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二重らせんは見ている 第4話

          第4話

 京都の久留米酒造で変死体が見つかる2週間ほど前、浩二は憂鬱な気分で科学警察研究所の会議室にいた。
 科学警察研究所は千葉県の柏市にある。東武野田線とつくばエクスプレス線に挟まれた中州のような場所だ。研究所まで柏の葉キャンパス駅から徒歩15分ほどだが、浩二は近くの官舎住まいなので、大勢の乗降客にまぎれて通勤することはまぬがれていた。
 会議の議題は生物第4研究室が主体となっているプロジェクトの今後についてであった。警察庁長官の就任会見の席で病院に運ばれた久保田が昏睡状態だったからだ。もう半月近くになる。
「横山、何度も同じことを訊くが、博士から人間の自我の抽出方法について何も聞いていないのかね?」中年太りの肥大した身体を持て余すようによじり、室長の塚本つかもとが浩二に顔を向けた。
「はい、しかし実験データは受け取っています。昨年の暮れには自我の曇りが排除された動画を確認しています」
「だがそれは博士のDNAだろう? 捏造の可能性はないのか」
「データ解析では問題ありませんので、検証実験ができるかどうかです。ただ何度お願いしても、研究室内への立ち入りを許していただけないのです。自我を排除する際の具体的な工程も未開示です。装置を稼働する際に避けれらない危険があるそうで、対策を講じない限り実用化できない、と博士は言っておられます」
 浩二はそう弁明しながら、本当の理由を話すべきか悩んでいた。博士はありもしない秘密結社による妨害、なおかつその背後にいるであろう怪物を恐れていた。博士の妄想だとしか思えないが、彼の承諾なしにこの場に持ち出すことは道義的にできない。
「まさか放射線じゃないだろうな」主任研究員の坂田明信さかたあきのぶが黒ぶちの眼鏡の奥から鋭い視線を投げかけてきた。浩二より5歳年上の彼は、当初からこのプロジェクトに反対していた。久保田の論文には感銘を受けたようだが、外部の研究所に委託する危険性を主張した。
「その心配はありません。使用されているのは基本的に水です。できる限り自然に近い純粋な水が必要だと話されていました。だから博士は諏訪湖の湖畔に研究所を作られたんです。とにかく博士の意識が戻らない限り、このプロジェクトを進めるのは難しいでしょう」
「ふ〜、赤城長官の苦り切った顔が目に浮かぶよ。あの会見以来、マスコミは大騒ぎだからな。犯罪捜査の歴史が変わるだろうと報道されている。日本中の警察本部からも問い合わせが来ているそうだ」塚本はぐったりした顔で目の前のペットボトルのお茶を手にした。
 会議室の扉をノックする音が響いた。入室した女性が塚本の耳元に何かを告げると、「すまない、緊急の電話だ」と言って彼は会議室を出た。しばらくして戻ってきた塚本の顔は死人のように蒼白だった
「大変だ。長官が自宅で亡くなられた。遠山次官からの連絡だ」
「えっ、まさか事件ですか」坂田が訊いた。
「いや、自殺のようだ。ただ不審な点があるらしい。それでこの件に関して、次官からプロジェクトの始動を厳命された」
「長官のDNAから死の刻印を抽出するということですか?」浩二は胃がキリキリと痛むのを感じながら訊いた。
「そういうことだ。確か博士はDNAの刻印と照合させるため、現場の詳細な記録を取るように言っていたな。坂田と横山。すぐに長官の自宅へ向かってくれ。調査の許可は取っておく」塚本は立ったままで指示を下した。
 二人は用意された公用車に乗り込んだ。坂田は憮然として何も語らない。後部座席で沈黙が流れたまま、車は目黒区青葉台にある長官の自宅へ向かった。
 大邸宅が並ぶ閑静な住宅街で、浩二には縁もゆかりもない土地だった。ビデオカメラのバッテリーをチェックしていると、坂田が運転手に聞かれないよう小声で耳打ちした。
「プロジェクトが頓挫しそうなことは誰にも言うな。とりあえず正確な記録を採取しておこう。遺体に不審な点があるとすれば、警視庁の捜査一課が動いているはずだ。対応は俺に任せておけ」
「はい、わかりました」浩二は素直にうなずいた。
 長官の自宅は思わず見上げるような大邸宅だった。《赤城》と記された表札が輝いて見えた。パトカーが家の周囲に集まっているので、近所の人たちが好奇の視線を向けている。
 玄関にいた制服の警察官に身分を告げると、スーツを着た中年の男性が呼ばれた。警視庁の刑事だった。坂田は浩二にここで待つようにと目で伝えてきた。
 説明を受けた刑事は面倒そうに眉根を寄せている。しばらくして坂田がやってきて耳元でささやいた。
「長官の遺体はそのままだ。鑑識の邪魔をしないように注意された。何も触るなよ」
 浩二はうなずいて坂田が手渡した白い手袋を受け取った。そして先導する刑事の後について吹き抜けの玄関からすぐの階段を上り、長い廊下の奥の部屋へ向かった。そこが長官の寝室らしい。
 南向きの大きな窓から午後の日差しが射し込んでいた。いい部屋だな、と思いながら部屋に足を踏み入れた。その直後、陽光に照らされた長官の遺体が目に飛び込んだ。
「うわぁぁ」と浩二は叫び声をあげると、思わず廊下に出た。自殺と聞いていたから、ある程度心の準備をしていた。だがそこにあった遺体は想像を絶する姿だった。
「おい、横山」と坂田が廊下に手を出して、カメラを持つ浩二を部屋の中に引き入れた。カメラのモニターに、ベッドの脇であお向けに倒れている遺体が写り込んだ。
 長官は自分の両手に首を当てていた。その10本の指が自らの首の奥深くに食い込んでいる。苦しんだせいか、身体はねじれて曲がり、白目をむいていた。失禁した様子も見られる。口元から流れた嘔吐物が床で固まっていた。
 自殺だとすると、自分の手で首を絞めたとしか思えなかった。果たしてそんなことが可能なのだろうか?
 おぞましい姿から目を背けるようにして、浩二は部屋全体を撮影した。バルコニーにカメラを向けた時、異様なものが写り込んだことに気づいた。ガラス戸全体に押しつけられた複数の手形だった。
 さらに下へカメラを向けると、黒っぽい汚れが目についた。人間の足跡だった。バルコニー全体をおおい尽くしている。
 長官の寝室には刑事と鑑識の制服を着た人物が数人いたが、浩二がカメラを構えていることを気にしていない様子だった。あらかじめ警察庁の幹部から事情を聞かされていたのだろう。案内してくれた刑事が遺体の状況を補足してくれた。
「私の経験からすると自殺だと考えています。正面から誰かに首を絞められたなら、相手の親指の跡が被害者の喉のあたりに残ります。しかし長官の左右の耳の下あたりに親指が押し付けられた形跡が残っています。自分で首を絞めたとしか考えられません。お二人はどう思われますか」
「本人に死ぬ意思があったとしても、意識が遠のけば両手から力が抜けるはずです。ここまで自分の指を首に食い込ませることができるとは思えませんね」刑事に答えた坂田は、身じろぎして部屋の天井あたりを気にしていた。
「ところが長官の両手には他人が触れた形跡は認められない。さらに部屋には侵入者の痕跡がありません。ただご覧になったように、バルコニーには意味不明の手形と足跡が残されています。単なる自殺だとは考えられません。それで警視庁の刑事部部長から警察庁に依頼したというわけです。ほら、例の記者会見で話題になった鑑定です。もう可能なんでしょう?」嫌味っぽい笑みを見せる刑事の顔から、そんなことができるわけないという否定的な想いが見えた。
「ええ、もちろん。ほぼ実用化の段階まで来ています」坂田はそう答えながら、両目は部屋全体をさまよっていた。
 坂田が以前から時おり見せるしぐさだが、これはこの人の癖なのだろうか。初めて見る人は嫌な気分だろう。浩二はそう思いつつ、彼の視線の先を追うように部屋全体を撮影した。そして最後にカメラを長官の遺体に向けてズーム映像を録画した。
「撮れたか」坂田は浩二がうなずいたのを確認すると、刑事たちに声をかけて何かから逃げるように玄関を出た。だがすぐに立ち止まり、美しく手入れされた庭に足を踏み入れた。そして寝室に面したバルコニーを見上げている。
 何を見ているんだろう? そう思って浩二は坂田の顔をのぞき込んだ。血の気が引いておびえたような目をしている。
「何かあるんですか?」
「いや、なんでもない。行こう」坂田は急ぎ足で待たせていた公用車に向かった
 二人を乗せた車は首都高三号渋谷線に入り、丸の内方面へ向かった。そのとき浩二のスマートフォンが鳴った。画面には《久留米咲》と表示されていた。
「はい、横山です」
《もしもし、先輩。博士が、博士が危篤なんです。どうしたらいいのか》
「わかった。今は都内だからすぐに行く」浩二は電話を切ると、久保田が危篤だと坂田に告げた。
「運転手さん、急いで慈恵医科大付属病院に向かってください」坂田は運転席に乗り出すようにして声をかけた。
 病院へ到着して久保田が入院している個室に二人が飛び込むと、医師や看護師によって救命措置が施されている最中だった。
 部屋の隅では咲が落ち着かない様子で突っ立っていた。浩二と坂田の姿を認めると、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。そして何も言わずかぶりをふった。
 浩二はベッドに近づいて、やせこけた恩師を見た。呼吸が浅いので落ち着いているように見えるが、血圧は極端に低く、心臓はかろうじてセンサーに信号を送り込んでいるだけだった。
 咲は浩二の隣に立つと、両手を合わせて目を閉じていた。しかし坂田はベッドから一歩離れ、部屋の壁や天井を見回していた。
 こんな時にまたあの癖かよ、と浩二はいら立ちを感じて坂田をにらみつけた。
 久保田は顔をゆがめて苦しそうにあえいでいる。医師が看護師に向かって何か叫んだ。
 その直後、久保田がばちっと両目を開けた。最後の力をふり絞るようにして首を少し右に向け、部屋の窓に視線を移した。
 浩二が久保田の視線の先を追った時、もう一つの視線がそこに注がれてるのに気づいた。坂田だった。恐ろしい形相で久保田と同じあたりをにらみつけていた。
 久保田が口を開こうとした。目は窓を追ったままだ。そして死に瀕した人間だとは思えないような大声で叫んだ。
「去れ! お前の言いなりにはならないぞ。立ち去るのだ!」そう言うと、久保田はがっくりと全身から力が抜けたように崩れた。センサーの警告音が、博士の心臓が停止したことを伝えた。
 臨終を確かめるために瞳に光を当てようとした医師が、たじろぐように後ずさった。久保田が怒りの形相で目を見開いていたからだ。
 これでプロジェクトは終わりだ。すべてが無駄だった。やはり坂田の言うとおり、外部委託するべきではなかったんだ。絶望的な思いに包まれた浩二は、彼がどう思っているのか気になってふり返った。
 だが坂田はじっと窓を見つめていた。両手のこぶしを握りしめ、言い知れない恐怖に耐えているかのように見えた。

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