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「やったことない」を「できない」と変換しちゃうのはなんで

「できない」ってただの思い込みだったのかもしれない、先日ふとそんなことを考えていた。

やったことがない、だからできない。やったことがないことを知られたくない、だって恥ずかしいから。やったことがないから、自分が果たしてできるのかどうかが分からない。でもそれを試す機会も勇気もない。だからやったことがないをできないと言い換えて、自ら逃げ道を作りだそうとしていたのかも。

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つい最近まで、ビリヤードやダーツといった遊びと無縁の生活を送ってきた。

ビリヤードは北京に留学していたとき、ちょこっと当時の彼氏に教えてもらったことがある。だけど、できなさすぎていつも彼が楽しそうに遊ぶ姿をただ眺めているだけだった。だから残っているのは、自分にはビリヤードは向いていなかったという認識だけ。

ビリヤードは大人の遊び、男の子が好きそうな遊び、そんなイメージ。だから誘われても「私はいいや、みてるね」そうとだけ言ってやろうとはしなかった。

いま思えば、きっとできない姿をみられたくなかったんだろうなと思う。ルールもやり方も楽しみ方も何にも知らない、初めてやるからへたっぴなのは目に見えている。笑われちゃう、恥ずかしい、そんなマイナスの感情が私にブレーキをかけていたんだろう。

学生時代あまり遊んでこなかったツケが今になって降りかかってるとは。

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私には心を許している大好きな友人がいる。彼は私とは正反対。ビリヤードが好きで、地元の友達とよく夜な夜な遊んでいたようだ。

私が彼に素を出せるようになってからだったかな。この人ならきっと大丈夫、そんな気持ちから「ねえねえ、今度ビリヤード教えてよ」そう言ってみた。彼は嬉しそうに「よし、いこっか」と一言。そして、彼の地元にあるゲームセンターへ連れていってくれた。

ゲームセンターにほぼ行かない生活をいままで送ってきてしまった私は、彼の後ろをただ着いていくだけ。知らない場所に対する不安感は、初めての環境に対して人見知りをしているかのよう。

ルールも、キューの持ち方さえも分からない、そんな私を笑うことなく彼は一から教えてくれた。なんなら私がこの手の遊びに興味をもったことを喜んでいるかのようにもみえる。

ちょっとずつ慣れていき、次第にまっすぐ打てるようになった。「やった!」と子供のようにはしゃいでいると、「できなくないじゃん。ビリヤードなんてできないって言ってたけど、やればできたでしょ。」と彼なりの褒め言葉をくれる。

できないと思っていたけれど、やってみたらできた。なんなら楽しかった。

私には向いてない、ビリヤードなんて無縁の存在だろうとなんとなく思っていたけれど、ただの思い込みだったらしい。

その日以来、時間があうと「ビリヤードやりたい」と自分から誘うようになった。勝手に抱いていた苦手意識は、ちょっとしたきっかけでどこかへ飛んでいったよう。

とはいえ、まだ彼以外とはビリヤードをしたことがない。うまくはないけどやりたい、そんな自分を恥ずかしがらず見せられる相手が少ないからなのかな。

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やってみないと自分ができるかどうか、はたまた向いているのかどうかなんて分からない。

そんな言葉を近頃よく聞くようになった。

仕事や働き方に対して使われがちな言葉だけど、私は何に対してもいえるんじゃないかなとビリヤードの話を思い出しては考える。

やってみたら案外楽しかった、できないと思っていたけれどやってみたらできた。そんな些細な喜びの積み重ねが、自分の視野を広げてくれるんじゃないのかな。

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そして昨晩、友人と電話をした。

お互いの仕事やこれからの働き方の話になったとき、ふと彼がこう言ってきた。

「とりあえずやってみるって大事だと思うんだよね。悩んだり考えたりして行動しないのは時間がもったいないじゃん。あんなにできないできないって避けてたビリヤードだって、やってみたら案外できたでしょ?」と。

できないという思い込みは、ただ知らないだけ。

まずは知ってみるところから始めてみよう。

「できない」という思い込みの言葉で、始まってもいないのに選択肢を狭めてしまうのはもったいないから。


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