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850/1096 ”あなたが悪いわけじゃない”に、さよなら。

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で850日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

850日目。とうとう800日目台が半分まで来た!やはー嬉しい!弱気だったわたしにとって、ほぼ幻のように思えていた900日への壁が壊れ、50m目前にその門が開いている。行くだけだ。進むだけである…!!

900日に到達したら、いよいよラストスパート感が出てくる気がする。いよいよだ。そこにあとたった50日でたどり着くのだ!!(興奮)

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みなさんには、乗り越えるのが難しいような辛い体験がありますか。きっと、どんな人にだってその人なりに、辛くて悲しい体験があるものだと思います。

今やこのような、ゲーム好きの気楽なふうてんの壇珠さんとなってしまっているわたしですが、わたしにもこれまで、それなりに悲しいことがありました。どのくらい悲しかったのかと言うと、”悲しいとは認識できなかったくらい”。

当時、それが悲しいことだと認知することもできませんでした。涙も出なかった。何事もなかったかのように普通でいられて、とくに反応もありませんでした。起きた、済んだ、そして通り過ぎて、ただ過去になった、おしまい。そういうふうに、わたしに向かって吹いた風がわたしを撫でて後ろに流れていったかのようでした。

性暴力の被害に遭ったり、実家を失ったりする体験は、その場で計りに乗せてその悲しみの大きさをすぐに判別するようなことではありませんでした。ショックが大きすぎて、「嗚呼これはきっと大変なことだろうな」と他人事のように思う、のが精一杯でした。

どうしてわ~わ~泣くほど悲しくないんだろう。その疑問に向き合うと、自分は心のない人間なのかも知れないと思ったりしました。

それで、精一杯だったのです。

どこかで納得の行く考え方に出会って、それを無理矢理にでも飲み込んで消化してみたくて、ネットや書籍で関連する情報に目を通したりもしました。でも、目にするもののほとんどに「あなたが悪いんじゃない」という慰めの言葉ばかりを見つけました。そして違和感で一杯になる。これを何度も繰り返して、あるときわたしは、自分でも驚くほど冷静に、こうして外側に頼っていてもまったくもって仕方がないのだと思いました。

”誰が悪いのか”だなんて…!!どうしてそんな次元の話をするのだろう。わたしが探しているのは、それを判断してくれる存在なんかではないのに。悪者を決めてほしいわけじゃない。それがわからないから、あるいは決められないから、あるいは自分だけが悪いと思って自分を責めているから困っているのではない。裁判なんかしなくていい。悪者を決めなくていい。それで片づくことなどではない。ただ悲しい、惜しい、喪失感が辛い、それだけでした。

だから「あなたが悪いんじゃない」という、誰もが使い、誰もが正しい慰め方だと信じ、世界中で使い倒されているこの言葉の効力を、わたしはさほど信じていません。本当に辛いとき、わたしたちは”誰が悪いのか”なんて気にしちゃいない、気にしちゃいられない。と思っています。

今日は、もしかしたらどこかにいる、とても辛い目に遭ってからわたしが陥ったような心の不感症に見舞われて、「あなたが悪いんじゃない」という言葉に少しも慰められることのない人を思いながら、わたしの思うことを書いてみたいと思います。

少なくともわたしは、いじめに遭ったり、暴力にさらされたり、大切なものを一晩で失くしてしまったりする経験について、「”悪いのは自分だ”と考えるから辛かった」のではありませんでした。ショックというのは、論理思考を働かせて『悪い人を決めさえすれば拭い去れるような類のもの』ではないのです。

「悪いのは自分じゃない」という方程式から導き出されるのは、「じゃあ相手が悪いんだな」という解です。自分でないのなら、相手が悪い。

何度もそう思ってみようとしましたが、これに納得がいきませんでした。悪い人というのを真面目に考えれば考えるほど、わからなくなっていく。その相手がそんなことをする人物になったのは、一体誰のせいなのだろう。その人の親だろうか。いや、しかしこの発想では、その親をそういう人間にしたさらにその親が悪く、となるとその親の親の親が悪くなってしまう。

そして、それではキリがないからと無理矢理にでも「相手が悪い」のだと思おうとすると、許しがたい気持ちで一杯になりそうになる。これが強まればそれはきっと、恨みつらみ、復讐をしてやりたい気持ちになるはずです。

わたしたちが傷つきすぎて悲しいのかどうかすらもわからなくなっているときというのは、心にそんな凶器を抱えられるような余裕はないのです。相手が悪かったのなら、相手に悪いことが起こればいいでしょう!となってしまう。そしてもちろん、そう都合良くはいかない。この理不尽に立ち向かうのは、さらにもっと悲しいから。とても辛いときというのは、相手を悪く思う体力なんか、どこにも残っていないのです。

「悪いのは相手であって君じゃない」。そういう慰めは、つらい思いをしている人にとって受け入れがたい厳しい意見になりうるのだとわたしは思います。わたしは当時、「自分にも半分責任はあるし、なんなら全部自分が引き起こしたのだとも言える、だからいいんだ…自分の尻拭いくらい自分でゆっくりなんとかすればいいな」と考えてみると、目が開いて、気持ちがしっかりして、ふさぎ込んでいないで少しでも動いてみようとする自分がいるのを感じました。

少なくとも誰かを恨まなくていいし、誰にも復讐したいとも思わないのは楽です。法律上誰が罪人なのかを決めるのはいいと思う。でもわたしまでが誰が悪いのかを探したら、相手の親の先祖のその先祖のその先祖まで考えてミトコンドリアまで遡ってしまう。いつまでそれをしていればいいのやら…

それに、相手が悪いのだとしたら、怒りの矛先はどこに?!となってしまう。当時の自分は、それをどうしても、受け入れられなかったのでした。

もしも、自分がただ無力に被害に遭うしかなかったわけではないのだとしたら、「じゃあこの先、自分の人生は自分で気をつけて創っていけばいいね…自分にだって自分の人生をコントロールする力があるよね」という感じがして、それは当時の自分にとって、たしかに救いでした。

だから「あなたが悪いんじゃない」なんて言われても、嬉しくもなんともなかったのです。「いや、いいよ。自分も危うきに近寄ってしまったんだ。それでいいし、そのほうがいい。わたしになにひとつ原因となるものがなかったのなら、それじゃあわたしがこういう目に遭うのが理不尽すぎるってものだろう。あんた今わたしに、この世界はそんな理不尽なところだよって言って聴かせてくれてるのかい?それじゃあここはずいぶん、おっかねえところだなあ」と思ってしまうから。

当時のわたしにとっては、わたしに嫌なことが起こるとき、わたしになにも原因がないだなんて、そんなことが納得行くもんか。そんな恐ろしい世界になんて住んでいられるものか。という感覚があったのでした。

そんなことを考えているときわたしはいつも、自分が子どもの頃からずっと、ただ自分に起こることを眺めている感覚があるのを感じていました。みなさんにもきっとそんな感覚があるものと思います。そんな感覚そのままでいいと思えてから、わたしは自分の中でクリアになったことがあります。

それは、なにかが起こったときに、誰が悪いのかを考えることと、原因を考えることと、悲しんだり怒ったりすることとは、それぞれにまったく別のことだという理解です。

そして、これへのクリアな理解は、辛い状態の人に大きな助けになることも知っています。

誰が悪いのかを決めなくても、悲しんでいい。
自分が悪いのだとしても、悲しんでいい。
相手が悪いのだと言われても、だからといってスッキリしなくていい。
原因が定まらないのだとしても、怒りを感じていい。
わたしたちの感情と理論とは別だということを知っていていいのです。

辛いことが遭っても、乗り越えなくていい。
辛いと思ったままでいることを、自ら選んでいい。
それを抱えて生きるのをおかしいと思わなくていい。

悪いのは君じゃないと言われても、それを受け止めなくていいのだと、わたしは思います。『悪者が誰だっていいよ、罪は憎むけど人は憎まないよ』と思えると、本当に楽だから。

というわけで今日は、辛い思いをした人への「あなたが悪いわけじゃない」という慰めについて、わたしの思いをシェアしてみました。どこかでどなたかの思いの切り替えに少しでも温かみとなってくれますように。

それではまた、明日ね!!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)