渋谷のミチバタを歩く Vol.3 ―齋藤紘良

マリー・シェーファーという音楽家をご存知でしょうか。
サウンドスケープ(音風景)を提唱し、音響生態学やサウンドデザインといったジャンルを大きく飲み込んで、世界のありとあらゆる発生音に意識ベクトルを向かわせた重要人物です。彼の著書「世界の調律」は、ブライアン・イーノのアンビエントミュージックと呼応し、クリストファー・スモールの「ミュージッキング」やバーニー・クラウスの「野生のオーケストラ」などに多大な影響を与えました。

 サウンドスケープ(音風景)つまりその場で聴こえてくる無数の音、私たちを取り巻く数多の音にひとたび意識を向けてみると、果てしない情報量が耳渦に流入していることに気がつきます。この周りの音への意識化は、当然、自分自身の主観によって組み立てられているのですが、”意識してもしなくてもいい”という自由を与えられた音の楽しみ方でもあるといえます。最初のイチ音が鳴り始めたら席を立てなくなるコンサートとは違い、自分自身の興味で自由に聴きたい音をクローズアップできるなんて、見方を変えればどこにいても贅沢な音楽が聴こえてくるような錯覚を覚えます。

 この音の聴き方にはもう一つ面白いことが含まれています。ちょっと表現が難しいのですが、自分の主観的サウンドスケープと他者の主観的サウンドスケープは、両者が同じ場所にいてもそれぞれ気にしている音と気にしない音別々に混ざっているということです。これは当たり前のことに聞こえるでしょうし、実際、当たり前のことを言っているとご理解ください。

 一般的に「音楽(楽曲)を聴く」という行為は他者との共通理解を多く求められる場面があり、共通して分かり合えないものは捨て去られてしまうことがほとんどです。例えば、youtubeから流れるポップミュージックを聴いて「いいよね〜」と大勢の共通理解が多い音楽が一般的に”求められる音楽”となります。対してサウンドスケープは、それぞれの主観が独立して存在し、共通理解を確かめぬまま別々の時間軸で環境に存在することを許されています。
 自分と他者の間で重なり合う部分の主観を、フッサールという哲学者は「間主観性」と名付けました。この間主観性をサウンドスケープに照らし合わせると、環境内で発生する音のすべてが”求められうる音”の可能性を持ち、その場にいる自分や他者の主観によって刻々と変化し続けるものと言えます。

例えば、街の中に出たとき、こんな音の景色が聴こえてくるとしましょう。


  ギ     ブッブーブー
 ギ
ギ    ト          〜〜
ィ   コ        タタタタ
ィ    ト ン
I      コ       /
             タ
      私     バ

 カ        ちっち
                っち
ジーッ        ぶ
  ジーッ  他者  お
     ジーッ   ん

どこにいても自分の足元に中心があり、「私」の思うままに音へのアプローチができる。そしてどこかの他者と”求めている音”が重なる可能性がある。

そうそうそう、
その「主観」がたくさん集まって自分で環境の楽しみを見つける感覚を僕は知っている。覚えている。

そうそう、
ミチバタキッズだ。

そう、
道端でベーゴマを廻しいてもいいし、スーパーボールすくいをしていてもいいし、おしゃべりしていてもいいし、素晴らしい音楽家たちの演奏に聴き入ってもいい。美味しいカフェラテもある。

うーむ、ミチバタキッズの音風景がもどってきた.

再開が待ち遠しいですね。ミチバタキッズのような参加者それぞれの楽しみ方を包み込んでくれるイベントが、コロナ禍を経てより必要性を感じています。ミチバタキッズの再開時にはぜひマリー・シェーファー氏にもご来場していただきましょう。

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