見出し画像

「ネイチャーフォト」と「風景写真」の違いとは?

ネイチャーフォトと風景写真に違いがあると思いますか?それはどういった点でしょうか?

正解があるわけではありません。ここでは双方の単語使用例を統計調査して社会的な分布を図にしたり歴史を掘り起こしたりするわけではありません。これは全編にわたって僕の主張、または仮説ということになります。ただ写真コンテストなどでネイチャー部門とか○○な風景など募集していたり、そのままの名前の雑誌があったりしますよね。何かと気になるその違い。ここらでちょっと整理していきませんか?

というわけですが…え?ネイチャーは英語で…風景は日本語?

それな。

ネイチャーフォトを自然風景写真と訳して、風景写真と大雑把なイコールで結ぶことも、もしかしたらできるかも知れません。でもそんなにアバウトじゃない人がネイチャー部門のコンテスト審査員だった場合、ダム湖の風景写真を投稿し続けていると送料が無駄になるかも知れません。自然風景写真と風景写真は違うような気がします。そういう疑いがある。

まず双方に共通する「風景写真」については、基本となる言葉なのでこちらで定義させてください。僕は写真を被写体によって分類することを主張しています。大きく「人」、「物」、そしてその合計である「風景」です。

「人」には動物なんかも入ります。顔や行動が被写体になります。赤ちゃんはオギャーと生まれてまもなくママの顔を覚えるといいます。まず何よりも「人」の認識が原初にある。同時にお腹が空いてマンマがくる。「物」の登場です。「物」にはインスタ映えする食べ物もあれば人工物や自然物もある。それ自体行動はしませんが、僕たちの興味関心を惹くモノです。それが被写体になります。続いて成長に従い、全体の状況を引いて見れるようになる。3歳くらいになると部屋があるな、外があるな、と気づき始めます。「人」+「物」=「風景」というわけです。

この「人」、「物」、「風景」の分類はあくまで人の認知や行動の客観的な分類。科学です。なのでここでいう「風景写真」とは、ただ人と物の混在を被写体としている写真のことを指している、そのように理解していただくということになります。どんなレアな高度に完成された写真だろうが、ぶれぶれのヘタクソ写真だろうが関係ありません。ただそういう分類だ、というだけです。

それに対しての自然風景写真、ネイチャーフォトはちょっと選別があります。ただの風景には興味はありません。陸、海、空、その他の自然風景がいたら、あたしのところに来なさい。以上。というわけです。

なのでダム湖みたいな風景は、その選別から弾かれる可能性があります。要するに手つかずの自然に対する人の手が加わった人工、あるいは人や社会が対比される。先ほどの3分割を合計して、自然と人の2つに分ける。そしてその自然の方を外部の被写体としてそれをレンズのこちら側から覗き見る、それが純粋な「ネイチャーフォト」ということです。

このネイチャーフォトなのですが、さらにもう少しヒエラルキーというかピラミッド構造があります。というのも、ただ混沌とした自然、カオスの写真を良しとしているわけではないからです。そんなものは誰も見たくない。

外部であり、人の手が届いていないにも関わらず、そこに秩序があり、美しい。そういう一種転倒した状態を良しとするからです。その頂点の究極状態がなぜ実現されているか、それはそこに神が顕現しているからだということなのです。一神教でも多神教でも仏陀でもアフロディーテでもいいですが、とにかくそういうちゃんとしたロジックがある。

そうするとこのネイチャーフォトの被写体に関しては、できるだけ外部であり手つかずの自然でなければなりません。人の手が入っているできあいのものに秩序があるのは当たり前で興醒めだ、となるからです。それはそれでカルチャー写真枠となるのですが、バッキンガム宮殿のバラ園写真はネイチャーフォトではないということです。

ところがすると問題は、人の住む領域が拡大すればするほど手つかずの自然はどんどん遠くへ離れていくということです。距離的にも文化的も。たとえば日本で考えるとネイチャーフォトの被写体がどれだけ残っているでしょうか?北海道の一部か離島の辺りか?ただ離島といっても瀬戸内海だとジャニーズのTOKIOがDashしてたりお笑い芸人の千鳥がすくすく育ってたりする。

それは別に日本に限りません。産業革命が始まったイギリスは特に、また大方のヨーロッパも内情は似たり寄ったりです。特別に自然が保護されている地域以外ではそんな自然はあまり残っていない。最終的にネイチャーフォトは宇宙へ拡大していくようになるだろうということがいえます。

ですがどうでしょう?この手垢のついた、それも圧倒的に多くの自然と共に生きる僕たちとしては、このロジックに乗っかりつづけるのはあまり建設的ではないなという気持ちも否定できないと思うのです。

確かにそれで行けるところまでいくのはやぶさかではないけれども、人の手の入った里山の自然が当たり前に享受され、またそれすら消え去ってカオスとなった自然が残されはじめている日本で、ここにはVirgin Snowがないと言って不平をいっているのはどうかというのがあります。

それにそことは違う魅力があることをすっかり忘れてしまっているのではないか、というのもあります。ただの風景にも情趣を感じる。それが日本で言えば俳句であり浮世絵であり、日本を離れれば風景画であり写真であり、最近で言えば映画やアニメの背景でありインスタ映えであると。

そこで問われるのは情緒があるか、今風にいえばジーンとくるとか、カワイイとか、そういう個人のものさしに他ならない。

それが「ネイチャーフォト」に対する「風景写真」であり、「人」と「物」との合作によりできた景色を被写体にする、ということなのです。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
😋
1
写真と旅と物語と音楽を愛する現代アート作家。1980年生まれの氷河期世代。現代アート作品集兼プロジェクトベース『メテオロスケープ』(https://meteoroscape.com/ )を運営している。カフェイン中毒🍙
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。