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2023 東京漂流

 学校の写真の授業で「東京漂流」という課題があった。
 元ネタは藤原新也の『東京漂流』だろう。東京をひとりで彷徨って写真を撮る。当時はフィルムのカメラだった。
 フィルムを自分で現像して、印画紙に焼き付ける。カラーフィルムは暗闇で扱うので個人では現像は難しいが、モノクロは赤色灯の下で作業できるので、フィルムの現像も焼き付けも自分で行える。
 薬液に浸した白い印画紙に徐々にモノクロの映像が浮き出るさまが、見ていて楽しかった。

 「東京漂流」の最初の課題は、場所が指定されていた。
 同潤会アパート、月島・佃島、品川の原美術館、夢の島。今は失われた、歴史のある美しい建物がそのころにはまだ存在していた。
 私は東京湾に行った。月島に行き、三番瀬に行き、新木場の海上に材木が並べられた材木置き場に行き、当時橋脚しかなかったレインボーブリッジの周辺を巡った。

 高校時代、好きだった人と海岸線を歩いた。ときどき雨の降る、肌寒い春の一日だった。
 その人は鬱屈を抱える私に黙ってついてきてくれた。河口に阻まれて来た道を折り返す途中、私はその人とずっと海岸線を歩いて日本を一周したいと思った。
 高校卒業後に、その人と別れた。私は東京の大学へ行き、その人は地元に残った。そのときに傷つけ合って別れたのがトラウマだった。
 殺人現場を巡るように、自傷行為のようにひとりで海岸線を歩く。カメラは私に歩く口実を与えてくれる。

 晴海埠頭の港湾を歩いた。
 倉庫で働く人に、何をやっているのかと聞かれた。学校の課題で写真を撮っていると答える。親の金でそんなことをやってるのかと言われ、確かに半分遊びのような授業だなと思う。
 佃島の地下鉄の駅に降り立って、街を歩いた。
 タワーマンションのはしりの建物が細長くそびえ、その足元に黒い木造の古い町並みが広がっていた。冬枯れの低木に、葉っぱのようにふくれた雀がたくさん止まっている。
 もんじゃ焼きを食べてこいという課題に従って、店に入る。店員のおばさまに、ひとりでは食べきれないのでもんじゃ焼きを出せないと言われ、とぼとぼ店を出る。
 材木が斜めに立てられた木工場を抜けて、住宅街に入る。
 細いコンクリートの路地で猫が数匹集まって会議をしていた。
 羽田空港まで続く幹線道路沿いを歩いた。
 一面に背の高いアシが生い茂る一本道に、えんえんとトラックが走り続けていた。道路を冬の切るような風が通り過ぎていく。道の脇にぽつんと水泳場の建物があり、その後ろにまたアシの枯れた原が続いている。
 身体を冷やして歩き続け、風邪を引いた。

 長いあいだ、その人を思い出すことができなかった。
 考えても頭が漂白されたように真っ白で、何も感じないなと思う。
 あるときふと、笑顔を思い出せなくなった。
 思い出すのは、別れ際の目に壁を作ったその人の無表情だった。

 フィルムのカメラがコンデジのカメラに変わっても、私は海辺を歩き続けた。
 新木場の駅に立つ。二十年ぶりだった。駅前で二十代の男性がふたり、ジャグリングの練習をしていた。
 駅前の道路を歩くと、木場の海辺に出る。二十年前には規則的に立てられた杭に横たわっていた木材が消え、現在は杭だけが整然と水面から突き立っていた。木材置き場として使われることはなくなったのかなと思いながら、海を目指して歩く。
 あいまいな薄青い空に旅客機が斜めの航路を刻んで飛んでいく。

 夜の海に出る。汚れたレースの縁のような波が、黒い海に打ち寄せている。
 暗闇を眺めながら、私の前に死が横たわっている、と思う。

 竹箒を使って落ち葉を掃いていた。
 ふと高校時代に、私の竹箒の掃き具合がワイルドで豪快だと友達に笑われたことを思い出した。
 数人の笑う友達のなかに、その人がいた。
 笑顔のその人が、光のように私の胸に射す。
 ありふれた高校時代の、ありふれた記憶だった。

 椎名林檎の「正しい街」という歌に、

百道浜も君も室見川もない

 という一節がある。
 どこだろうと思って調べると、それは福岡県だった。
 その人と歩いた海岸と河口にも名前がある。名前を思い出さないようにしている。
 別れて十年後、その海岸を河口まで歩いた。
 砂丘の幅が狭くなり、浜に無数の車の轍が重なって伸びていた。

 東京に出て十年後の正月、その人は私の実家に電話をかけてきた。私が帰省するかと母に聞いた。母はここ三年ほど帰ってきていないと答えた。
 私はその人に連絡を取らなかった。
 それが、その人の消息を聞いた最後になった。

 東京に来て十年、実家に帰る以外は旅行に行ったことがなかった。
 古本屋の店主にそんな話をすると、店主は「東京にいることが旅のようなものだからね」と言った。
 それは、失った人を心のなかに沈める作業を続けた十年だった。
 

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