「世界を作ること」だと感じること、壇珠さんはありますか!?私は、毎日のようにそれを感じています!!音楽の中に世界ができて、そこには自分の居場所もある。だから、作ることってこんなに楽しいのだなと思います。そして、当たり前のことですが何度でも感動できることのひとつに「私たちは、自分が作りたいと思う世界(音楽や絵など)を、いくらでも作ることができる」ということです。ひとつのジャンルにこだわる必要は全然なくて、作りたいと思うものがあるならば、描きたいと思うものがあるならば、なんだって、いつだって、どのようなものだって自分(自分たち)の手で作り出していくことができる。そのことを思う時、うおお、音楽ってすげえ、世界を作るってすげえ、人間の想像力ってすげえって毎回感動します。

創作活動がそのまま、世界をつくることだと感じること、あります!!ありますともー!!そして上の文章を読みながら、ゾクゾクが止まりませんでした!!そう、そう、ほんとうに、わたしたちはなにをいつ創り出してもいいのだという、この自由度の高さに驚愕したことがあります。そのとき、なぜこれまでその自由が見えていなかったのだろうか!!と、愕然としました。

いきなり彫刻を作ることもできれば、いきなり思いつきの材料で創作料理を作って食べてもいいのです。この世の素材を使って、なにをしてもいいのだと突然にして気がついたとき、えらい驚きを体験しました。めちゃくちゃ当たり前だし、それまでだっていつだってこの身にあった自由なのに、気がついていなかったのでした。わたしはいきなり家具を作っていいことや、いきなりに家を造っていいことに気がついて、鼻血が吹き出たことがあります。自由とは、今目の前にあるのだと気がつけばいいだけのことでしたが、気がついたときの「うがあああマジかあああ!!」という驚きが、超絶に最高の体験でした!!

どのような皮を被っていても、その根底には常に「本当は全部許している」という感覚が、通奏低音のように流れています。本当、屁でもねえですね!!我々の外側!!どのような我々も、ただ、愛しいだけですね!!外側の壇珠さんがどのようなものであれ、永遠に一緒に戯れている内側の壇珠さんを感じながら、勝手に力に変えて私も生きます!!言葉にできる範囲には限りがあって非常に歯痒いのですが、いま、とってもジワジワ来ています!!胸にグッと来ています!!最終的にはこの星を離れていく切なさを抱えながら、共に生きて生きましょう!!

うああああああ!!もうもう、同意しすぎて星になってしまいそうです!!はいっ!!本当はぜんぶ許しているという感覚、べらぼうによくわかる気がいたしまして、嬉しくて逆に円形脱毛が起こりそうです!!!
許しているから、許可しているから、だからやっている。だから感じている。「あんの野郎許せねえ!!」などと思うことすらも、許しているからできること、ですよね!!

そしてほんとうにどんな外側も、可愛いだけでしかなくて困ってしまいます。非常にシリアスなことに怒っているときだって、内側の全部許している自分の「大いなるサムシング」的なものに言わせると、最高のエンタメだと思うんです。外側の色(しき)的なドラマは、大いなる空(くう)的なサムシングとぴったりとセットで、最高のタッグで、それらの両面をもって存在している俺たちときたら、なんかもうすごくてすごくて、生命は爆発だとしか言いようがありません!!人間すげえ!!その色空が理屈でわからなくたって、そのタッグの生み出すものを味わっている、そんな俺たちときたら、すごいですね!!

そしていつものごとく、こんなやり取りを一緒に生み出してくださる圭吾さんに、ありがとうの最上級をお伝えします!!しかし、わたしは三次元におりますゆえ、この書簡でのやり取りに心から感謝しつつも、物理的に早くお会いしたいと心からフラストレーションです。一緒に話し、歌い、物理的なコミュニケーションのできる日をめっちゃ待ち遠しく思っております!会いたい気持ちを豪速球で投げたいと思います、ズバァーーーーーッ!!!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)