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ロクの家はじめました。アートギャラリーより、いのっちのギャラリーでありたい。

こんにちは、ロクの家のみあうちです。
今回は、僕のこともロクの家のことも全然知らない人に向けて書きます。
話が転々としてしまうので今まで困っていましたが、そのまま書きますね。
長いし読みづらくて申し訳ないのですが、そうしないと書けないし、ちゃんとしようとすると書く気がなくなってしまうんです。
そして元気がなくなってしぼんで動けなくなるので、えいやっ!と書いてしまいます。

僕の名前は宮内博史といいます。
絵を描いていて、最近「ロクの家」というのを始めました。
和太鼓や篠笛を演奏するのが好きです。
あるとき、小さい子が太鼓の発表会の感想文に「みあうちさんがよかった」と書いてくれたのでそう名乗ることにしました。

和太鼓って面白くて、老人ホームに行くと歓迎してもらえます。
地域のお囃子を演奏すると、車椅子のおじいちゃんおばあちゃんが手だけの盆踊りをしてくれたり、涙を流しながら歌ってくれたりしました。
細々と20年続けていて、1000人の前で笛を吹いて結構お金を頂いたりもして、プロになろうと思ったこともあるほど夢中になりましたが、小さい老人ホームでの出来事が一番感動した瞬間です。
何百年と無名の人たちの手を経て、無駄を省いて洗練されながら引き継がれてきた地域の音楽の歴史に直接触れた気がします。
そこに超絶技巧はそんなに必要なくて、時空を超えて知らないおじいちゃんおばあちゃんとあっという間に強く強く繋がる経験に僕も泣きそうでした。
和太鼓、ずるいですね。

和太鼓の他にも、僕のやってきた事はいろいろ散り散りです。
既に記事にして頂いているので、そちらをご覧ください。
http://choshi-flat.com/20190619/article-121/
(鬱がひどい時だったし、わけわからないままロクの家の改装を始めた時期だったので、なんかギラギラした顔してて怖い。)

さて、ロクの家について書こうと思うわけですが、それには理由があります。
最近、坂口恭平さんと言う躁鬱界のヒーローだと思っている人がいます。
彼は僕とは全然違うのですが、ロクの家でやろうとしてた事ととても似ている部分があります。
それは多分、ロクの家は「いのっちのギャラリー」のイメージに近いのではないかという事です。
ご本人に会ったこともなくて勝手に僕がそう思っただけなので、嫌だったら申し訳ないと思います。
自分のためにも一度整理しておきたくなったので、思うままに書いてしまいます。

僕は精神的にも肉体的にも暴力を受けてきましたので、視界が歪んだり、記憶が曖昧になっていたりします。
死にたい気分の「うつ状態」は自覚していましたが、元気もりもり無敵モードを「躁状態」と呼ぶ事、無限に集中できるのを「過集中」と呼ぶことを最近自覚し始めたばかりです。
基本的に不眠症なので、普通という状態がなんだかよくわからなくなっています。
死にたい時は、死にたいと思わないように気をつけていても、電車とか車が来るとスーッと吸い込まれそうになるんです。
夜中に目を覚ましたら自分で自分の首を絞めていて起きたりしました。
これ以上読まれる方は、胡散臭い、危ないやつだと思ってあまり信じずに読んでくださいね。

僕は自分の調子が乱れるのが嫌なので、タバコもアルコールもドラッグもやりません。
人との約束はほとんどできないし、携帯も苦手で持っていません。
だからって、何もできないわけじゃないんです。
人に命令されるのは本当に嫌だけれど、自分でやりたいことは寝ないで朝まで続けられます。
でも継続ができません。
飽きてしまいます。
それでも一番飽きないのが和楽器と、何度やめても復活している絵を描く事です。

僕にはカリスマ性もなければ、人を引っ張る気も昔からぜんぜんなくて、中心のないドーナツ社会の一人でありたいと思っています。
だからと言って反社会的でも、強烈なアナーキストでもないです。
どうせ衰退すると分かっているものにあんまり興味がないです。
こういう道あるよって勝手に探していたいです。
それが生きていることそのものに繋がってる気がするからです。

心が歌っていないのに歌わされる学校での合唱は、心の拷問だと思いながら、それが説明できず黙って従うタイプでした。
サッカーも下手くそだったので、小学校の休み時間に上手なグループには入れてもらえなくて、ヘボサッカーという名前で下手くそだけの遊びをしていました。
ヘボサッカーは全員下手くそだから女子も楽しめるし、一気に10点入ったりして面白いです。
で、面白くしてたら、どんどん人数が増えて、上手なグループが一緒にやりたいと言ってきました。
断ったような気がするけど、よく覚えていません。
カタツムリを集めたり、あやとりやお手玉に熱中したり、タイルの溝を流れる水をずっと追いかけて眺めているタイプです。
「お前は男か?」と散々言われてきましたが、「僕は男だし、そんな事気にする方が女々しい」と今なら言い返せます。

自殺した友達も、ゲイもレズビアンの友達もいます。
人の心の性に対して自分の常識を押し付けるのは、基本的にレイプのようなものだと思っています。
僕はゲイでもポリアモリーでもないけれど、性的マイノリティの人が自由にしづらい社会だとは思います。
だから僕自身は、常識の中で黙っている限りレイプする側である意識が勝手ながらどこかにあります。
全然違っていて、嫌な気分になったらごめんなさい。
あと、相手に同意なく好き勝手にすればいいと言っているのではないです。

僕は精神世界の研究が大好きです。
幽霊や神様やUFOの見える友達に出会ったり、目に見えない世界に関する不思議な出会いだったり、治療方法を習ったり、それっぽい本をたくさん読んだりしました。
胎内記憶にとても興味があります。
神様が見えるという人がいるんだったら、僕はその人には神様は見えるんだと思います。
僕には見えないだけだし、見える人同士でも見え方は違うみたいです。
だから、それぞれ見える必要があるように見えていると思います。
近くに見えてる人がいても無理に話を聞く必要はないし、上手に付き合うのが大事だと思っています。

鬱がひどい時は、母親に親子の縁を切って欲しいと何度も言いました。
当時の母は、平静を装いながらかなり狂っていたと思います。
家族の問題は今は少し落ち着いています。
程よく放置して助けてくれる友達と、スピリチュアル趣味のおかげで生き延びました。
家族の問題というのは自分が随分揺らぎます。
なんで生まれてきたのか、なんで生きているのかとずっと考えていました。
多分意味なんてないけれど、僕の魂は体にやってきてどうしても体感したいことがあるのかな、と思っています。
宗教に入る人の気持ちもわからないでもないですが、僕は自然宗教とか自分宗教が落ち着きます。

そういえば小さい頃は、物の境界線に青とオレンジが見えるのは当たり前すぎて誰も言わないものだと思っていました。
空中を漂うプラーナは、3年くらい前に存在を知って見えることに気が付きました。
誰でも見えるんじゃない?と思ってるけど、気持ち悪がられると思ってあんまり言いません。
だから、同じような人が少し気が楽になれば嬉しいです。

昔から大きなパワーに潰されると思って怖かったのですが、どうやらそれは悪さをしないどころか、僕を助けたり導いてくれている気がしています。
そんな感じで、目に見えない力を信じている方だし、向こうとこちらのパイプ役を心がけたいと思っています。
天と地かなぁ。
全部、嘘だと思ってもらっていいですよ。
怪しいでしょうけれど、勝手に続けます。

ある時は、末期癌の方の痛みを和らげるお手伝いをしていたこともあります。
「手をかざして、いらないもの集まれー」ってやったら、静電気の塊みたいのが取れました。
そんで、それをポイ!
そしたらそのおじちゃんも、「静電気みたいのバーって出て、痛くなくなったわ」って言いました。
僕は治すことはできなくて、お手伝いをするだけだと伝えたのですが、僕が治療する感じになってしまいました。
とても嬉しかったけれど、特に鬱のひどい時だったので、1ヶ月程度で僕が限界を迎えてお断りしました。
結局その方は亡くなってしまって、僕が依存させてしまったのではないかと今でも心残りで忘れられません。

ドイツにいた時もよく友達にやっていました。
友達が寝違えたからちょっとやってみてって言われて、やったらすぐに直りました。
あれ?って顔してて面白かったです。
友達のバイト先のオーナーから、お店を開けと言われましたがやりませんでした。
そうやって一人ひとりに治療する事は、ちょっと違うんです。
緊張すると僕の調子が狂うし、時間の約束がすごく苦痛です。
土日だけの電気屋のバイトをしていた時は、日曜日のバイトの後に次の土曜日が嫌で憂鬱な5日間を過ごしました。
そんなわけで、話の流れで真剣な遊びの中でしかやらないようにしています。

僕の中では、絵を描く事とその治療の感覚って結構繋がっています。
絵も同じく、一人ひとりに触るわけではないけれども、直接繋がることができると思っています。
目だけではなくて、直接体感してもらう事が大事だと思うので、いくらデジタルが進化しても、アナログが一番効くと思います。
気の治療には遠隔という方法もあるので、デジタルを介してでもある程度できると思うけど、体を持って生きることと繋がった方がしっかりする気がします。
気のせいかもしれません。
僕は目が見えない方にも何かが伝わったりしないだろうかと思うほどです。
治療では、耳鳴りが治まったり、目がよく見えるようになったと言ってもらえたので、そういう絵も描けるといいなと思っています。

かと言って僕は、魂やエネルギーと言った言葉を使って依存して欲しいとは思っていないです。
そうやって言いまくればお金になると思うけど、すごくくすぐったいです。
信じていいのか怪しいけれど、僕の見えている限りのことをやります。
現代アートの文脈でやるなら、コンセプトとして並べる必要があるのでしょうけれど、うまくかける気がしません。
コンセプトシートになった時点でもう失われているものがあると思います。
それで今は「本にならない聖書」というタイトルの展示をしています。

僕が死んでも、絵が残れば死なないと思っています。
そしたら、いつまでも、ずっと誰かと繋がれます。
僕は今の世界にはあんまり興味がなくて、300年後の世界を考えています。
考えが300年持てば、それは1000年、2000年持つんじゃないかと思っています。
内田樹さんが言われていた、ユダヤ教のトーラーの感じです。
近所の川が汚いのが本当に嫌です。

これまでに、絵を見て涙を流してくれた方が何人もいます。
銚子では、僕の絵を居酒屋さんで見かけて「今まで見た絵の中で一番いい!この街が嫌いだったけど住んでもいいと思えた」と僕を探して訪ねてきてくれた方もおられます。
ドイツにいた時は、巨大なアート施設の大きな展覧会に潜り込んで、勝手に展示して怒られたりしました。
怒られる直前に絵が売れたのがなんとも面白かったですし、凍えるような寒い日だったのに、自転車で転んでびしょびしょになりながら友達が来てくれたのが本当に温まりました。
別の友達は、「君はこの町で一番いい絵を描く。一緒にリトアニアに行こう」ってリトアニア文化省助成のプロジェクトに招待してくれたりしました。
飛行機代も滞在費も製作費も頂けると聞いて、騙されたかと思ったほどです。
スペインの芸大に一人で遊びに行って、突然授業を受けさせてもらいました。
久しぶりの雰囲気になんだか面白くてあっという間に描けました。
そしたら、同じ角度で絵を描いた学生に「あなたは私を殺した」と泣かれてしまいました。
絵を見れば、彼女にしかない良いところがいっぱい描かれているのがわかります。
彼女がまだそれを描ききれていないのもわかります。
だけど、僕には逆立ちしても描けない、線や色が生きる日が絶対にくると知っています。
どういう形であれ、必ず生きるとただ言うことしかできないけれど、それだけはマジでできます。
だって本当だから。

こんな風に人生に一度あるかないかという経験をさせていただいているのに、鬱になると全て忘れてしまいます。
自分のやってきたことが意味を失って、全部灰色になって何も感じません。
「自分のような役に立たない意味のない人間はこの世から消えたほうが良い」という考えでいっぱいになります。
だから、書けるときに思い出して書いています。

それから、絶対に行動しませんが、僕には本気で死んで欲しいと思う人がいます。
不眠が加速して眠れなくなるし、夢にも出てきます。
それは呪いの力に似ていて、自分も呪っていると思います。
だから、その人が死なずに僕も死なずに生きるにはどうすればいいのか考えています。

芸術と言われるものには、そんな風にポジティブな力とネガティブな力があると思っています。
きれいとか、癒しとかだけじゃないし、コンセプトとか資本とかどうでもいい。
プロパガンダとかナチスとか、本気のダークサイドがある。
言葉が難しくてゆっくりしか読めないですが、中島智さんの「文化のなかの野生」に近いのでしょうか。
秩序の中のカオス、平穏と祭りの中で、それを乗り越える、祈りの力。
作ることと命のありようだと思っています。

僕は麻原彰晃には本当に特別な力があったんではないかなぁと思っています。
だけど、それと人格は全く別の問題なんだと思っています。
霊能力を商売にしていても、センスが壊滅的な人もいます。
それらは別の問題だから、信じたい気持ちとその人がすごいって事は全然別の問題だと思います。
面白いことを言っていたらその部分は都合よく聞くけれど、人間としては別の物差しで測らせていただきます。
そういうつもりでいないと依存させられてしまう気がするんです。

僕は、坂口さんが自分を酋長であると言っていることが少し怖いです。
ちょっと似たタイプの人から、「貧乏人が!」と見下されて、土下座させられながら蹴飛ばされ続けた事があるからなのですが、依存を呼ぶのではないかと構えてしまいます。
坂口さん自身は多分、心地よいことをやっているだけなのかなとも思います。
元気になったらばいばーい!って声が聞こえそうです。
彼の歌っている様子は、飯田茂実さんの「みくさのみたから」に似ている気がします。
こっちも気持ちが良くなってきます。

それでも、本当に申し訳ないけれど、一度見下された経験があるとどうしても身がすくみます。
暴力を受けて育った友達もそうですが、僕も少し人に怯えている部分があると思います。
絵の展示もお知らせするのも、こんなもの見せてもしょうがないと思うと気が引けてできないんです。
どうせできないなら、どうせ生きていないなら、死ぬのなら、やるだけやって死のう。
そういうエネルギーで宣伝しています。
だから、葉書が来なかったり、連絡が来なかったりしても絶対に嫌いだからじゃないです。
宣伝してもいいものかどうかが、本当にわからないんです。

農家さんをお百姓さんと言いますが、百の事、いろんな事をできる人という意味もあるそうです。
僕は畑はないけど「百姓」でありたいと思います。内向的でシャーマニズムが好きな百姓ですね。

僕は、お祭りで「粋」と背中に書いてある法被を見るとがっかりします。
自分で言う事ではないと思うからです。
酋長とは、その背中を見せてくれればよいと思うと、「粋」の法被に似てる気がします。
自分から言われると構えてしまうのは、僕が臆病だからなのかもしれませんし、気にしすぎだからかもしれません。
だから、坂口さんの思う酋長とは何かを知れるかもしれないので、酋長入門という本を読むのがとても楽しみです。
酋長とか新政府内閣総理大臣とかは、躁鬱語なのかもしれないなと思っています。
まず自分の中で自分を大事にする。
僕は、国というものは幻で、民主主義は壮大な実験だと思っています。
鬱になって一度自分を立て直そうと思う時、自分を総理大臣であると思う事は心理療法としても有効なんじゃないかと思います。
粋だとか人の目線とか、そういうのも一度ぶっちぎる。
そうして非現実世界を考える事は頭の体操になって鬱の回復に繋がるだろうし、民主主義にとってもいいと思うんです。
そんな事を思っていたら彼は畑を始めていて、百姓に近づいていくのかどうか楽しみです。

数学は情緒(美しさを感じること)が必要だと数学者の方が言っておられました。
ピカソは「芸術は魂の汚れを洗い流す」ような事を言っていた気がします。
自分の魂に帰る場所。
アートの文脈とか権威って、そのための補助輪としては役立つのかなぁと思ってます。
こんな調子なので、資本主義のためのアートには全然興味が沸きません。
興味がなさすぎて、他の人になんでやってるのか聞きたいくらいです。
お金自慢がしたかったら、お金を飾っていればいいんじゃないでしょうか。
「お金は、お金より大事なものを守るためにある」って、コロコロコミックに書いてありました。
僕は、お金よりもっと美しいものに出会いたくて絵を描いています。
インドの電車で、床を拭いてお金を集めていた痩せこけた子供の目が忘れられません。
その場でわずかなお金をあげたけど、彼の生活はほとんど変わりません。子供が床を拭いてゾッとする目をしている世界がとても不思議です。
僕はそういう世界をそのまま飾ろうとは思えません。
帰国して、彼が見えなくなっても心の中にはずっとにいます。
アル中やドラッグ中毒の友達もずっといます。
だから、その先に意識を置いて、おかしな現実を超えるためにこうして書いています。

富裕層のお金は芸術か教育に流れると聞きました。
本当かどうか知らないですが、芸術的要素(情緒)が教育を兼ねているなら、最終的にお金は芸術に集まると思います。
お金がなくなったら困るので怖いけど、基本的に生活保護になっても暮らせるように生きています。
財産よりも、自由に好きなものを作る環境と時間が欲しいです。
ベーシックインカムをもらっても、退屈すぎて干からびないように作り続けるでしょう。
お金は完全に道具であって、構ってる時間が勿体ないと思います。
だけどそれは多分、お金で人生を随分荒らされているからだと思います。
アンディ・ウォーホルかな、「貨幣としてのアート」という言葉があったと思うけど、絵を描く事で僕は銀行に貯金しているみたいな気持ちです。
イメージバンクにつながっていれば、お金の心配っていらないんじゃないかと思います。
それは向こうから来るものだから、それを邪魔しないようにしたいです。

そもそも絵は、お金で売るようなものじゃないと思っています。
魂を写したものだから。
命はお金で売れないです。
買えないものだからこそ、平気で安く売っちゃいます。
あげちゃったり安くしすぎちゃったりするので、気をつけようと思うけどバランスがわかりません。
僕は安くても手放して、次を描きたいんです。
絵の値段を上げる必要はなくて、その生き方に価値があれば勝手に上がるんじゃないかと夢見ています。
それを信じて描けるだけ描いて死ぬ。
ただの勝手なロマンの上にありたいです。
だから不安になるし脆いけど、生きる力になっています。

政治もとても大事だと思いますが、政治アートにもなんだか馴染めていません。
「茶色い朝」を迎えたくはないのでそれなりに行動するけれど、本筋にはなっていません。
その先を作りたい。
茶色党は既にいなくなったと思うところがスタートなので、競争はその見方では茶番なんです。
そういう意味では、僕も自分のための酋長とか新政府内閣総理大臣なのかもしれないですが、ラインの引き方が内向的だと思います。
人間と天との、命のダンスの痕跡。
というわけで、絵はいくら買っても、そもそも買えるものじゃない。
魂の貸しじゃないかと思ったりします。
もしくは僕が借りている分があるのだと思います。

自分の生き方が充実すると鬱が治るというか、そもそも病気ではなくなるのだと坂口さんは言ってました。
まずは生き延びて、それから、自分が世の中を変えられる一員であるという実感があれば、死なない人もいるんじゃないかとも思います。
政治から切り離された分が鬱を呼び、人間を殺しているんじゃないかと思います。
いのっちの電話で生きれている方も、充実と政治が目に見えない糸で結びついるかもしれません。
正しい正しくないではなくて、自分はこっちが合ってる。という感覚はあるんじゃないかなぁ。
税金払っているんだし、それくらい言ってもいいと思います。
少なくとも納得させてもらいたいじゃないですか。

誰かが絵を見て、気分が良くなったり、何か気づきがあったりして一つイライラしないで済んだら、次の誰かに少し優しい気持ちで接することができると思います。
それが巡り巡って欲しい。

欧米では、床を拭いたり掃除したりすることが貧しい者の仕事のようです。
自分で掃除するから気持ちがいいのに。
その点では、お金持ちは貧しいと思います。
フェラーリに乗るなら、おばあさんや猫に道を譲るのがクール。
それは田んぼを走る軽トラのあり様から学べると思います。
なんて、僕がいうと負け犬の遠吠えみたいだけど、床を拭くことそのものは誇りを持てる仕事だと思います。
インドの子供も貧しさはなくて、悲しくない目で生きて欲しいと思ってます。
人様の人生だから喜ばれるかどうかもわからないけれど、そういうエゴをベースに勝手に行動してます。
全部が繋がっているかどうかも勝手な妄想だけど、妄想だけならいいんじゃないでしょうか。
とにかく、その繋がりの上で絵を描いているつもりです。

絵を描いていると、キャンバスと本当に会話しているみたいです。
「この色はこっちだよー」って言われて、それが僕が思ってる色と違ったりするんです。
そういう時はなるべく、その声の通りに描いています。
何度ダメだって思っても、「絶対に大丈夫」って自分に言い聞かせて最後まで描きます。
ご飯食べて満腹で描き始めたのに、30分でお腹がペコペコになったりするし、絵を描いた後は一週間何もする気が起きなくなったりするので、ドラッグに似てるのかもしれないと思います。
同じ場所が黄色であり青であり赤であり、光っていて、真っ暗だったりします。
だから、わざわざサイケデリック体験をしたいとも思いません。
芸術家がドラッグをやらないのは怠慢だと言う方もいるようなので書いちゃいますが、白いキャンバスに裸で向き合う事ができない人の言葉を聞く必要はないと思います。
ドラッグは一つのファッションで、それを辞めるのはガングロギャルを辞めるのより相当苦労するでしょうから、気安く勧めてくる人は偽物だと思います。
ビートルズもドラッグも拡声器みたいなもので、内側の声を聞けば素面で十分いける世界のはずなので、僕は自分の体と心の調子を整えながら死なずに続けたいです。

さて、ロクの家は、千葉県銚子市という港町にあります。
僕の故郷です。
伝統はあるけど、基本的に排他的で保守的で財政破綻寸前の街だと思っています。
悪くいうのは多分好きだからなのですね。
少なくとも5世代は住んでいるけれど、僕の日本語の話し方が変だと飲み屋で中国人だと笑われます。
中国人だったらなんなの?
もし中国人だったら余計嫌な気持ちになるよ。
いい加減にしろよ。と思います。
相手も同じ人間です。
国としては仲が悪くても、人間として見なくなる事は争いの元だと思っています。
日本全体そうだけど、銚子の偉い人はおじさんばっかり。
いいとこいっぱいあるんだから、もっとできるだろう。とも言いたくなります。

自殺するのも、結構なエネルギーが必要だと思うんです。
僕は渋谷のハロウィンのパワーの凄さと似て見えます。
死に向かうか、カオスに向かうか。
矢印の向きが「静」か「動」かの違いだと思っています。
東洋の禅的な文化と西洋のダンスの文化の核が、同じに見えているからかもしれません。
僕は音が大きい場所が苦手ですが、瞑想しながらダンスパーティで踊ってみたらとてもよかったです。
とにかくそれだけのパワーを持った人が、エネルギーの行き場を失って焦げ付いて、自分を焼いてしまっているように見えています。

日本は若者の自殺率世界一のようですが、大人の普通のために見えない若者を殺していると思っています。
無意識で若者のものすごいエネルギーを死に向かうようにセットしてる。
国家や宗教を信じて間に合っている人はいいんです。
それで間に合っていなくて自ら死を選ぶ人が、最低でも年間2万人もいます。
予備軍を含めるとどれくらいになるんでしょう。
僕は、誰かが大事にしている国や宗教を踏みつけたいから言っているのではなくて、気づかずに踏みつけているのをやめくれたら助かる命があるんじゃないかと思うから言っています。
命がシステムを乗り越えようとする様は、相対性理論と量子物理学の矛盾みたいです。
全くの見当違いかもしれないけれど、一つの仮説として聞き流してくださいね。

僕は戦争が起きたら、決めた人が先に行って欲しいと思っています。
それで、戦争で人を殺した場合、人数に差があれば人口比で調整するなどして、殺した側の国は上から順に国際法で殺人罪になればいいと思っています。
僕の命に興味がない人に、僕も興味がないです。
今や銃を見るのも嫌です。

日本の中国や韓国の問題は、キリスト教圏のユダヤ人問題と似ていると勝手に思っています。
一歩引いてみる集団の中で、迷いなく進む力は脅威になるんじゃないかと思うんです。
山の向こうで鷹を助けた人と雀を助けた人が、お互いを知らずに同時に空に放したとして、鷹が雀を食べたとします。
一人はすごく悲しいし、一人は最高に嬉しい。
(ビートたけしさんが本に書いていたお話だと思います)
歴史のすれ違いって、出来事は一つで見方はいっぱいある。
そんなもんだと思います。
話せばわかる相手ばかりじゃないので、暴力的に攻めてきたり、その脅威から守る必要があるのはわかります。
だけど、そこに人間を忘れた瞬間に解決が遠くなると思っています。
僕にできる事で、殺しても燃やしても残るものってなんだろうと考えると、絵そのものではなくて見た人の感覚にあるのかなと思います。
音楽やダンスや演劇、料理だって掃除だって、物として残らなくてもこの世界に残っているものがあると思うんです。
僕は歴史や宗教の専門家ではないので、勝手に思っているだけです。
全然違うかもしれません。

鬱が酷くてドイツから帰国した後、お墓によく行きました。
太陽を浴びるように昼寝をしまくって、神棚や仏壇に挨拶して過ごしてました。
アナログな体を持って生きる事を考えました。
絵を描いて、少しの間「やった!」と思えても、次の日には何の価値もないものに心血を注いだことを後悔していたりします。
だから、展示の予定がたてられなくて、余計にどうしようもなくなりました。
見えないものとのつながり、声にならない創作の発表の場所。
それによって生きる命があるならと思って、ロクの家に展示の部屋をつくりました。

最初は5人用のシェアハウスの予定だったけれど、あまりにも建物がボロボロで、手間隙かけるうちに自分で使いたくなりました。
そしたら、自分用のアトリエと倉庫と寝室が必要になって、来た人の寝室とアトリエが必要になって、展示室を作って埋まってしまいました。
シェアハウスだと言ってネットに書いていたので、仕事で銚子に来る人数人から住みたいという連絡をもらったりもしています。
銚子は地元の人と馴染めないと楽しめないと思うので、シェアハウスがあるといいなーと今でも思っています。
地元の人も2、3人住みたいと言ってくれていたので、需要があると思うんです。
僕はできそうにないので誰かにやって欲しいです。
協力できることがあればします。
でも、鬱があるので期待しないでください。
ゲストハウス計画も楽しみにしていましたが、今のところ動けなさそうでとても悲しいです。
僕はなんで銚子にゲストハウスやシェアハウスがのかわからないくらいです。
今のところ不安定なアーティストランのオルタナティブスペースだけです。

僕は人にできる事なら自分にもできると思っています。
スポーツの筋肉や音楽の絶対音感とか、職人的なこととか、小さい頃から体で訓練し続けていないとできない事はしょうがないです。
だけど、自分にもできると思えるかどうかは、誰にでもできます。
少なくとも絵は、上手い絵といい絵は違うのでほとんどの人が本当は描けると思います。

デッサンのパースが狂ってるとかは訓練の話にしか聞こえないし、そもそも物は2次元じゃないのに何言ってるんだろうと思います。
色合いとか構図とか気にして優等生になろうとするうちに、どんどん描く気がなくなります。写真じゃなくて人間が作るものなんだから、狂ってるところからが始まりだと思っています。
狂わないように描く事に狂うのか、狂ったまま遊ぶのかの違いじゃないでしょうか。
永六輔さんの「職人」という本に、「死のうと思って包丁見てたら、結局そのまま料理人になった」という人の話があったと思います。
正か負かの違いで、人間の中には相当のエネルギーが渦巻いていると思います。死にたい人、死ぬくらいならどんどん狂ったままの絵を描いていただけたら嬉しいです。

それよりも「描けない」というブロックの方が大きいです。
世の中には技術を磨いた、つまらない絵の方が多く見えます。
雑すぎても、まとまりすぎてもつまらなくて、絶妙なバランスがあると思います。
日本の芸術大学は、基本的に工芸大学だと僕は心の中だけで思っています。
はい、もう大学での仕事はもらえないかもしれませんね。

だけど、それより大事なことがあります。
子供の絵画教室をすると、「ここにこの色塗っていい?」ってずっと聞かれます。
本当にずーーーーーーっと。
誰がそうさせているのか気になります。
忖度の英才教育だと思っています。
「君の絵は自由ではない」
その初期設定で人生は大きく変わると思います。
学校や家庭環境などで、「できないOS」を強制インストールされちゃいます。

僕はほとんど人の絵を見ることができません。
「できないOS」の、魂の痛みが聞こえるようで悲しくなるからです。
できないOSを見つけたり、アンインストールするために、ロクの家にはレジンデンス(滞在制作)の部屋があります。
それは僕自身のアンインストールに繋がるからでもあります。

その部屋は、8畳間が2つ続いています。
寝る部屋と作る部屋です。
必要ない人には必要ないし、必ずしも何か作る人である必要もないと思います。
僕は自分の実家とは違う場所があって助けられたので、作りました。
家賃で儲けたりサービスしたりする気もないので、滞在費は光熱費(1日500円〜1000円)だけ頂きたい思っています。
もし誰かが家賃を丸ごとサポートしてくれたりしたら、滞在費をタダにできます。

幸い、坂口さんのいのっちの電話という防波堤のようなインフラがあります。
僕は電話をかけられない状態が多いので、何度もかけようと思ったけど、いつでもかけられる安心感でやめます。
彼の器用さを見るとあまりに自分が全然できなくて嫌になります。
だから、比べないで自分のできることをやります。
実際に会って、実際に何かを作って、実際に見てもらう。

ロクの家は、ギャラリーであり、宗教施設であり、病院であり、学校であり、作品であり、同時になんでもないただのボロ家だと思っています。
それは、地面や空気みたいなもので、ちょっとこの空気の成分足りなくない?って気持ちです。
パリやニューヨークやベルリンや東京に行かなくても、形にならないものを扱う場所がバス停みたいにいろんな場所にあるといいなと思っています。
僕は一つの参考で、来た人に別の場所に作って欲しいです。
僕がいた鳥取県のお店も、ドイツのNPOもセーフティーネットでした。
そういう場所に助けてもらって生きてきました。
だけど、僕にはあそこまでオープンにはできません。
開こうとしすぎて閉じこもれなくなったら、それはある意味閉じているのかなと思います。
そういう微妙なラインの人にとって、ちょうど良い場所になれば嬉しいです。
だから、そういう場所を作っています。

実際に友達のお店や場所を見てみると、僕が興味があって結局核になっているのって、命です。
何気ない中に散りばめられた命の要素のある場所をやっている人たちを、本当にすごいと思います。
だから、わざわざ名乗ることもないのかもしれないけれど、「いのっちのギャラリー」という名前はあれ、同じ?って混乱したり、自分がちっぽけに思たりします。
坂口さんご本人が喜んでくれたら嬉しいけど、全然興味をもってくれなくてもやります。
アートアートばかりする気もないから、実際は「いのっちの家」じゃないかと思っているけど、言いすぎて嫌にならないようにゆっくりやります。
とにかく僕は今回、こうして言葉を並べて気持ちの足場固めをしたいんだと思います。
自分で忘れちゃったら、この文章を読んで思い出せるように。
誰かが読んでくれたら、その人の言動から思い出せるかもしれませんし。
そしたら、前に前に、天に地に、広がっていくのだと思います。
言霊の力に乗って。

ロクの家は、毎日開けるパワーは全然ないです。
今のところ週に3時間くらいがちょうど良さそうです。
鳥取でもドイツでも、続けて習慣化する事が大事だと思いました。
牛のよだれのように。
細くても長く。
日課はできなかったから、とりあえず週課です。

すごく長くなってしまったけれど、読んでくれてありがとうございます。
僕にとっては普通のことを淡々とやっているだけなのだけど、あんまりにも現実世界がわからないので、実際はだいぶずれているのだと思います。
これからも言う事はどんどん変わっていくと思いますが、どうかあまり気にせずにお付き合いください。
面白いと思った方は、どうぞ遊びにいらしてくださいね。

「ロクの家」の「ロク」は大家さんが飼っていた黒い犬の名前です。
亡くなったうちの愛犬と親友でした。
人以外の命、目に見えない命と生きる。
まずは自分のためにそうする。
ロクの家は、いつでもメメントモリのつもりです。

銚子市大橋町15-5。
毎週土曜日15-18時に開いてます。


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「ロクの家」やってます。 展示、滞在、ワークショップなどをするところです。 銚子市大橋町15-5、毎週土曜日15-18時。 https://miyawrry.com
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