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6. 放課後に見つけるもの

授業が終わると、先生や親の目も届かない子供だけの時間が始まる。放課後の寄り道は、とにかく楽しい。授業だって好きな教科なら楽しいけれど、それとは根本から違う。過ごし方を自分が決めていいのだ。

帰りが一人なら、自分の考えだけでいい。友達と一緒なら、みんなが納得する合意点を探す。友達と遊ぶ中で起こる共感や反発は、他人の考え方に触れる機会。正しいとか間違っているとかじゃない。“自分の考えと違う”というところが面白い。あっさり意気投合もいいけれど、たとえ揉めたって、それはそれで楽しいのだ。授業中に消極的だった奴が放課後になると元気だったりもする。子供のための子供だけの時間。僕は、放課後に起こるすべてが楽しかった。
特に校門のすぐ脇にある畑に入っていくのが好きだった。柔らかい土の感触を今でもよく覚えている。もちろん畑は人様の土地なので、本当は入っちゃダメなところ。声をひそめて忍び足で進んでいく。不思議と植わってる作物を踏みつけたりはしなかったね。誰かに注意さたわけではないけれど、なんとなくやっちゃいけないことって意識はあったみたいだ。ちょっと後ろめたい感じ…。それも楽しさの要因だった気がする。

畑を抜けた先には、小さい川が流れ、その周辺には湿地帯が広がっている。冒険心がかき立てられるような場所だった。カエルやザリガニを捕ったり、昆虫を追いかけたり…。子供の背丈ほどある藪をかき分けて日が暮れるまで遊んだ。よくアリの巣を掘り返し、逃げ惑う様子を見て楽しんだ。まだ善悪の分別も曖昧で、平然と踏み潰したりしていた。
ところが、ある日突然、ダメなことしてるって気づくんだよね。おそらく、日頃触れる漫画やテレビ、それと本から得た知識なんかと、遊びの中の実体験がリンクしたんだと思う。さすがに、まだ命の尊さなんてところまでは考えていないけれど、越えちゃいけない一線を感じたんだろう。

大事なのは、“自分で気づく”ということ。出された問題の答えを探すのではない。問題そのものを自分で見つけるということだ。それは教わったことを覚えるのとは違って、もっと心の深いところに根付くような感覚。

楽しさを探す子供なりの創意工夫。それは大人が思っているよりもずっとパワフルで緻密だ。その時々に応じて、どうしたら楽しめるのかを、なんとしても見つけ出す。そして、遊びの中で体感する授業じゃ得られないリアル。振り返ってみると、間違いなく大人になってからの生き方に繋がっている。

僕は子供に対して、何かを見つける自由な時間を作ってあげられるだろうか。小言を我慢して見て見ぬフリができるだろうか。「そんなことしても意味ないよ」なんておせっかいなことを言う親になってしまわないだろうか。
意味がないことも自分で見つければ、それが意味になる。放課後は、何かを見つける貴重な時間。子供の無邪気さは、豊かな感受性の証。大人として、その芽を摘んでしまわないように、今一度、自分自身に言い聞かせている。

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