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文字に浮かぶ砂金

もともと住んでいたシカゴ郊外を離れて、数ヶ月ちょっと経つ。二度目となるアメリカ内の引っ越し。新天地で生活を始める前に、いったん日本へ戻ってきた。その背景や経緯を書き留める予定だったけど、しっくりくる言葉に落とし込めないまま折り返しの時期にきている。

今朝は、高校時代の友人と喫茶店へモーニングを食べに行った。こうこうこんなわけで、しばらく地元にいてさぁ。途切れることなくしゃべって、コーヒーをお代わりして、ランチまで注文して、結局4時間ぐらい居座った。

今の心境や身の回りについて、話せることはできても、書くことはできないのだと思った。思考がよく散歩する私は「話す」と「書く」の違いはどこにあるのだろう、などと考え始める。

まず、大きな違いは「話す」だと目の前に相手がいることだ。話題を投げる、返ってくる、相手から投げる、返す。そうして私が伝えたかっただろう気持ちは、相手が自分をよく知っている前提のもと、大きな安心感と共に受容される。

そして「話す」は無形。音声配信のような場になると少し様相は変わるが、形に残らない気楽さがある。

当たり前だけど、思っていることも、感じているものも、手に取って見れない。いったん書くと、輪郭ができる。その作業は楽しい一方で、固定してしまう怖さもある。言葉にのせた途端に、思いがけず膨んでいく気持ち。学生の頃、気になっているレベルの男子の話を友達にしたら、だいぶ好きになってしまう事象に似ている(のか?)。

同じアウトプットなのに、引っかかりやハードルが、今の自分にとっては「書く」のほうが高いみたいだ。

ただ、書けないときは、書いている。公的ではなく、私的に。表ではなく、裏で。もわもわしているときは、だいたい手帳やノートを広げて、とにかく思いついたままに脳内から取り出す。

起点となるのは、喜怒哀楽を伴う気持ち。気付きを集約すると、自分にとって軸のようなものが見えてくる。ここ数年、そんなことを繰り返しているが、これは「己を知る」というより「己に戻る」作業なのだと思う。

Sunny手帳がお気に入り

この一連の作業が何かに似ている…と記憶を手繰り寄せていたら、前に訪れた新潟・佐渡島の「砂金採り体験」だった。

もう20年も経つから記憶がおぼろげだけど、ザルみたいな籠を使って水の底にある砂をたっぷり掬った後、水中でゆらゆら動かしながら砂をふるい落とし、"金"を見つけ出す。泥化した状態の中からキラッと光る物質を見つけると、わあっと心が踊った。体験のオプションだったのか、たしか米粒と一緒にアクセサリー用の筒に入れて、ペンダントにした。

テレビ、メディア、SNSから洪水のように流れてくる情報は、あっというまに心を占領する。世間の声、一般的な価値観、他者の意見、そういった外部の支配力は自分が思っているよりも、うんと強い。

だから、埋もれてしまわないように、時々はちゃんと心の奥底にある本音や本物を取り出してあげる。手帳やノートを開いて無秩序に筆を滑らせていると、思いがけずキラッと光る何かに出会えたりする。表面上は砂しか見えないところに、金が隠れているように。

見つけた小さな輝きは、ひとりで大切にしてもいいし、気の許す人たちに聞いてもらってもいい。こうした場所でサクッと書いてもいいし、溜め込んで創作に爆発させるのもいい。

うっかりすると見落としそうで、本当は大切にしたいもの。また見えなくなる前に、小瓶に入れて。

なんだか最近は、「チョコは好きだけど、ケーキを買うときはいちごのショートケーキかモンブランを選びがち」とか「コーヒーに入れたミルクを混ぜずに見ているのが好き」とか、そういう些細な部分に面白さを感じるし、心が宿りたがっている。

普段はなかなか気付かない、さらさら流れゆく中にあるもの。自分だけに見える、きらめき。

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