見出し画像

489/1096 悲しみが透きとおるとき

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で489日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

489日目、よはく・・・余白?今日は余白の日か・・・!
余白と言うと、なにかが書かれていない部分のことだ。なにかが書かれているものというのは、書かれているところと余白の部分があって初めて成り立っていると言える。その紙ぜんぶを全体とすると、紙=なにかが書かれているところ+余白、となる。

これを宇宙と自分とに当てはめてみると、宇宙=自分+自分以外、となる。紙を用意して、真ん中に自分を描く。紙全体が宇宙だとすると、紙は自分の描かれている部分と、それ以外の余白によって成り立っている。つまり、自分の形が変わると、余白の形も変わるということ。

自分を円形に描けばその円を包む形に。
自分をひし形に描けばそのひし形を包む形に。

自分以外の環境は、自分が変われば変わるのって当たり前だよなあと思う。
よし、489日目の今日は、語呂が「よはく(余白)」だったから、そのことを意識して書いてみよう!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は盛大なピンチに見舞われている。とにもかくにも、あれこれが重なって時間がなく、めっちゃピンチだ。こんなときこそ、思いつきダダ漏れ戦法でいこう!そうしよう!

そう、先日「杜甫のように涙を誘う詩の書ける人になりたい」「吟遊詩人になってみるのはどうだろう」と思って(え?なぜって・・?それはわたしが・・・馬と鹿が連続している状態だからです)、そのために切ない気持ちをを思い出してみようとした。

悲しいポエムを書くために、わざわざ悲しい気分になろうとしたのだ。

わたしは、悲しいことを探してみた。
ところが、なんと、、本気で探すと、ない・・・!ないのだ。
これぞ、ザ・悲しみといえるものが、なかったのだ・・・・
 
「悲しそうなこと」ならば、それはそれはたくさん思いついた。
母は老い、昔の母よりずっと小さく弱くなった。
昔の母の絞った布巾は水分がすっかり抜けてキシキシするほど固かったのに、今の母の絞る雑巾は柔らかくて、わたしが絞ると水が出る。
 
真っ白くて、百合の花びらの表面みたいにすべすべで、片栗粉みたいにサラサラで、お餅みたいにふわふわでお花みたいな匂いがした母の頬には、苦難がぶら下がった跡みたいなシワが寄って、老いを証明するみたいに薄いシミがスタンプされている。
 
悲しいことと言えもする。
でも、胸に手を当ててみると、わたしはそれを悲しんではいない。寂しいし、切ない。でも同時に、母がこれまで生き延びたことを「良かったな」「すごいな」と思っている。「母が71年生きて老いたことが、悲しいです」とは言えない。

たとえば永遠の命を手に入れたとしても、母は嬉しくなどないだろう。母はこの宇宙に現れた、「だんだん老いて必ずこの世を去るということを自然なプロセスとしている、ひとつのプログラム」なのだと思う。そう思うと、寂しさ切なさとは別のところで、すべてこれで良いんだ・・と感じている自分がいる。

わたし自身にも、悲しそうなこと、はいっぱいある。わたし自身が、おかしな歪みや勘違いや思い込みがいろいろあって、頻繁に無気力になるし、生きるのが大変なくらい、さまざまなものに不適合だ。
社会との相性が非常に悪い。

その原因としてのあれこれは、わたしが自ら選んだこととというよりも「三つ子の魂百まで」の比重が大きいように思う。多くの人がそうであるように、わたしもたくさん細かい傷を負いながら育った。そして、その組み合わせが食べ合わせのように悪かったのか、こんな人物となってしもたのだ。

それもまた、悲しいことと言えるのかもしれない。
わたしはなにも、自らこんなにグータラな人物になりたいと思ったわけじゃない。こんなにも自己評価が低くて、こんなに劣等感がいっぱいで、器用貧乏でなにをしても身にならなくて、こんなに恥いっぱいの人になど。そう決心して、ボタンを押して、「はい」を選んだ覚えなどない。

でも、そうなっていたのだ。物心ついたころにはすでにアウトだったと思う。もうその傾向にあった・・・そしてはたと気づいたら自分がジーパンを履いていて腹から血が出ていて、「なんじゃこりゃああああ」と太陽に吠えるしかなかったのだ。(わかるかなあ・・・)

でも、そのことを悲しんでいるかというと、そんなことはない。

わたしは、髪にソバージュパーマをかけて、セーラー服のスカートを超ロングにし、赤い口紅をつけてガムを噛みながら、だいたいよォ、こんな家になんか生まれたくなかったんだよ!とか、頼んでもいねえのに生んだのは誰なんだよ!とか、お前たちの育て方が悪かったからアタイがこうなったんじゃねえか!などと言って鎖のヨーヨーを振り回して壺を割るなどして親に怒るという気骨もないまま、無気力のままどんよりと大きくなってしまった。

そして、お、おや??・・なんで自分はこんなにどんよりとしてるんだろう?!と思ったのだけれど、そこはまたどんよりとした人物なだけあって、「まあいっか」が勝ったのだった。ソバージュ代が浮いた。

悲しいことってなんだろう。

飼い猫たちと、飼い犬と、爺さま婆さまとの別れ、それから夜逃げしてきた思い出の家、そこに置いてきてしまった大切だったものたち。
騙されたこと、奪われたもの、失ったもの、傷つけられたこと、傷つけてしまった人・・・・・

思い出すと切ない。でも、わたしが感じているのは悲しみなのだろうか。ごめんねがいっぱい。幸ありますようにという祈りがいっぱい。悲しかったことが、どうしようもなかったことに見える・・・

星だって消える。雪だって解ける。辛かったことは、わたしが手を離すと風船みたいに空にのぼっていく。どうしようもなかったことはもう、いいよねって思う。これは悲しみなのかな。考えていたら、ただ、ただもう、愛だったのだと思った・・・

悲しみは、愛しさと友達だ。
人がなにかを悲しいときは、必ずなにかを愛しいのだと思う。
悲しみを疎まないで、自らその気持と仲良くしようとすると、わたしたちは必ず愛に出会う。悲しい人は、愛する人。悲しんでいるとき、その人はなにかを愛しているのだ。

わたしは誰かが悲しんでいたら、それをやめるべきだとか、原因を探して消したほうがいいとは思わない。そこにあっていいのだと、居場所を作ってあげて良いものだと思う。その悲しみは愛あってこそだったという思いに、きっとゆっくり着地できるだろうと勝手に温かい予測をしてもいい。
悲しみって、どこまでも透き通っていける。それで、薄くなったら、ああ、愛しさでできていたんだねって見せてくれるもの。

そう思った。いい気分だった。杜甫に対抗意識を燃やすほどまで、身の程知らずでよかったぜ・・ww

これからは、他者の悲しみにもっともっと響いていきたい。
そこに響いて、それがあるということをもっと自分の中に包み込んでみたい。いろんな感覚を感じて、揺れたりビビったり涙したりしながら、それらを何かで包んで、自分の中で中和していってみたい。
 
そしてときどき詩を書いて、吟遊して、杜甫ぶってみたい。それでロクでもないものしかできなかったとしたら、うーんどうしよう。昔浮いたお金で今度こそソバージュをかけてグレてみようか!(笑)

というわけで今日は、悲しみについての思い、つらつらでした。
それではまた、明日ねー!!

【女塾サロンで一緒に女を楽しみましょう!】

今後、オンラインお茶会や個人セッションなどのリアルなやり取りをメインにしていきます!女同士の語らいや相談を一緒に楽しみましょう!

【Twitterもよろしくね!】


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)