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旅するように生きたいと思った

「30代は楽しいよ」という言葉**

私の人生の中で一番大きな転職は、31歳の時、舞台の仕事をやめようと決意した時だ。
そこから遡る1年前、30歳の誕生日。私は日生劇場で迎えた。
素晴らしい作品に巡り会え、ジョンケアードという、魔法使いのような演出家のもと、松たか子さん、橋本さとしさんはじめ、素晴らしい役者とスタッフで「ジェーン・エア」という作品をつくりあげた。
カーテンコールが終わると、みんながケーキを持って楽屋廊下で待っていてくれて、お祝いをしてくれた。
こんな幸せな誕生日があるんだと思った。
その時、松さんが言った言葉。
「30代は楽しいよ」

そうか。そういうものなのか。
私の30代はこの言葉と共に始まったと思う。

この作品が、私が商業演劇に出た最後の作品となった。
日生劇場と博多座の公演を終えて、私はせっかく九州に来たのだからと、佐賀の友人の家に泊めてもらった後に、長崎に行き、その後、平戸という小さな港町に行った。

私はこの舞台が終わった後、次の仕事が決まっておらず、自分がどう生きていくか自信が持てず日々悶々としていた。
舞台役者の仕事は、仕事がずっと続いている時と、いつ次の仕事が来るのか分からない状態が回って来る。そんな生活が不安で、また、それは自分の思い描いていた30代の姿とはかけ離れているように感じていた。
「役者の仕事は待つ仕事」内野聖陽さんも昔そんなことを言っていた。待っている間に堕ちず腐らず、次の仕事の準備期間に充てる。
いつか自分が声をかけて頂いた時のために最高のパフォーマンスができるように。

千秋楽後の旅

平戸の町に着いた翌朝、雲ひとつない晴天が晴れ渡っていて、そんな憂鬱な気分も吹き飛ばす青い空、そして、なんだか分からないが、久しぶりに帰って来たような懐かしい、暖かい気持ちになり、私は、「日本で一番好きな町」を見つけた。
平戸に行こうと思っていたのは、博多座の公演中、劇場においてある何冊かの「るるぶ」を見て、一枚の写真に惹かれた。
それは、「教会とお寺の見える坂道」という写真。
その一枚の写真を見て、私は平戸に行きたいと思った。
自分の節目となった公演のあとに出会った街は、今も私にとっては特別な街。
旅が特別な意味を持ったはじめての経験となった。

巡業の魅力

私がジョンケアードに出会い、ジェーン・エアの初演に出てからいくつかの帝劇の舞台やレミゼラブルなど大きな商業舞台に出られるようになる前は、「剣劇」という伝統の演劇を踏襲する「劇団若獅子」という劇団で、座長の笠原 章さんの付き人をしながら各地を巡業する旅公演に参加していた。
北条秀司や池波正太郎という、大変な脚本家の書いた「国定忠治」や「坂田三吉」など、若い人には知られないような名作の数々に触れた。その精神をお客様に伝えるためには、着付けから所作まで、その時代の人として生きる覚悟のようなものがいる。
2週間ほど東京で稽古をした後、その作品を持って「乗り打ち」と言って、各地方に到着して舞台を作り上げてはまたそれをバラして次の地方へ行くスタイルだ。
キャストもスタッフと一緒に平台を運んだり、小道具の準備をしたりする。自分たちの手でつくり上げる舞台。
地方の名前も知らないような劇場に行くと、そこに来るお年寄りのお客様が手を叩いて、時には涙を流してくれて喜んでくれる。公演中には飴玉を鞄から出す音がする。

日本の古い芝居には沢山の泣ける要素が組み込まれていて、人情・家族愛・夫婦愛など人生の悲哀が感じられる。そう言ったものを舞台上につくり出して、お客さんに泣いてもらえる、それを各地で一緒に体感できたというのが私にとってはかけがえのない人生となった。
お年寄りばかりで咳が絶えない事もある。演劇も滅多にこないような場所で、おばあさんたちが喜んで声をかけてくれること。私は、そう言った公演が大好きだった。
地方の公民館、駐車場の先に小高い丘があり、小さな鳥居と祠が見える景色が、公演前、外の空気を吸いに行くと自分の心を落ち着けてくれるのを感じた。
巡業に出ていると、劇団は家族のようであり、同じ釜の飯を食べ、身内のネタで笑い、バスで次の地方に移動し、夜中着いたら例えば名古屋の味噌煮込みうどんを食べに行く。
そんな鬱陶しいほど熱い関係も、今となっては懐かしい。

私が、振り返ってみて、良い時代だったなと思うのは、そんな時代。

もう、どこの町か思い出せない、小さな公民館の駐車場からみられる小さな祠。あれが私の原風景となった。

そして、私は「旅するように生きたい」と決めた

私が博多座のジェーン・エアを最後に(その後も小劇場の舞台をいくつか踏んで)、役者として生きることをやめようと決意した時、次をどう生きるのか全くイメージが湧かなかった。就職試験をいくつも受けるうちに、自分が何をしたいのか、何ができるのか心に問う日々が続いた。
そこで、ふと思い浮かんだことば、
「旅するように生きたい」
この言葉に辿り着くと、ストンと自分の体に落ちるような気がした。
これが、私の30代のキーワードとなった。

そして、最後の役者としての仕事、渡辺えりさんの還暦60周年コンサートでコーラスとして参加した東京・花巻・山形公演を周り、最終の地、山形で朝までミュージシャンと飲んだ後、私はそのまま新幹線に乗り、「スーパーポテト」というデザイン事務所の面接を受けるため、一人、一足先に東京に戻った。

山形から舞い戻り、上北沢という世田谷の駅にある、まるでラピュタに出て来るような、蔦の生い茂るコンクリートの要塞のような建物の扉を開いた時、そこに待ち受けるのは、
デザイン業界のラスボスのような存在のドンであることなど、想像もしていなかった。

そこで出会ったドンは、旅することでデザインをする、生きることはデザインである、旅の哲学を持つ人だった。

この人との出会いが、新たな私の人生の扉を開けることになった。

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