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679/1096【羨ましい】嫉妬はまぼろし

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で679日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

679日目、来月の25日で730記事にならなくてはならないはず。なのに、なぜか数えてみると728記事にしかならない。なぜだ!!と思い、これまでの記事を確認してみると、記事の番号のつけ間違いがあって途方に暮れている。

毎日書いていることは確かなのだけれど、一体どういうことなのか。このあと究明しなくては・・・

というわけでいつになく元気をなくして書いている・・ハァ。。。ま!こんな日もありましょう。あとできっちりと原因を見つけて対処すれば、きっと大丈夫!!だと、信じて書きます、、(涙

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今日は上の件により気分が乱れていて、ひとつのテーマについて書く気分ではなくなったため、わーっと本音を書いてみよう!と思う。いつもと結局変わらない気もするけれど。そうだ、羨ましいという感覚について、思っていることを書いてみよう!ありゃ?すでにいつもと同じになってしまった。

わたしは今のように自分から発信する活動をするようになってから、頻繁に「羨ましい」と言っていただくことがある。

そのときに嬉しいかと言うと、たまに純粋に相手のかたの希望や闘志を感じて嬉しくなってしまうこともあるけれど、ほとんどの場合あまり嬉しくない。あまり嬉しくない理由は、まずその人がわたしを通して観ているものを、幻だと思うから。わたしの実体を知れば羨ましくなんかなくなると思うのだ。

「名前出し顔出しで、自分の意見を躊躇しないでどんどん書いたり言ったりできるのが羨ましい」などと言ってもらうことがあるのだけれど、そんなのなにしろ、すぐに実践できることだ。だから羨む必要性はなくて、ただやってみればいいと思う。でも羨ましいと考えている人に共通していることだけれど、「実際に自分がやるのは怖い」と言うのだ。いや、わたしはそれをやったのだし、今もやっているのだ。だから、その怖いことをしているわたしのことは、良く考えたら少しも羨ましくなどないのではなかろうか。

むしろわたしのことは、その人にとって非常に嫌な生活を送っている人だと思う。わたしはドキドキしながら毎日ブログを書いてきた。批判やアンチにさらされる可能性だってある。ライブ動画を流し、録画されたそれはいつでも視聴が可能になっていて、何万回も再生されたりする。自分の発言が見られ、使われ、それについて質問され、言ったことに責任が出てくることもある。お金を頂いて話をしたり、話している最中に録画や写真撮影がされている。それはほんとうにその人にとって、”やりたいこと”なのだろうか??

たとえば、大富豪になりたい、大富豪が羨ましいという人もそうだ。
大富豪に実際になるとしたら、それだけの資産と財産を管理しなくてはならない。それらのお金が流入してくるシステム自体を持っていなくてはならないのだが、そのためにはたとえば株式投資だったりファイナンスに関する知識を得て、実際にそれらの運用を含めた重大な責任を伴う活動をしている必要性が出てきたりもする。

「大富豪羨ましい~」と言う人は、リアルに本当に、その活動がしたいのだろうか。大富豪活動をすることに、本当にヨダレが出るほど、居ても立っても居られないほど、ワクワクが止まらず顔から脂が出てきちゃうくらい、好奇心が湧いているのだろうか。胸に手を当てて、実際にそうなると本気で考えたときに、「ほんとうに羨ましいのかどうか」を考えてみると、そうでもないことってたくさんある。

ハーレムを持ってみたい人も、女優さんやタレントを羨む人も、誰か他人を羨んでいる人も、ほんとうにその人になれるボタンがあったら押すのだろうか。押すぶんには考えなしに押したとしても、リアルを知って後悔することはないだろうか。

誰かを羨み、誰かに嫉妬して苦しんでいる、という人に対してわたしはいつもお聞きする。ほんとうに羨んでいるのかどうかを、リアルに目の前にあるかのように想像してみたらどうだろうか、と・・!引き寄せるためではなくて、ね。

人を羨むことに、わたしはほんとうに意味がないと感じる。ほとんどの場合、”羨んでいる”のは嘘だと思っているのだ。

たとえばわたしがYouTuberのヒカキンさんのようになりたいとする。たくさんの素晴らしい動画を出して、たくさん稼いで、羨ましいとする。仮にね。
そういうとき人は「ヒカキンさんみたいになりたい!羨ましい!」と言ったりするけれど、よくよく考えてみてほしいのだ。

わたしはヒカキンさんが大好きだけれども、当たり前だがヒカキンさんになりたいわけじゃない。それに、ヒカキンさん「みたいに」なりたいわけでもない。もっと極端に言うと、このボタンを押したらヒカキンさんになれます。と言われても、当然押さない。ほとんどの人がまずもって押さないだろう。あくまでも、自分のままでいたいはずだ。

ヒカキンさんになりたいわけではなく、ヒカキンさんの動画の制作能力、編集能力、トーク力、知名度、収入などなどを自分も欲しいのならば、単に動画の制作を学び、編集その他のスキルを学び、それらに精通して、それらを自分が持っている状態に近づこうとすればいいだけではないだろうか?目指すはヒカキンさんなのではなくて、そうした経験を積んだ自分だと思う。

ヒカキンさんが彼自身を活かしたことへの憧れがあるのだ。ならば正確に言うと「自分を活かした暁のわたし自身、羨ましい!」と考えるべきなのではないだろうか。ヒカキンさんが羨ましいのではなく、求めるのはその自分だ。それが100%腑に落ちると、人を羨んでいること自体には、意味が見いだせなくなってこないだろうか。

なので、「誰かを羨んでしまう」という人は、

◯羨んでいる対象についてとことんリアルに想像してみること
◯なにが羨ましいのかを洗い出して、それを手に入れた暁の自分自身を羨めばいい

のだと思う。すると、羨んでいるその人物のことはどうでも良くなり、自分には自分しかいないことがよくよくわかる。そして、もし手に入れたいなにかがあるのだとしたら、自分が動くしかないのだということも。
羨ましいのは、『自分がなってみたい自分自身』なのですよ。自分に嫉妬したって、仕方ないですよね。

というわけで今日は、羨ましい、嫉妬しちゃう!という気持ちから覚める、わたしの好きな考え方についてのシェアでございました。誰かの刺激になってくれますように!それではまた、明日ね!!

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