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渋谷に文化をつくった男

引っ越しの荷物を纏めて本棚の整理をしていた時、特別な思いを持って久しぶりに手に取った2冊の本がある。
2冊とも、書いたのは別々の人だけど、両者とも私にとっては生前とても近くにいた人物だ。
一人は、元東急文化村の社長、文化村開発の中心人物で、渋谷に文化をつくりあげた田中珍彦さん。もう一人はスーパーポテトの創設者、無印良品のブランドや日本のインテリアデザインをつくりあげたうちの一人である杉本貴志さんだ。

杉本貴志さんは2018年に、 田中珍彦さんは2019年に亡くなった。

二人とも、私の人生に現れたキーパーソンのような人たちだ。

役者時代、厳しくも暖かく見守ってくださった 珍彦さん。
役者を辞めた後、私が秘書となり、今いるデザイン業界への導き手となった杉本さん。
(これ以降、私が呼んでいたお二人への呼び方で書かせていただきます)

お二人からは、沢山の時間をご一緒し、沢山のお話をする中で、
「人としてどう生きるか」ということを見せもらったような気がする。
今、ここで、2冊の本を通して、直接私が聞いた彼らの言葉を思い出して、お二人の生き様や人柄が少しでも残せたら良いなと思う。

二人にしたら良い迷惑かもしれない。
私が自分のことを書くと言うと、絶対に横で
「おいおい、やめとけ」と言いそうな人たちだ。笑
でも、きっと、二人はそんな私を許してくれて、
暖かい目で見守ってくれていると信じたい。

小さな私から見た、大きく生きた二人の人生が、その人となりが、少しでも垣間見えたら嬉しい。

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田中 珍彦さんとの出会い

 珍彦さんは真の演劇人だったと思う。
文化村の社長を経て会長を退任された後も、役者から連絡を貰えば、どんなに遠い、小さな劇場であろうとよく芝居小屋に足を運んでいた。
「しのぶちゃんと会って」とか「りえちゃんが」などと言って話すのは、大竹しのぶや宮沢りえのような大女優のことで、それと変わらないトーンで私のことも「みっちゃん」と呼んでくれる。売れている・いないに関わらず、俳優と分け隔てなく接してくれる数少ない貴重な存在だ。
私は 珍彦さんとは、まだ私が早稲田の学生だった頃、「駆け出してもいないジョユウ」の時に出会った。

学生時代、私は音楽プロデューサーでBMGファンハウスやドリーミュージックを設立した新田 和長さんと親しくしていて、新田さんが何気なく、
「みっちゃんは歌手というより、松たか子みたいに、劇中で歌うのが良いんじゃないかな?」と言われたことがきっかけで、単純な私は、
『そうだ、私、女優になりたかったんだ』と意識し始めた頃だった。
それでも、どうやってジョユウになれば良いかわからない。
その後、新田さんが非常に親しくしていた田中 珍彦さんを紹介してくれた。
新田さんも 珍彦さんも早稲田出身で、何というかやっぱり同学の誼というか、ちょっとした絆のようなものが生まれる。
駆け出してもいないジョユウが、東急文化村の社長に出会った。
初めて出会った演劇人が、大物すぎた。

 確か、私は、出会った後に、 珍彦さんにお会いできたお礼のお手紙を書いたような気がする。
そうすると、 珍彦さんから、「今、蜷川幸雄演出のハムレットが稽古中だから良かったら見に来たら?」というありがたい連絡を頂いた。

それが初めて、稽古場という場所で、生の演劇が生まれるのに出会った瞬間だった。
それは、泣きたくなる程美しくて、輝いていた。

ハムレットは藤原竜也。オフィーリアは鈴木杏。レアティーズはまだ売れて間もない小栗旬だった。
渋谷にある稽古場にお邪魔して、どこで自分の居場所を見つけたら良いか分からずドキドキしながら周囲を伺うようにして稽古を見た。
言わずもがな、藤原竜也も鈴木杏も素晴らしい俳優で、稽古場に蜷川さんの怒号が飛ぶ中、汗を流し、涙を流し、「これが演劇だ」と突きつけられた気がした。
藤原竜也と同じ年の私には、「同世代でこんなにも輝いている人がいる」ということに衝撃を受けて、放心状態だった。
稽古が終わって帰る途中、
彼らが羨ましいほど美しくて、感動してて、崇高に輝いているような気さえして、それに比べて何にもならない自分がちっぽけすぎて、
明治通りを泣きながら走った。

そして、その年、私は文学座付属演劇研究所という劇団の養成所を受験することに決めた。

 珍彦さんは蜷川さんととても親しくて、文化村の芸術監督に蜷川さんが就任する際には、蜷川さんが 珍彦さんのことを
「モミアゲが変、だから信頼する」
と言って引き受けたらしい。(日経新聞より)
一度会ったら忘れられない、トレードマークはそのモミアゲで、ユーモアあり、情熱があり、厳しくあり、チャーミング、何よりも愛情のある人だった。
生きる美学を知っている人だったように思う。

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(お写真、朝日新聞より)

東急Bunkamura設立

Bunkamuraは1989年9月に開業、9月3日にはドイツのバイロイト劇場からきた『バイロイト音楽祭日本公演』がそのオープニングを飾った。

ドイツにあるバイロイト劇場とは、作曲家リヒャルト・ワーグナーが、自ら作曲した楽劇を最も理想的な環境で上演するためにつくられた劇場で、毎年夏に行われるバイロイト音楽祭ではワーグナーの作品のみが上演される。
その人気は世界各国からファンを集めるほどで、チケットは抽選で行われ「世界で最もチケットの取れない音楽祭」と言われている。

その、バイロイト音楽祭がそのまま、Bunkamuraの柿落としに、世界初の引越し公演を行った。
このニュースは瞬く間に世界に広がり、Bunkamuraオーチャードホールの名前が知れ渡った。

珍彦さんこそ、Bunkamuraという芸術の複合施設を渋谷につくりあげ、
このバイロイト音楽祭をオーチャードに呼んだ立役者だ。

歌い手にとってもっとも理想的な環境

 珍彦さんの手記珍しい日記には、当時、いかにしてこのバイロイト音楽祭を上演する切符を手に入れたのか、海外との交渉術、劇場に生きる者同士の国境を超えた友情、公演を実現させるために尽力してくれた人たち、
など当時の様子が事細かに描かれており、その時代の珍彦さんの並々ならぬ情熱を感じさせられる。

Bunkamuraオーチャードホールの杮落とし公演に「バイロイト祝祭合唱団」を招聘するため、劇場の視察とヴォルフガング・ワーグナー(リヒャルト・ワーグナーの孫で、当時のバイロイト祝祭劇場の総監督)に会うため、初めて 珍彦さんはバイロイト劇場を訪れた。

バイロイト祝祭劇場は「全ては音の響きのために」というワーグナーの思いが込められて設計されている。客席には冷房がない。なぜなら、歌い手にとって冷房が喉には非常に悪いからだ。
夏の音楽祭に3時間以上の歌劇を見るのに、冷房のない劇場の中、開演するとその扉が開かれることはない。それは厳格なルールとなっており、そんなことに腹を立てる人もいない。ここには、日本と違う音楽文化が人々の中にしっかりと根付いている。
一部が終わると、幕間が1時間ある。休憩となると、具合が悪くなり倒れる人が出るらしい。そのために、劇場に救急センターまで隣接されている。
そこまでして、観る方も、崇高なる音楽の前には、相当の覚悟をもって臨まなければならないのだ。

そして、 珍彦さんは、劇場に集まった男女の正装姿の煌びやかな装いに目を見張った。
それは、日本にはない初めての経験だった。日本では当時、「避暑地に行っても、オペラも上演されていなければ正装姿の人たちもいなかった。」
ヨーロッパでは、クラシック音楽が人々の生活の中に深く根付いているのは、今私が行っても感じること。日本とは違う文化を目の当たりにする。
当時は特に、オペラに正装で行くということが日本の日常ではないことだったのだろう。

文化村を運営するということは、この先ずっと見事に違う文化の狭間で双方をコントロールしなければならないのだ、ということに気がつき、大変なことを始めたんだなぁ、どうしよう…という思いが込み上げてきた。

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このバイロイト音楽祭をオーチャードで上演するにあたっては、想像通り、数々の問題や難問を乗り越えなければいけなく、その度に 珍彦さんは獅子奮迅の働きをした。

そして、最後の難題。
バイロイト音楽祭がオーチャードホールで開催する際には、キャストスタッフ合わせて、200人以上をそのまま収容しなければいけない。(実際にワーグナーが引き連れて来たのは289人の大所帯だった。)そんな人数を収容できるスペースがない・・・!
このままでは、実現できない。
公演の約半年前、日本に視察に訪れたワーグナー夫妻から
「もう一度くるから、その時に環境が解決されていなかったら公演は本当に中止だ」
という言葉を突きつけられ、珍彦さんにある妙案が思いついた。

ミュージアムを楽屋に

実際には、ワーグナーから求められた広さからは15平米ほど足りなかったが、 珍彦さんは見事にこのスペースに関する難問解決の奇策を思い立ち、オーチャードの下にあるミュージアムを楽屋として使用することにした。
そして、どこの劇場もまだ実現したことのない『バイロイト祝祭劇場の引っ越し公演』を実現させることができた。
1989年9月3日にBunkamuraはグランド(全館)オープンしたということになっているが、実際には、これが理由でザ・ミュージアムのオープンは遅れて9月17日にオープンとなった。
なぜなら、ミュージアムに設置された楽屋・シャワーなど、バイロイトの人々が引き上げた後に撤去されて修復しなければならなかったからである。
そして、この楽屋一つにしても、徹底的な「歌い手ファースト」のつくりが求められた。

半年前のワーグナーとの最終の打ち合わせの際、
「足元の隙間風が冷たく、歌い手には一番良くない。」
ために、間仕切りの下は埋めるようにと指示された。たかが10センチあるかないかの隙間である。
そんなことまで見る筈がないからする必要がないと主張する東急建設の部長に対し、 珍彦さんは
「彼が見るか見ないかの問題ではなく、交わした約束は守りたい。これは約束した僕の問題だからやってくれ」
そう言って、全ての隙間を埋めさせた。
ワーグナーが最終チェックを行った際、やはり彼は、間仕切りの下を覗いたという。そして、満足そうに笑うと、 珍彦さんに握手を求めた。

劇場が開く時

1989年9月3日、東急Bunkamura開業の日
午後六時、オーチャードホールの扉が開いた。制服を着たモギリの女性がチケットを切り、お客は初めて入るホールのロビーへと少し意識して流れるように進む。チケット発売の時「初日に限ってはフォーマル着用」と指定していたのでお客も意識して来たのだろう。
まるで、バイロイトのように、まるでザルツブルクのように、まるでウィーンのように・・・着飾った人たちがロビーに溢れかえった。各階、各ドアには案内の女性たちがお客様を待ち、淀みなく席に案内する。

世界の劇場に触れ、学んだ成果が今ここにあると感じた。(珍しい日記)

オーチャードの扉が開いた時、劇場が目覚め、それまで客が踏み入れたことのなかった劇場が息吹いた。 

私は、 珍彦さんの生前、文化村にいらっしゃる時から退任された後も、オーチャードで毎年上演される「ジルべスターコンサート」で年越しをすることが年に一度のとても贅沢な心の豊かになる時間だった。
母と正装して劇場に行く。
そこには、男性も女性も、「この時のために」様々な装いで特別な時間を味わう。

 珍彦さんが1989 年初めて目にした光景は、その後もずっと、変わることなく続けられ、ここに文化が生まれた。

渋谷に文化をつくった男

 珍彦さんは、私が出るお芝居には必ず来てくれた。
沢山の手紙を書いたような気がする。
「初めて舞台に出ることが決まりました」「今度こんな役をします」
そして、普段お世話になっているからチケット代はいらないからと言っても、絶対に自分で支払いをして来てくれた。役者にお金のないことは知っている。自分が観る舞台は自分で払う。
それが、きっと、 珍彦さんの演劇人としてのやり方だったんだろう。

私が自分にとっての出世作、松竹製作の松たか子さん主演ミュージカル「ジェーン・エア」に出た時には、お知らせをしなかったのだが、こっそり見に来て、後でメールをくれた。
「ヘレン・バーンズ様」
私の役名で呼びかけてくれ、楽屋でもお会いしなかったから私はとても驚いたし、見ていただけたことがとても嬉しかった。

芝居を見に行っても楽屋には行かない。
それも、 珍彦さんの流儀の一つだった。

そして、観劇した芝居に対して批判めいたことは決して口にしなかった。
それは、 珍彦さんが根っからのプロデューサーで、舞台というものがどのように生まれていくかよく分かっていて、そして何よりも劇場を、作品を、作品に関わる人を愛していたからだと思う。

私が役者となって12年目、ジョユウをやめることにした。
 珍彦さんに会って、そう伝えると 珍彦さんは笑いながら
「良かった。それが良いよ。」
と言って、喜んでくれた。
君みたいな普通のお嬢さんには、演劇の世界は合わないから。
私には、嬉しくも少しさみしいような、新しい出発に贈られた言葉だった。

 珍彦さんとはしょっちゅう芝居も見に行ったし、お食事もご一緒して、文化村の方達とも交流をさせて頂いた。
しばらく疎遠になったこともあったけれど、文化村の会長を退任されたという噂を聞いて、私は「これでもう気軽に珍彦さんに連絡ができる」と思って久しぶりに連絡し、会うことになった。

その時、 珍彦さんはこんな風に言っていた。
「肩書きがなくなるとね、人ってスルスルといなくなるもんなんだよ」
その言葉を聞いた私は、逆に肩書きがなくなった珍彦さんには気軽に会えるのが嬉しかった自分と比べて、社会とは何とそういうものなのかと、
裏さみしいものを感じた。
「僕は、新しい人と出会いたくない。人間関係を広げすぎると、その人に誠実にできなくなるから。本当に付き合いたい人を大切にしていきたい。」
「出会った人には必ず手紙を書くようにしていた。」
沢山のことを教えてくれて、私には父のような、師のような、そして、私の中で、私は、 珍彦さんの一番若い最後のガールフレンドだと思っていた。
(勝手にそんなこと書いたら怒るかな。)

かと言って、そんなに頻繁に会うわけでもない。
2018年の秋、ふと 珍彦さんどうしているかなと思って連絡してみたところ、連絡が返ってこなかった。
しばらくして、これはおかしいなと思って電話をしてみた。
出なかったけど、しつこくかけてみた。

すると、 珍彦さんが折り返しの連絡をくれた。
その時、 珍彦さんは既に病魔に犯されていた。

みっちゃん、僕は癌で闘病してるんだ。自分の時間は長くないんだ。
もう、僕のことは忘れてね。

私は、今までこんな経験をしたことがなかったから「忘れてください」と言われても「はい、わかりました」とも言えないし、どうしたら良いかわからなくてオロオロした。
返事はいらない。でも、 珍彦さんのことを思っていると言って、しばらくメールを送り続けた。

そして、最後のメールが届いた。

「もう自分は閉店です。メールもしないでください。
きっと、いつか君のところにも知らせがいくと思います。」

私はお仕事でお付き合いしていた訳でもないし、
お互いに家族の話はしてよく知っていたのに、ご家族との面識もなく、
誰も知らせてはくれなかったけど、
田中 珍彦さんの訃報は間違いなく、ニュースで私に届けられた。

かっこいい人だった。
去り方もカッコよかった。自分の弱っていることは誰にも知らせず、
かっこいい姿をみんなの目の奥の残して去って行った。

noteを書くようになって、こうして自分の過去の時間と今を結びつけることができて良かったと思う。
 珍彦さんには何の恩返しもできなかった。
最後に会うことも叶わなかったし、ありがとうの言葉さえ伝えられなかった。私は、誰とも、 珍彦さんとの別れの寂しさを共有することができない。
ただ、一人であの時のことを振り返るだけだ。
でも、それも見方を変えれば、私が一人で持ち続けることができる思い出は私にしか分からない宝物のようなものかもしれない。

私にはこうして、大切な人とのかけがえのない時間があったことを思い返せば、自分の人生はそんなに悪いものでもないかもしれないと思って、
今何気なく過ごしている時間さえも、今の私には気が付けない大切な時間、
大切な人といられる限られた時間なのかもしれないとも思う。

 珍彦さんから頂いたたった一つのプレゼントがある。
私の誕生日にと言ってくださった。それは、ポストカードが入る大きさの、金色の額だった。

私は、それを今の家の玄関の、正面に飾っている。
帰って来て、扉を開けたらすぐ見える場所。
中には、木村伊兵衛の撮ったパリの写真を入れている。

そうだ。引っ越しが落ち着いたら久しぶりにBunkamuraに出かけて行って、
ル・シネマで映画でも見よう。

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