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歴史に名を残す脚本家から学べる事 vol.3 フェリーニ&ベルイマン

5. フェデリコ・フェリーニ

フェリーニは作家としてキャリアをスタートさせました。最初はイタリアの風刺雑誌で名を上げ、そこで培った喜劇的でユーモラスな共同作業のスタイルを映画の世界に持ち込みました。

その後、20年以上にわたり、彼は独自の傑作を次々と書き上げ、監督しました。これらの作品は、鋭いリアリズムと目を見張るような空想を絶妙に融合させたものでした。彼の代表作には、『青春群像(ヴィテロー二)』(1953年)、『道』(1954年)、『カビリアの夜』(1957年)、『甘い生活』(1960年)、『8 1⁄2』(1963年)などがあります。そして、おそらく映画史上最高の自伝的作品と言える『アマルコルド』(1973年)で彼の才能は頂点に達しました。この作品は、ムッソリーニ政権下のイタリアにおける彼の少年時代を描いています。

1. 最小限の台詞
フェリーニの脚本は、驚くほど簡潔で、台詞を極力抑えたものでした。例えば、彼の代表作『甘い生活』の脚本はわずか8ページで、詳細な場面描写や台詞ではなく、主にスケッチや落書きで構成されていました。彼は、細かな計画が撮影現場での創造性や即興性を阻害する可能性があると考えていたのです。

2. 視覚的な物語表現の重視
台詞に頼るのではなく、フェリーニはカメラを駆使して場面の本質を捉える視覚的な物語表現に力を入れました。感情を伝え、物語を進めるために、カメラアングル、動き、構図を綿密に計画しました。そのため、彼の映画は豊かで夢のような視覚表現と印象的なイメージで知られています。

3. 協調的なアプローチ
フェリーニはよく、トゥリオ・ピネッリ、エンニオ・フライアーノ、ベルナルディーノ・ザッポーニなどの脚本家チームと密接に協力して脚本を練り上げました。彼は彼らの意見を尊重し、自由にアイデアや視点を提供するよう促しました。この協調的なアプローチにより、創造性を自由に発揮し、多様な影響を取り入れることができました。

4. 予期せぬものを受け入れる姿勢
フェリーニは映画製作の過程で、未知のもの、予想外のものを積極的に受け入れました。彼は過度の計画が創造性を抑制すると考え、物語を作りながら新たな発見をすることを好みました。このアプローチにより、即興的な瞬間を捉え、偶然の出来事を彼の映画に取り入れることができました。

フェリーニが予想外の展開を受け入れた印象的な例の一つが、『8 1/2』の撮影中に見られました。主人公グイドの人生に登場した女性たちが彼を取り巻く有名な夢のシーンでは、当初フェリーニは計算された動きを伴う、構成の整ったシーンを構想していました。ところが撮影当日、彼は思い切って女優たちに自由な動きや掛け合いを即興で演じるよう指示しました。その結果、当初の計画では到底生み出せなかったような、グイドの無意識の奥底を映し出す魅惑的で夢幻的なシーンが誕生したのです。

さらに、『アマルコルド』の撮影中、突然の豪雨によって撮影が中断されたことがありました。フェリーニは天候の回復を待つのではなく、俳優たちに雨の中で踊らせるシーンを即興で撮影することを思いつきました。その結果、映画全体の雰囲気を見事に表現した、忘れがたい喜びに満ちたシーンが生まれたのです。

5. 個人的な体験と記憶の活用
フェリーニの多くの映画は、特にリミニでの幼少期など、彼自身の体験と記憶に触発されています。彼は自分の人生を形作った人々、場所、出来事からインスピレーションを得て、物語に真実味と個人的な省察の雰囲気を吹き込みました。

6. イングマール・ベルイマン

フェリーニが地中海の生き生きとした生活を描いた情熱的で熱狂的な物語で南ヨーロッパを表す表現を自分のものにしたのに対し、ベルイマンはより厳格な人間の条件の考察を通じて北ヨーロッパ、特にスカンジナビアを映画的に征服しました。

フェリーニと同様、ベルイマンもほぼすべての代表作の脚本を自ら執筆するか、共同で書き上げ、忘れがたい物語を生み出しました。その中には、『第七の封印』(1957年)での中世の疫病を扱った物語、『鏡の中にある如く』(1961年)での家族の崩壊、そして最終的に『ペルソナ』(1966年)での個人の心理的崩壊を描いた作品が含まれます。

この対比は、両監督の特徴を鮮明に浮かび上がらせています。フェリーニが南ヨーロッパの活気に満ちた生活を描いたのに対し、ベルイマンは北ヨーロッパの厳粛な人間性の探求に重点を置いたことが強調されています。

両監督とも、それぞれの文化的背景や地域性を深く反映させながら、独自の視点で人間の本質に迫る作品を生み出しました。フェリーニの作品が南欧の陽気さや情熱を表現しているのに対し、ベルイマンの作品はより内省的で、北欧の厳しい気候や文化を反映した深い人間探求を特徴としています。この対照的なアプローチが、20世紀のヨーロッパ映画に豊かな多様性をもたらしたと言えるでしょう。

1. 入念な下準備
ベルイマンは実際に脚本を書き始める前に、徹底的な準備を重視しました。アイデア、イメージ、疑問をノートに書き留めることから始め、自由に思考を巡らせました。この段階は、物語と登場人物を深めるために極めて重要でした。

2. 厳格な日課
脚本執筆時、ベルイマンは厳しい日課を守りました。早起きして朝食を取り、執筆前に散歩をしました。1日の執筆量を決め、1940年代初頭から愛用していた黄色い罫線入りのパッドに書き込みました。一度に3時間以上は書かず、45分ごとに休憩を取って集中力の低下を防ぎました。

3. 書く行為への愛着
ベルイマンは物理的な執筆行為に大きな喜びを感じていました。手触りの良い太いボールペンにこだわり、機械やタイプライターの使用は執筆の楽しみを損なうと考え、避けていました。

4. 創作世界との遊び心ある交流
ベルイマンのノートには、しばしば彼が創造している架空の世界との遊び心のある対話が見られました。自己皮肉を込めて自分自身と会話したり、登場人物や物語と直接対話したりしました。この遊び心が彼の創作過程の重要な要素でした。

5. 技術的詳細の最小化
一般的な脚本とは異なり、ベルイマンの脚本にはセットやカメラアングルに関する技術的な指示がほとんどありませんでした。代わりに、登場人物の感情や内面の状態を詳細に描写することに力を注ぎました。このアプローチにより、彼の執筆に文学的な質を保つことができました。

6. 丁寧な推敲
ベルイマンは通常、脚本を3段階で仕上げました:最初の手書きの草稿、タイプ打ちした作業用脚本、そして最終的な撮影用脚本です。各段階で修正を加えましたが、言い回しやスタイルの変更は最小限に抑え、これは彼の作家主義的な映画製作アプローチの表れでした。

ベルイマンの規律ある触覚的な執筆方法と、想像の世界との遊び心のある交流を組み合わせたこのユニークなアプローチが、彼の脚本に文学的な質と哲学的な深みをもたらしました。その結果、世代を超えて多くの映画製作者や作家たちに影響を与え続けています。


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