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【質問回答】野生の勘を磨く方法が知りたい

3月のこの時期は、毎年のように早くもっと暖かくなれと思うことを禁じ得ない日々でありましたが、この時期の美しさはこの時期特有のものだと思うとまたじっくり今を味わうことができますね。土の上がどんどん緑に変わる様子は、なにか早送りで現実を見ているような不思議な感覚になります。時間の流れは一定ではないのだということを、春は教えてくれるのかもしれません…

さて、枕もそこそこに、本日の質問回答はこちらです。

おやおやなんと素敵な質問でしょうか。野生の勘を磨くことの恩恵には、計り知れないものがあります。パッと勘が働いて危機を避けられるだけでなく、意思決定がとても早くなり、自分に必要なものがはっきりと分かるようになり、創造力が発揮されやすくなるのです。

野生の勘を磨くのにはいろいろな方法がそれこそ無限にあると思います。習いに行ってみると良いと言えるものもいくつもあるのですが、ここでは質問者さまが自分で取り組めることをご紹介してみますね。

まずは、身体を使うこと。特にバランス感覚を磨いてみましょう。
それから、自分の背後を意識すること。
直感をキャッチすること。

たとえば身体がグラッと傾いた時、ハッと立て直そうとする力が働くのがわかりますよね。でも、立て直そうとするのが遅かったり、立て直すための筋力がないと、バタッと倒れてしまいます。この、ハッと立て直そうとするときに私たちはものを考えていません。身体が勝手にやることなんですね。直感というのはこの働きに似ています。そして、立て直すための瞬発力や筋力というのは私たちが自分で鍛えることのできる部分ですが、これが直感とは反対の論理的な思考と似ています。身体がこの連携を上手にできるようになることは、野生の勘を磨くことになります。

私たちの脳は身体の一部です。そして私たちの身体はエネルギーそのものですから、直感も思考も身体と身体を取り巻くエネルギー体の働きだと言っても過言ではありません。心と身体が別々のものであれば、身体が疲れても心に影響がなく、痛い思いをしても心理的に何も感じないということができてしまいます。けれども、そうではないですよね。直感も同じように、身体で感じるものです。

特にバランス感覚を磨こうとしたときに、私たちは身体の機能を総動員しようとします。これが直感を育てるのにも役立ちますよ。

そして2つ目の背後を意識すること。これは霊感的なものを鍛える方法でもあります。目に見えない範囲を見ようとすると、私たちは第六感を伸ばそうとします。ちょうど、盲目になった人が嗅覚や聴覚が目の見える人に比べ遥かに発達していて、さらに人の気配などを鋭く察知することのできるのと同じように。目で危機を察知できないぶん、目以外の感覚が鋭くなるというわけです。

たとえばタクシーの運転手さんや学校の先生などは、後天的に霊感が開くことがあるのですが、彼らの共通点は自分の背後を気にすることです。タクシーの運転手さんであれば背後のお客さんを、学校の先生であれば黒板に向かって書いている間の背後の生徒を、それぞれに意識していますよね。それから、山でマタギをする方に霊感が強まることが多いのですが、これも山にいる間に四方八方に危機感を持っているからです。それぞれに、目に見えない範囲を意識していますが、これにより人は野生の勘を鍛えることができます。

最後の直感をキャッチすること。これはシンプルに、ふっと脈絡もなく頭に浮かんだことを、今こんなことが頭によぎったな、と意識化することです。そしてそれを思い切って行動に移してみます。例えば、レストランでパッと開けたメニュー表の一番先に目に入ったものを注文する。あるいは、今パッと緑の帽子をかぶった男の子が頭に浮かんだ。だからそれを書き留めておく。このような簡単なことをやってみるのです。

これがまた、やりだすと面白いものなんですよ。あれはなんだったのだろう?と思うものもありますが、これのことだったのか!と答え合わせができることもよくあります。やっていると、自分の勘を働かせる感覚がどんどんつかめてくるので、試す価値アリです。

こうして野生の勘を鍛えることはいろんなやり方でできるのですが、ひとつ大事なことは、これが「正解を得るためのもの」だと思わないことです。
言葉にすると矛盾してしまうのですが、どういうことかというと、自分の感じたものを自分で正解にしていくことが大切だということです。

私たちは、例えば次の駅まで電車で行こうか歩いていこうかと考えた時に、ピンときて歩いていこうと思ったとします。すると、その途中でものすごく久しぶりに会いたかった同級生に会いました。このとき、やっぱりあのときの直感は正しかったのだと思いますよね。
そしてそのあと、この同級生と仲が悪くなってしまったとします。すると今度はあの時歩いたのは良くなかったんだと考えます。

でも、電車で行ったのならもしかしたら、別の出来事があったのかもしれません。それをラッキーだと思ったりアンラッキーだと思ったり。そのことを他者に話したら、もしかしたら私たちが思ったのとは真逆のことをいうのかもしれません。駅の外で大判焼きやさんを見つけた、ずっと買いたいと思っていた。とてもラッキーだ。と言ったとしても、友達はそれはアンラッキーだ、あなたはダイエットをしたがっていたのだから、甘いものを食べる機会はなるべく少ないほうがいいじゃないか。と言うかもしれないのです。

ここで私たちは、自分の直感を使うために自分を信じることを要求されます。もしもその人がその機会をそれでもラッキーだったと考えたのなら、その前向きな思考はやがて、その大判焼きを食べたことで、つくづく甘いものを食べるのが嫌になったと感じて、きっぱりと気持ちが切り替わる機会につながるのかもしれないのです。ラッキーだと思うことが、それをラッキーだと証明するように見えるものにつながっているのですね。

証明するようにみえるものが現れたなら、ではそれがやっぱりラッキーだったのか、直感は正しかったのか。そうです、これもまたそれをどう見るかが人によって違ってきますよね。だから、すべてがその人の判断によるのです。どんな正解もすべて、わたしたちの「これが正解だ」という判断、言い換えればジャッジ、思い込みだということなのです。そして、それでいい。

こう考えてみると、野生の勘を鍛えつつも、それと同時に私たちは自分のその勘から行動した結果を正解だと考える力を鍛えるべきだといえます。まずは勘を磨く。これはとっても良いことです。そして、そこから起きてきたことを正解だと考えてみる思考力を鍛える。この、直感と思考のコラボレーションをすることが大切です。野生の勘と、それから良い面を捉える思考力がともに育っていくことで、自分を使って生きている感覚を楽しむことができます。よければぜひ、ちょっとした遊びだと思って試してみてくださいね。
素敵な質問をありがとうございました。

それでは、またね。

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