「子どもの歌」 ーHara Kazutoshi

昨年子どもが生まれてからというもの、自分の子のみならず赤ちゃん全般をかわいく感じるようになった。道で赤ちゃんとすれ違うと自然と目が向いてしまうが、以前の自分にはなかった感覚である。
また、「赤ちゃん的なもの」にも反応するようになった。先日久しぶりに「ダイの大冒険」を読み返していたら、主人公のダイが頭身が低く丸々してて赤ちゃんぽくてかわいい、と感じたが昔読んでいた時には全く思わなかったことだ。
子供が生まれたばかりの頃は、テレビを見ていてダイアンの津田の見た目がなんか赤ちゃんぽいなと思ったこともあったが、さすがにこれは行き過ぎである。

同様に、子どもに関する歌に関しても以前と受容の仕方が変わってきた。
BLANKEY JET CITYの「赤いタンバリン」は1998年に発表され、ブランキーの熱心なリスナーではなかった私でも知っているヒット曲である。この曲がボーカルの浅井健一氏の当時生まれたばかりの子どもについて歌っていて、赤いタンバリンとはその子の心臓を指しているという解釈があることを最近知った。
この説の通りだとすると、「あの娘のことが好きなのは 赤いタンバリンを上手に撃つから」という歌詞は詩的であると同時に、新生児の親の普遍的な感覚を表現している。
生まれたばかりの赤ちゃんは信じられないくらい無力かつ無防備で、普通に呼吸をしたり排泄したり寝たりなどの生きるために最低限の営みをしていること自体が奇跡に感じる。ただ心臓が動いていることに感動し、「上手」と表現することにとても共感できる。

また、Spotifyで童謡のプレイリストを流しながら子どもをあやしていたら、「シャボン玉」が流れてきて久しぶりに聞いたその歌詞にはっとさせられた。

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
生まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

改めて聞くと物悲しい歌である。調べてみると、「シャボン玉」を作詞した野口雨情は長女を生後間もなく亡くしており、歌詞はそのことについて書かれたという説や、同様に幼くして亡くなった親類の子へ向けて書いたという説、当時は未就学児の死亡率も高かったことから子どもの死一般に対して書かれたなど諸説あるようだ。また、詩の初出が仏教雑誌ということから仏教的な死生観を書いているという説などもある。
もちろん単にシャボン玉についての歌なのかもしれないが、一聴してどうしても子どもの死を連想してしまう。
どうか子供の前途は穏やかであって欲しい。「風、風、吹くな」という歌詞はそうした祈りのようにも聞こえるのである。

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