再起不能なんてあるものか
自作詩(東方Project二次創作)
偽りの喪失/古明地さとり
非愛/古明地こいし
解説:
心を読む怪物や能力者、というものは、ファンタジーや妖怪奇譚において多数の例がある。『ジョジョの奇妙な冒険』第三部に登場するテレンス・T・ダービーは、自身のスタンド能力を用いて相手の心を読み、一対一の対人ゲームにおいて相手の次の一手を予知することで完璧な勝利を収めようとする。『うしおととら』に登場する妖怪サトリは、基本的には心優しい妖怪だが、自分の身内のためならば相手の心を読み回避する方向や攻撃の対象などを読んで完膚なきまでに叩きのめすだけの暴力を手に取ることができる。
心を読む、という能力は、対人における強さの観点では桁違いに強い。それは一種の未来視であり、それを持つ者と持たない者で戦いの次元がいくつも変わってしまう。そして強さとは、持つ者に必ずしも幸福を齎すとは限らない。強力な神通力を持つ天狗、神降ろしを行い人々に神託を捧げる巫女などは、世論を変化させ得るだけの力を持ちながらも、山の奥深くに追いやられ、しばしば迫害の対象として見られる。強さとは、それを持たないものからの理解を、あるいはそれを持つ者から持たない者への理解を、得るための障壁となる一面がある。その「わからなさ」を、神的な加護として見て、より深い理解を求めずに打ち止めにしてしまう例は歴史においても現代においてもたくさんある。『日出処の天子』において、厩戸皇子(聖徳太子)が浴びせられるものも、そういう神格化した、まったく理解の介在のない目線である。
東方Projectは、史実や創作において存在した多数の妖怪・神・霊・人物を素体とした人物を数多く描くコンテンツだ。俺が思うにこの東方Projectの面白いのは、ほとんど全員が人間を模って登場することである。先日取り上げた犬走椛は白狼天狗、ミスティア・ローレライは夜雀、西行寺幽々子は西行法師の娘だが、どれも設定上は「妖怪」「亡霊」と区分けはあれど、皆一様に、人間の少女の姿を持って作品中に現れる。
それは2000年代から2010年代の(あるいはそれより以前の)インターネットカルチャーにおける「擬人化」「女体化」のブームを単に受けただけ、という見方もあるが、その煽りを受けただけなのだとしても、結果的に擬人化ばかりの形になったのは、創作の材料として面白い。
人間の形をとるということは、その身体性、言語、思考、感情も、人間の道理に近づくことだ。腕と指の数が人間よりも著しく増減する者に、十進数を会得してもらうのは難しいだろう。目が一つしかない者に、立体視を感じてもらうのは難しいだろう。身体性が似通っているほど、姿かたちがそっくりになるほど、その者同士は思考も行動も惹かれ合うのだ。
それはつまり、妖怪であった時分には抱かなかったような、人間らしい(必ずしも良い意味とは限らない)感慨も、東方Projectの中で擬人化された妖怪達は抱いていく可能性があるのだ。
古明地さとりと古明地こいしは、妖怪『覚(さとり)』である。毛むくじゃらの猿のような見た目に、山奥で急に現れては、人の心を次々と言い当てていく。それに狼狽する人間の隙を見て、取って食ってしまう、という特徴が語り継がれている妖怪だ。読心術の使い手であり、相手の心を意のままに読むことが出来る。
覚は一見強そうな妖怪だが明確に弱点があって、突風で飛ばされた砂や小石、あるいは焚火の爆ぜた火の粉が「意識外に」飛んでくると、通常の人間の何倍も驚き、怯えた様子で退散する。無意識に行われること、誰の意識にもなく発生すること、それが妖怪覚にとって最も恐ろしいことだ。
古明地姉妹の登場する『東方地霊殿』では、地上で忌み嫌われた妖怪たちが、放棄された地獄『旧地獄』を根城とし縄張りを築いている様子が描かれる。夜な夜な人の首を刈る鶴瓶落とし、周囲を毒と病に染める土蜘蛛、嫉妬に染まった鬼である橋姫、墓場から死体と人骨を攫って行く火車など、まさしく不浄の者、忌み嫌われる者が地底世界にて多数登場する。その中の一角として、地上を追われたさとり妖怪の姉妹、古明地さとり・古明地こいしが登場する。
姉の古明地さとりは、読心能力を活用して地底世界での快適な生活を得ている。心を読む能力は大抵の存在に嫌われるため、存在自体が牽制となる。誰に対するものかというと、旧地獄に未だに留まり怨みを残す危険な怨霊だ。一方で、言葉を持たず意思疎通の難しい動物たちにとっては、心を読み自分たちの要求を聴き分けてくれるサトリ妖怪の能力は快適な生活の条件となる。したがって、怨霊たちに対する牽制として旧地獄を管理しながらも、その実態管理は懐いた動物たちに任せ、自身は攻撃されにくい場所である程度悠々と生活できるといった、まさしく強者の振る舞いを達成している。忌み嫌われる能力をそのままの形で活用し、強さとして誇示できている、まさしく妖怪と呼ぶにふさわしい立ち振る舞いだ。
ところがこの姉妹には面白い点があって、妹の古明地こいしは、姉と同じサトリ妖怪でありながらも、読心能力に嫌気が差し、サトリ妖怪のトレードマークである『第三の瞳(東方Project中ではこれを使ってサトリ妖怪は心を読む)』をみずから閉ざしている。本人いわく、「心を読んでも悲しいことだらけでつまらない」と述べているが、そう思うに至るだけの出来事として何があったのかは、東方Projectの作品中では語られていない。
姉の古明地さとりは、妹のことを大事に思いながらも、「サトリ妖怪としての素晴らしい能力をみずから失くしてしまうなんてもったいない」と評しており、この姉妹において読心能力への捉え方は違う形になっているようだ。
そもそも地上を追われ忌み嫌われた妖怪、という文脈を持つ地底世界の妖怪達だが、この姉妹を見る限り、姉の方は忌み嫌われてもある程度平気だが、妹の方は嫌われることに耐え切れなくて、それで姉妹ともども地底へ行かざるを得なくなったのではないか、と思えてしまう。そこには姉妹それぞれの世界の捉え方の違いと、それでもなお存在する姉妹愛を感じさせる。
もう一つこの姉妹の面白いのは、その能力である。
第三の瞳を持つ古明地さとりの能力は「心を読む程度の能力」
第三の瞳を閉ざした古明地こいしは「無意識を操る程度の能力」
を持っている。
古明地こいしは第三の瞳を閉ざすことで、人知れずあたりを徘徊することが可能になった。さながら『ドラえもん』の石ころ帽子や『ハリー・ポッター』シリーズの透明マントのように、その場にいても誰も存在を知覚することがない。「無意識を操る」とは、無意識的に存在を知覚させることをほぼ不可能にさせる能力である。その場にいるだけで、相手の心の中に古明地こいしの存在がなければ、発見することは非常に難しい。
しかしその代償に、古明地こいし本人も「意識的な行動」ができなくなっている。徘徊するのは無意識化の判断であり、思考や感情を意図して起こすことができない。彼女自身の行動を、彼女にも制御できない。
このことから、古明地さとりの能力である「心を読む程度の能力」とは、「相手の意識を操る能力」ではないか、という考察が為されてもいる。相手が意識したことを引き出すことができる能力と、相手に無意識に生じることそのものをコントロールできる能力。それが、この姉妹の持つ、ある種対局な能力である。
(無意識の持つ情報量は意識が知覚できる情報量を遥かに凌駕している。もし無意識の持つ情報を、意識して引き出すことができたのなら、通常の人間よりも、あるいは古明地さとりよりも、情報のアドバンテージにおいて、あるいは個人の持つ能力のポテンシャルを引き出す能力として、抜きんでることが出来るかもしれない。しかし、古明地こいしには「意識すること自体が困難」という重い制約がある。ポテンシャルは高くても、その能力にムラがある。意識が無意識にある夥しい記録に蓋をすることで、何とか人間の形を保てている人もいる。然るに、一概に姉妹のどちらが優れているとかは、言及することが難しい)
俺はこの姉妹という関係性は、古明地こいしを中心に回っているように感じる。古明地こいしが瞳を閉ざすに至ったその動機、そして結果として瞳を閉ざしてしまった事実、それ自体に、姉妹はずっと振り回されているのではないか、と想像してしまう。
「人の心を読んでも悲しいばかりでつまらない」という発言には、人の抱くものに対する嫌悪が見て取れるが、同時に、何かを信じていたような形跡も見て取れてしまう。
人の心に対して、何か尊いものや美しいもの、楽しいものを夢見て、期待していたかのような、古明地こいしのあどけなさが思い浮かんでしまうのだ。
しかし、彼女の期待は、彼女の視野において達成されなかったのだろう。それは読心能力という並外れた力に、それを持たない者たちからの畏敬や嫌悪といった感情を日夜浴びせられたのだろうと俺は想像する。熱と愛を信じた少女は、神的な畏敬によって遠ざけられ、その信仰を完膚なきまでに喪失したのかもしれない。
俺が思うに、人の心の中に、尊いものや美しいものが「完全にない」とは云い切れない。たとえ残虐や非道、悪意や無自覚の嵐の中に人がいようとも、その合間、一条の光のように、陽だまりのように、「生きていてよかった」と思えるような暖かみの存在を認めることはある。それは俺の経験上、どんなに疎まれる人であっても、どんなに俺に酷いことをした人であっても、たった一縷、ほんのわずかは持っているものなのだ。
俺には、「人間なんてどうしようもない、人間の持つものなんて無自覚の加害ばかりだ」と何もかも棄ててしまいたくなる時があるが、そのとき視界の端に過ってしまうのは、かつて垣間見たかけがえのない暖かみと、それに対する未練だ。自分の心を救うように存在したその暖かみのために、憎くて仕方のない人間の性を、それでもと保留してしまうことが、俺の人生には何度も何度もあった。
古明地こいしが瞳を閉ざすとき、どのような逡巡があったのかは定かではない。しかし思うに、彼女は人の温みを知っていたからこそ、人を信じたくて、しかし信じ切ることができなくて、ならばもういっそと、すべて断ち切ってしまったのではないだろうか。
未練のために断ち切れなかった俺と、未練があっても断ち切った古明地こいし。利己的かもしれないが、そういう対称性を、俺は古明地こいしに見出してしまう。まるで鏡映しの、別の世界線の俺自身であるかのように。
たとえ断ち切ったのだとしても、古明地こいしには逡巡があり、そしてそれは今日に至るまでに残っているはずだ、というのが、この詩の主張だ。
人間を信じたかった、愛情を信じたかったが、それを放棄した私は、もう表舞台に、生きている者たちの場所に立って発言する資格さえもない。あの暖かみを宿していたいと何度も思ったが、もはや自死したような自分の両手には、その熱が宿ることはないかもしれない。誰にも認識されないのだから。
その逡巡は、意識を喪失した彼女が意識的に思い起こすことはできないかもしれないが、それが重大な想いであればあるほど、彼女の無意識の海を埋め尽くすほど強大な感慨になっているのではないか、と思う。
そして、そうなってしまっていることによって、古明地こいしはおそらく苦しんでいるのだと思うが、同時にそのことが、彼女が八方ふさがりから抜け出す手がかりでもあるのだと、俺は思う。
この詩には、最後まで愛しぬくことができなかった人と、自尽することで失ってしまう「生きている」という資格、について書いたつもりだ。
そして何より、たとえ自分と、自分の愛する者を傷つけてしまったどうしようもない人だとしても、そのことをずっと悔恨して現世にとどまっているのなら、いずれその暗闇から脱せる時が来るはずだ、という願いを込めている。
自死はよくないことだと断言する。しかし、よくないことを考えたりしてしまった人が、一生涯報われないだなんて、そんなことがあっていいものかとも言う。いちど人間に絶望した者が、初志貫徹してずっと人間に絶望し続けないといけないだなんて、そんなことはないはずだと思う。
それは、生きている以上何度かは出くわす暖かみという感動を、忘れられない人だけが持つ、最大の希望だ。