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1. 気づいたら生きてたって話

実は、59歳にして子供が生まれまして…。考えてみると、関われる時間には限りがある。まぁ、これは息子への遺言みたいなものかな。30代前半の離婚からこれまで、勝手気ままに独身生活。さすがにもう子供はないだろうと、人生設計から外してやってきた。期待と戸惑い。さて、どうする。と、人生再設計だ。仕事は、写真や映像の制作。いわゆるフリーランスだから定年はない。しかし、アラウンド還暦がこれから子供を養っていくのかぁ~というのが正直なところ。なにより、いつまで生きていられるのか。心配したって仕方がないけれど、将来、父を必要とするとき、ボケちゃってたらまずい。ともかく今やれることのひとつとして、息子に伝えたいことを書き残していこうと思う。

気づいたら人生は始まっていて、生まれることを自分で選んだ覚えもない。生まれた瞬間から死へのカウントダウンが始まり、デッドラインは人それぞれ。日々の過ごし方が寿命に大きく影響するようだけど、なにかとハッキリしないのが実際のところ。この、いつの間にか始まっていた旅は、しみじみスリリングだと思う。
そして生き死にに個人の意思は介入できない。それが僕の解釈。もちろん自殺という途中下車があるのは承知しているが、とりあえず「生きてるってなんだろう?」を僕なりに噛み砕いていきたい。

生きてる実感なんてものは、ある程度大人なってから意識する。子供には判断材料となる経験、知識が圧倒的に少ない。興味を持つきっかけもない。もっぱら本能的な行動が主体だ。しかし、今思えば物事が上手くいってない時、あの心がザワザワする感じ。「なんとかしたいが、さてどうする」を考えている時の不安や焦り。それは、生きてる実感に近いものか、あるいはそのものだったんじゃないか。それに対応しようと子供なりにする工夫や行動は、間違いなく前向きのベクトルで、少々大袈裟な表現だけど“今日と違う明日”を目指している心の状態といえる。喉が渇いたとか腹が減ったとか、なんでもいい。事の大小優劣は関係ない。いわゆる欲望を自覚したときの精神状態ということだ。状況を変えようと行動を模索し、実行する。事が成就し満足が得られれば、やがて執着心もスッと影を潜める。どうも生きるってことは、欲望を満たす行動の繰り返しと考えて間違いなさそうだ。

それにしても欲望って言葉は、イメージが悪い。なぜだろう? おそらく躾や教育が影響しているんだろうね。親が子によく言う「我慢しなさい」も、そのイラついた表情とセットで心に蓄積する。たいした確信もないのに、漠然と欲望は悪いことだという概念が定着する。だけど本当悪いことなの?そうしたいと望み行動することは、むしろ良いことなんじゃないの?多くの場合、悪いのは欲望の向きであって、欲望そのものは、けっして悪いことじゃない。足りないものを満たそうと行動する自分を良しとしてあげれば、気分はグッと軽くなり、人生の足取りもより軽やかになる。

まずは欲望を全肯定することを、僕は強く勧めたい。

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