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平野啓一郎「本心」~人の多面性、人との関わりの中で変わることの意味について

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昨日、深い感慨と共に読み終わった。昨年8月お盆の時期に、彼の「公式メールレター」登録者限定で公開された「初校ゲラ」(新聞連載原稿)を読んでいるので、ある意味「再読」でもある。しかし、平野氏はこの「初校ゲラ」に寄せられた多くの感想をも参考に、さらに推敲を重ねて単行本化への「最終稿」を仕上げているので、ある種「新しい読書」でもある。どこがどう変わったのか~一番大きな、「安楽死」という言葉が「自由死」に置き換えられた~ということ以外では、「このプロローグは元々あったっけ?」とか「この下りは初校ゲラにはあった?」と感じたのが2~3あったくらいだが、それが単なる私の記憶違いなのか~今では確かめようもない(「初校ゲラ」PDFはもうネット上では見られない)。しかし、間違いなく表現はより精緻に、より深く心に染み入ってくる味わいの文章に進化しているように感じた。私はこの「最終稿」も、公式メールレターで4月末から毎週2回、1章ずつ配信されてくるもので読んだので、単行本は買っていない(平野さんには申し訳ないけれど)。大体私は、自分で買った本もそのほとんどは読後に神戸市立図書館に寄贈しちゃうので、そこはまあ、御免やで!である。

そして、作品の内容そのもの以前に平野氏のこの作品の「社会への出し方・売り方」がいかにも今様であることを深く感じる。米国でアリシア・キーズやテイラー・スウィフトなどが、近年新しいアルバムを発表するのと同時に、ほぼ全曲をYou -Tubeなどでupしちゃうのに似ている。私など「あんなに無料でupして、アルバム売れるんやろか?」と心配になったが、いやいやそれでも彼女たちのアルバムは確実に売れているし、この「本心」も5月26日の刊行から数日後の6月初旬にも重版がかかったようだから、そこは「心配無用」なようである。思うにこういう「売り方」が出来るのは、ある次元を超えちゃった真の一流クリエイターならではなんだろう。

ここで昨年8月に私がフェイスブックに投稿した感想を挙げておこう・・・「しみじみと、いい作品でした。単行本として出版前の「初校ゲラ」で小説を読むという、非常に貴重で贅沢な体験でした。平野氏とこの企画関係各位に感謝いたします。社会福祉政策などが破綻し、格差が今以上に拡大・固定化された近未来の日本。「安楽死の可否」「働くものの尊厳」「社会を変革することの意味・可能性」「生まれ、生き、死んでいく存在としての人間・人生の意味」・・・「ある男」「決壊」など同様、常に時代の一歩(あるいは数歩)先をいく問題意識をテーマに、この人ならではの絶妙な文章力・表現力。一文一文噛みしめるように味わいながら読み進めました。主人公の若者にも、その母にも、非常に共感するところ多く、私自身も自分や母親の死をどのように受け止め迎え入れるようになるのか~時代状況と共に深く考えさせられる展開でした。しかしラストは明日への希望を感じさせる晴れやかさを滲ませていて、それもよかった。平野氏の小説を読んで「どこがよかった?」と聞かれても、一流シェフのコース料理を食べて「どれがおいしかったですか?」と問われるようなもので、「いや、どことかどれとかではなく、全ておいしかった(よかった)です」としか言いようがない。そんな充実した読書体験でした。」・・・ちなみに私は昨年末に一年を振り返って、年間に読んだ文藝部門の作品の中で「本心」をベスト1に挙げている。

基本的には今もこの通りなんだが、この「二度目の読書」でより深く感じたのは、この作品が、彼が以前から提唱してきた「分人主義」をテーマとする文学として「一つの到達点」を迎えたのではないか~ということである。タイトルとなっている「本心」~物語の軸は、主人公の母の「本心」を巡って進んでいくが、一方登場人物それぞれの、相対する人物や状況によってその人の「前景化する側面」が様々に変化していく様は、「どこまでが『本心』なのか?」という設問自体が意味を失うような、「人間を理解する上での多重性・多層性の大切さ」を見事に表現しているし、母の言葉~「もう十分」というキーワードが、どのような社会的背景に置かれた中の言葉なのか~それによってその意味あいが違ってくることなど、「dividualな存在としての人間」が存分に描かれているように感じる。読み進めながら、いや、確かに人ってそういうもんでしょう!と私も強く思うのである

しかし、登場人物それぞれが、相互の関わり合いの中で、より自分の世界が拡がり、2040年代の「展望なき近未来」の中でも、少しでも前向きに生きていこうとする姿は美しく頼もしい。平野氏は最近、彼の小説「決壊」を読んだ読者から「それで自分はこれからどう生きていけばいいのか」と問われて、以降小説上でも「明るい展望や未来」を意識的に描こうとするようになった~という趣旨のことを語っていたが、この小説は「展望なき閉塞状況下にある現代日本」において、「ある種の羅針盤」的にも読める~そんなことも感じた。人は日々変わるし、また、変われる。この主人公と亡き母の関係もそうである。そしてその「関係性の変化」をそのまま受け入れることこそが、平野氏の言う「最愛の人の他者性」を認めるということではないのだろうか。

また、今この小説を読んでみると、所謂「婚姻関係外での人工授精と妊娠・出産」というテーマをこの作品も内包していること、川上未映子の「夏物語」でも同様のテーマが重要な核であったこと~この二人の現代日本文学を代表する芥川賞作家が、ほぼ同時期に「同様のテーマ」を取り上げ、それぞれの文学として独自の世界を築いていることは、私には誠に印象的であった。一方、この小説が「死の自己決定権」を取り上げているのに対し、「夏物語」が「生(出産)の自己決定権」を描いているのも実に対照的で興味深い。

この記事ではこの小説のストーリーについてはほとんど触れていない。それは、既に多く出されている各種書評やネット上にupされた多くの読書感想などでいくらでも確認できるだろうし、「読めば分かるし、まずは読みなさい!」ということでもある。まあ皆さん、この小説を手に取って、一度読んでみてください!・・・言いたいのは結局、極シンプルにそういうことである~(*^^*)




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