読書ノート:知っているつもり、無知の科学(S.スローマン、F.ファーンバック)
"The Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone"(原題)。認知科学者による人間の知性の限界と展望にフォーカスを当てた名著であり、人間の知性の限界、人間は自分が思っているより、ずっと無知であることを指摘し、その無知を乗り越えるすべについて考察している。
はじめにと課題設定
認知言語学に関する読後after thoughtsでもあったように、人間の認知能力に影響された言語が形成される様子がわかったが、そのこと知性ということに関しては、世界の複雑さや多様さに耐えられるはずもなく、なんらかの省略をしながら生きているに違ない。じゃあその仕組み、そして省略してもやっていけるのはなぜかというが気になった。
課題設定としては、人間の知性の限界、すなわち知らないことを前提としたとき、何をよりどころに生きていけるのか。道具やインターネットを使うというのも多分一つの解であろう。生成AIも最近の便利な道具だろう。では人間にとって本質的で避けられない「無知」と付き合ってゆくためには、道具である生成AIと人間との関係性のコンテキストでは、どのような相互作用、人間側の心掛けが必要か、また生成AIの好ましい性質は?を明らかにしたい。
追記(Geminiも解題してもらった)
凄いな、自分が出した方向性に完全に一致している。コミュニティ形成の可能性についてはさすがに気づかれてない。
まとめ
ここで「無知」というのは、知らないこと、知っているつもりなんだけども、知らないあるいは知るのを避けていることに相当する。あとがきにあるように、「無知の無知」、知らないことを知らないというのは重症そうにみえるが、実は、現代に生きる我々の素直な状態なのではないか?
本書では、無知、知識の錯覚、そして知識のコミュニティという主題を通じて、知らないということの本質に迫る。
初期段階で、「CRT(認知反射テスト)」が紹介される。被験者が直観型か、熟慮型かを調べるテスト、直観型はシステム1,熟慮型はシステム2に通じる考え方だ。直観型と熟慮型のあいだには、説明深度の錯覚が、あるという。
説明深度の錯覚をひも解くと、"知性は脳の中にあるのではない、むしろ脳が知性の一部なのだ"そして、"外部からの手助けがあれば、個人はかなり無知ではなくなる"ことになる。
そして、個人の知性を上げるという目的でもある、リテラシー教育についても触れる。
「ポドマー・レポート」を上げて、「欠乏モデル」、科学に対する意識が理解度によって決まる。だから科学リテラシー教育に予算をつければ理解度は上がるとして様々な試みが行われ失敗してきたことが紹介され、
実は、"その前提「欠乏モデル」が間違いだったのだ"というのは、目からうろこであった。"科学に対する意識を決定づけるのは、むしろ様々な社会的・文化的要因であり、だからこそ変化しにくい"。なるほどね、
そもそも、知能とは何かという話題に転じ、”すべての認知力テストには正の相関がみられる"、ということである、個人の知能指数はg因子と呼ばれ、職業的成功と正の相関があるという。
個人の知能指数であるg因子より、集団知能であるc因子を重視すべきだという話に続く。
じゃあc因子って何ということで、アニタ・ウーリー教授の集団知能仮説が紹介され、集団知能の予測に役立つ指標としては、"社会的感受性、メンバ同士が頻繁に役割を交代すること、女性の割合"とあるのはとても脅威深いし、女性の割合が高いと社会的感受性が高いといいうのはそうだと思う(男子更衣室の例を出さなくても)
集団知能はむろん良い面だけではない、"知識の錯覚に陥るのは、専門家の知識を自分自身の知識と混同するからである"。というのは納得がいく。
じゃあ、どうやってその外部の知識コミュニティを作るかということについては、知識のコミュニティを作るための仕掛け(アン・ブラウン)が紹介される。最初に特定テーマを割り振った調査グループで調査させて、考察時には調査グループから一人づつ選んでメンバを組み換えるのがもっとも効果があったというのは、ジグソーパズル式で面白い。
説明嫌いと説明マニア、認知反射テスト、と関連して説明されるが、説明嫌いは、"世界は複雑なので、すべてを知ることは不可能だ"ということが、大きな原因につながっているが、これはますます不可避になりつつある。
そして、個人に対して、科学リテラシーを向上させる試みが失敗した事例、意思決定は共同体という視点でとらえるべきだ。と主張し、
その解決策として「ナッジ」、「リバタリアン・パターナリズム」(緩やかな介入主義)を上げる。認知の癖をつかみ、癖がマイナスではなく、プラスに作用するように環境を設計することができる
しかし、「知覚の錯覚」が悪であるともいえない、娘L,Sの例で、精度の低い(野心的でもある)娘Sも精度の高い娘Lと同様に(娘として)完璧であるというエピソードを紹介し、つまり、「S(野心的で精度が高くない娘)」も「L(精度が高い娘)」が互いに補完し合う関係あり、「個々の限界を補うための協働と共有の重要性」というテーマを具現化していると、ChatGPTが教えてくれた。
感想
無知、知らないことのひも解きから始まり、知能が個人ではなくて集団に属する(集団知能)であると導く。そして、集団知能であるがゆえに、専門家の知識を自分自身の知識と混同する、「知識の錯覚に陥る」。しかし、"世界は複雑なので、すべてを知ることは不可能"であり、知識のコミュニティを作ることが重要となる。Google検索で、知識コミュニティの一部の機能がアウトソースされたわけであるが、検索ベンダーの努力により、ひどい混乱は起きてないように感じる。生成AIはさらに、この知識コミュニティの一部の自動化を加速する、偏った生成AIをつくれば、あっというまにカルト教団ができるだろう。生成AIも、直観的な知識の回答だけではなくて、考えて(CoT)答える、いわゆるシステム2的な振る舞いができるようになった、知識コミュニティの一員とみなされるようになるのか?
知識コミュニティの作り方の例で紹介されたように、多様な人をあつめた集団知が現れるメカニズムは、まだ生成AIでは模擬されていないと思う。そこには生き生きした、私、アナタ、そしてみんなと視点の変化や距離、もっと身体性のある、本来は生々しいやり取りがあるはずである。そこには個人の認知過程とコミュニケーションによる彼我の境界を軽々と超える知性があるはずである。しかし生成AIに置き換わるかもしれない(エージェント)。
課題の解題
人間自体が、他者に依存する知能、集団知能をもつ、あるいは持たざるを得ないならば、他者としての、システムとしての生成AIというのがポイントになるだろう。人間には、生成AIが言っている話をうのみするのではない、批判的な思考や、アーレントのいうような判断能力が求められるようになるだろう。一方、生成AIとしてみれば、このような外部の知能としての寄与の可能性を鑑みて、偏りとかはさけるべきだし。そして、集団知能の形成というプロセスに生成AIが補助できたりする可能性もあるのではないかと思った。いや思っただけ。
各章の読書メモ(太字は筆者)
あとがきから
P392、知らないことを知っていると思い込むからこそ、私たちは世界の複雑さに圧倒されずに日常生活を送ることができる。そして互いの専門知識を組み合わせることで、原子爆弾やロケットのような複雑なものを作り上げてきた。
P394,なぜ理解をしていない事柄に、明確な賛否を示すことができるのか?(ウクライナの場所をしらないのにウクライナ軍事介入を支持する例)。それは私たちが自分がどれだけ知っているかを把握しておらず、知識のよりどころとしての知識コミュニティに強く依存しているからだ。
P396,私たちは自分がおもっているよりもずっと無知である。合理的な個人であるという今日の民主政治や自由経済の土台となってきた概念自体が誤りであった。そんな身もふたもない事実を突きつける本書であるが、読後感は不思議と爽快である。
「無知の無知」から目覚めているために
東工大、山本貴光
数ある読みどころの中から2つに絞る。
その1,無知の深さに向き合うこと。P405
その2,それでもやっていけるのはなぜか。P407
直観と熟慮、使う道具との組み合わせ、そしてなにより、知識は人びとのあいだ、コミュニティの中にある。
P410,では、「知識の錯覚」に対してどうしたらよいか。まずは、「無知の無知」を脱するのが先決だ。自分がどのように無知であるかを自覚できれば対処のしようもある。さらに、より妥当な知識がどこにあるか、誰にあるかを知っていれば心強い。それを見分けるためにもある程度の知識を身に着けている必要がある。
かつて、「教養」と呼ばれた知識のセットはその基礎となるものだった。それが何の役に立つかわからないものとして一度は廃れながら、近年「リベラルアーツ」と呼ばれて見直されている。
P411,この本は「知っているつもり」の無知から目覚め、あらゆることについての虚実の定かならぬ情報やデータが次々と現れては渦を巻く現代において、正気を保って適切な判断を行うためのおおいなる手掛かりとなるはずである。
第三章 どう思考するのか
前向き推論(原因から結果)のほうが、後ろ向き推論(結果から原因)よいも簡単だ。
胃潰瘍を患っている患者に腹痛が出ると予測する方が、腹痛に苦しむ人に胃潰瘍があるという結論を導き出すより簡単だ。
結果から原因にさかのぼる後ろ向き推論はむつかしい。ただ、それこそ人間の特徴でもある。
物語
P101、因果情報を交換する方法として最も一般的なのは物語だ。
第四章 なぜ間違った考えを抱くのか
因果推論には二タイプある
連想的思考、ルールに基づく思考、システム1、システム2
P120、ここでは「直観」、「熟慮」とよぶ
直観、熟慮、説明深度の錯覚
P126,説明深度の錯覚、私たちは因果システムを自分が思っているほど理解してない。
イエール大学、フレデリック教授、
「CRT(認知反射テスト)」、被験者が直観型か、熟慮型かを調べるテスト
”バットとボールは合計で1ドル10セントである。バットはボールより1ドル高い、ボールはいくらか?”
10セント?、よく考えると、ボールが10セントでバットが1ドル10セントならば、合計は。。。
直感的回答を確認し誤りに気づき正解にたどり着く、「内省的」と呼んだ
第五章 体と世界を使って考える
P163, 知性を脳の中でひたすら抽象計算に従事する情報処理装置とみるべきではない。
脳と身体、そして外部環境は協力しながら記憶し、推論し、意思決定を下すのだ。
知識は、脳内だけでなく、このシステム全体に分散している。
知性は脳の中にあるのではない、むしろ脳が知性の一部なのだ。
外部からの手助けがあれば、個人はかなり無知ではなくなる。
第八章 科学について考える
科学に対する国民の理解
「ポドマー・レポート」、科学リテラシーを高めることで社会全体に科学に対する肯定的意識を醸成する。
「欠乏モデル」、科学に対する意識が理解度によって決まる。
反科学主義思想は知識の不足に起因するものであり、不足が解消されれば消滅する
P236 全米科学委員会(NSB)が、国民の科学に対する理解度を調べ、科学技術指標
基本的事実に対する質問群、
例)「地球の中心はとても熱い」
正答率が高いほど、各テクノロジー(遺伝子組み換え食品、ワクチン接種、ナノテク、原子力等)は容易できる、リスクは低い、社会に対して大きな恩恵があると答える割合が高かった。
ところが、情報を与えても効果がない、逆効果になった例もある。
P238、どこに問題があったのか?最近主流になっている見解は、どこにも問題などなかった、という説だ
そもそもの前提、「欠乏モデル」が間違いだったのだ。
科学に対する意識は、エビデンスに対する合理的評価に基づくものではない。
科学に対する意識を決定づけるのは、むしろ様々な社会的・文化的要因であり、だからこそ変化しにくい。
コミュニティへの忠誠心
P241、サイエンス・マイクの経験からは、知識の錯覚がどこから生じるかがうかがえる。
新たなテクノロジーに対して、自力で十分な知識に基づく精緻な見解を形成することはできない。だから信頼できる人の意見はをそっくり受け入れるしかない。このように自分の意見と周囲の人々の意見は、たがいに補強しあうことになる。
P242、クイズ(前出、基本的事実に対する質問群)で不正解の割合の高かった人も、正解の割合が高かった人と同じく、自分には知識があると評価していた。自信を抱くのも、当然だ。なぜなら、検証されたことがないからだ。
第十章 賢さの定義が変わる
知能テストの歴史
P299、(いろいろな知能のテストが開発が試みられたが)、心理学者は驚くべき発見をした、
P300, 測定する知的能力に十分な多様性があれば、どのテストを選んでもあまり差が出ない。すべての認知力テストには正の相関がみられる。
チャールズ・スピアマン、すべてのテストが、できる人とできない人をわける何らかの要因を拾っていることになる。スピアマンはこの共通項を、一般的知能と呼んだ。
スピアマンは、因子分析、個人のテスト結果を使って知能スコアを導き出すための高度な数学的手法を考案した。
P301、因子分析が明らかにする基本的特性は、「一般的(general)」から、「g因子」と呼ばれる。g因子は統計的概念である。
単純なg因子の数値と、職業上の成功を測る複数の数値の間に正の相関がみられた。
知識のコミュニティからのインスピレーション
P303,知識はコミュニティの中にあるという気づきは、知能に対する全く別のとらえ方をもたらす。知能を属人的属性と見るのではなく、個人がどれだけコミュニティに貢献するかだと、考えるのだ。
思考が集団の中で起こる。チームとして取り組む社会的行為であれば、知能は個人だけではなく集団に宿ることになる。
P304,結論として、有能な集団にはg因子が高い人が大勢いる必要はない。必要なのは、異なる能力をもった人がバランスよくいることだ。
P307,CMUのテッパー・ビジネススクールの、アニタ・ウーリー教授、集団知能仮説
「c(collective)因子」、個人の知能指数であるg因子より、集団知能であるc因子を重視すべきだ。
では、集団知能とは具体的に何を測定しているのか??
ウーリー教授の調査、
集団のまとまり、意欲、満足度に関する指標は、チームの成績を予測するのに役立たない
予測に役立つ指標、社会的感受性、メンバ同士が頻繁に役割を交代すること、女性の割合
女子の割合を増やすと、社会的感受性が高まり、集団にとってプラスであることを示唆している。
(男子更衣室に足を踏み入れたことがある人ならばわかるはずだ)
第十一章 賢い人を育てる
何を知らないかをしる
P320,私たちが知識の錯覚に陥るのは、専門家の知識を自分自身の知識と混同するからである。他の誰かの知識にアクセスするできるという事実が、自分がその話題について知っているかのような気分にさせる。同じ現象が教室でも起きている。
必要な知識は教科書や教師の頭の中、そして自分より優秀な仲間の頭の中にある、人間はすべての科目に秀でるようにはできていない。コミュニティに参加するようにできている(ジョン・デューイは何十年まえに指摘している)
P325,自分が何を知らないかを理解する良い方法は、対象となる分野に関連する仕事をすることを通じてそれを学ぶことだ。科学者の行動様式を身に着ければ、わかってないことが何かわかるようになる。
「科学の手法」、事実ではなく。
学習のコミュニティ
P336,教育学者のアン・ブラウン、知識のコミュニティを作るための仕掛け、グループを再編する。
「学習者のコミュニティ形成」、トピック毎の調査グループに分かれて調査、その後、各調査グループから一人づつ子供を集めた教育グループを作り(ジグソーメソッド)、課題を与えられる。このグループを再編するというのが、知識のコミュニティを作るための仕掛け(アン・ブラウン)、認知的分業。
「専門知識は意図的に分散されている、ただそれは生徒たちが異なる分野の知識を学んだ自然な結果でもある。学習や教育の成果は、調査活動のコミュニティを作り、維持し、拡大できるかどうかにかかっている。コミュニティのメンバーは互いに極めて強く依存している。誰もが孤島ではない。すべてを知っているものは一人もいない。このような環境では、協力的な学習が不可欠だ。このような相互依存は、責任を共有し、互いを尊重する意識や、個人および集団のアイデンティティを醸成する」
第十二章 賢い判断をする
P349, 説明嫌いと説明マニアとの違いはどこにあるのだろう?その答えは「認知反射」である。
反射認知テストで高得点を取る人は、ひっかけ問題にも引っかからない、満足できる説明に高い基準を持っている。も皮相的な説明では満足せず、もっと知りたいと思う。
しかし、大多数の人は説明嫌いだ。
説明嫌いと説明マニアのどちらが好ましいのか?正解はない。
世界は複雑なので、すべてを知ることは不可能だ、あまり重要ではない細部を理解するのに膨大な時間をかけることは(説明マニアがよくやることだ)、時間の無駄になりかねない。しかし自分の専門分野については説明マニアでも、興味のない分野では説明嫌いになる人も多い。
P351、誤解を招くような主張や質の低い説明を私たちが簡単に受け入れてしまうのは、避けられない部分もある。意思決定の多くは、世界の仕組みについての推論を必要とする。世界はあまりにも複雑なのでだれもがあまりにも多様な意思決定と向き合わなければならず。およそ一人でその細部全てを理解することはできない。
情報量を増やすことが解決にはならない
P322,金融教育の効果はほぼゼロだった。数か月以内に消えた。欠乏モデルに基づく科学リテラシーを向上させる試みが失敗した事例(8章)。
P323、こうした試みが失敗した原因は、意思決定を個人の問題と捉えたことにある。
この考え方は間違っている、個人は独力で意思決定をするものではない。選択肢を考え、提示し、アドバイスを与えるのは他者である。しかも他人の意思決定をマネすることもある。意思決定は共同体という視点でとらえるべきだ。
P354、なぜ消費者は年金商品に魅力を感じないのか、多くの研究が行われてきた、理由の一つは、消費者に商品が理解できないことだ。
P362、人々が物事を深く理解しないまま、意思決定をすることを防ぐ手立てはなさそうだ。ではどうすれば、より賢明な選択ができるようになるだろうか?
より良い判断を「ナッジ」する
「リバタリアン・パターナリズム」(緩やかな介入主義)、シカゴ大セイラ―、ハーバード大サンスティーン、
P365,ナッジという手法から学ぶべき重要な教訓は、個人をかえるより、環境をかえるほうが簡単で効果的であるということだ。また認知にどのような癖があり、それによってどんな行動が引き起こされるかを理解できれば、そういった癖がマイナスではなく、プラスに作用するように環境を設計することができる。
教訓①:かみ砕く
教訓②:意思決定のための単純なルールを作る
教訓③:ジャスト・イン・タイム教育
教訓④:自分の理解度を確認する
結び
本書には三つの主題がある、無知、知識の錯覚、そして知識のコミュニティである。本書の議論から導き出される結論は単純なものである。といった錯覚を我々は持っていない。
本書の教訓は、無知を解消するため、コミュニティで幸せに暮らすため、あるいは錯覚を打破するための秘策などではまったくない。むしろその逆だ。無知は避けられないものであり、幸せは主観的なものであり、錯覚にはそれなりの役割がある。
ダニング・クルーガー
「無知は我々の人生を、知らず知らずのうちに形作っている。人は知っていることをやり、存在すらすらないことはしない傾向がある」
コミュニティの判断力を高める
錯覚を評価する
精度の高いL、世界で知るべきことのうち、自分がどれだけ知っているかをよく把握している
S,すべてを理解しようとする。野心家、自分の知識だけでは解決できない大きな問題を解こうとする。
S,Lの父親の目からするとどちらも完璧である。
ChatGPTにも聞いてみた
(1)娘SとLのエピソードについて
最終章の娘SとLのエピソードが気になったので、ChatGPT(2024.11.17)に聞いてみた。短い設問に適切に回答しているように見えるが
つまり私たち人間が個々の知識の限界にとらわれるのではなく、他者との協働を通じて知識を共有し、拡張することの重要性を語っていると。SとLの例は、個人ではなく集団的な知性の力を象徴しているというのが解題だ。
(2)生成AI時代の集団知能はどうなるか?
最初に「集団知能」は強化され、効率的になるという。
質的変化、すなわち、閉じた集団の外の視点を持ち込む可能性がある。
しかし、使いようによっては、聞きたい答えのみを聞くようになり、それをAIが学習すれば、、という話と、やっぱり思考のアウトソーシングが進む。
倫理的な問題ってのは、集団知能だと、もともとあったような気がするな。
未来展望にある世界が本当に現れるのか、現れるはずである。
生成AIによるまとめ by Gemini Experimental 1114
「各章の読書メモ(太字は筆者)」を最新の生成AIである、Gemini Experimental 1114さんにまとめてもらった、いかに?
まとめ:無知の自覚から始まる賢明な判断とコミュニティの力
自分のまとめよりよっぽどわかりやすいよ!ついでに課題にもこたえてもらった。
「生成AI時代の無知の知」に対する回答
生成AIの時代における本書の主張の変化について考察してみましょう。本書の主張は「無知」「知識の錯覚」「知識コミュニティ」という三つの柱を軸に展開されます。生成AIの登場によって、これらの主張はどのように変化し、あるいは強化されるのでしょうか。
1. 無知の自覚の重要性はさらに高まる
生成AIは膨大な情報へのアクセスと処理を可能にしますが、それは同時に情報の真偽を見抜く能力がより一層重要になることを意味します。AIが生成した情報が必ずしも正確とは限らないため、利用者は自身の知識と照らし合わせ、批判的に情報を評価する必要があります。つまり、「自分が何を知らないか」を自覚し、情報の出所や信頼性を判断する能力が求められるようになります。この点において、本書の「無知の自覚」の重要性はさらに高まると言えるでしょう。
2. 知識の錯覚はより巧妙になる可能性
生成AIは流暢な文章やもっともらしい説明を生成することができます。これにより、利用者はAIが提供する情報を深く理解したと錯覚しやすくなる可能性があります。本書が指摘する「説明深度の錯覚」が、AIによってさらに助長される危険性があるのです。利用者自身が主体的に学び、検証する姿勢がなければ、AIによって作られた「知識の錯覚」に陥ってしまう可能性があります。
3. 知識コミュニティの役割の変化と重要性の再認識
生成AIは知識へのアクセスを容易にしますが、それは同時に「知識コミュニティ」の役割を変える可能性があります。従来の知識コミュニティが情報の集積地であったのに対し、AI時代においては、情報の解釈や評価、そして倫理的な議論を行う場としての重要性が増すでしょう。また、AIが生成した情報を検証し、偏りを修正するためにも、多様な視点を持つ人々が集まるコミュニティが必要不可欠となります。さらに、AIのアルゴリズムは利用者の思考を特定の方向に誘導する可能性があり、それを防ぐためにも、異なる意見や視点に触れられるコミュニティの存在が重要になります。
4. 新たな課題:AIへの過度な依存と批判的思考の欠如
生成AIの登場によって、人々がAIに過度に依存し、自ら思考し判断することを放棄してしまう可能性も懸念されます。AIが提供する答えを鵜呑みにし、批判的に考えることを怠るようになれば、それは新たな「無知」を生み出すことになりかねません。本書で示された「無知の無知」から脱却するためには、AI時代においても、自ら学び、考え、判断する姿勢を維持することが重要です。
結論
生成AIの時代においても、本書の主張である「無知の自覚」「知識の錯覚への注意」「知識コミュニティの重要性」は依然として有効であり、むしろその重要性は増すと考えられます。AIを効果的に活用するためには、利用者が主体的に学び、情報を批判的に評価し、多様な意見に触れることが不可欠です。AIはあくまでもツールであり、最終的な判断は人間が行う必要があることを忘れてはいけません。AI時代を生き抜くためには、本書が示唆する「無知の自覚」を出発点とし、AIと共存しながらも、自律的な思考と判断力を養うことが重要となるでしょう。