Singularityの時代を生きる
Singularityという言葉がある。人間は機械を創りだしたが、その機械の能力が人間の能力を超える地点があるということである。やがて、パワーアームをつけた老人は若者より重たい荷物を持つことが出来、徒競走でも負けなくなる。その地点は、確実に近づきつつある。
技術的特異点(ぎじゅつてきとくいてん、Technological Singularity)Wiki
僕は「森を見る力」(晶文社 2014年)という本で、「テレビのお馬鹿タレント」について書いた。誰もが知っているような「常識」をまるで知らない若い女性タレントが、その無知さを個性として売れていたりする。そういうタレントを見て、僕が衝撃を受けたのは、その人たちの無知さではなく、もはや「常識」というものを知らなくても生きていける社会がやってきたということである。
人は、これから起こる困難な現実に備えて、勉強し、内部に知識を蓄積していく。「常識」とは、社会コミュニティに生きるために、個人として知っておかなければならない情報であり、教養とは、いますぐ役にたたなくても、何かあった時に、自分の内部に蓄積してある情報で対応出来る個人を形成するためのものであった。
しかし、Google先生の登場以降、自分の内部に知識を蓄積しなくても、何かあればその都度、外部にあるデータベースから情報を引き出せばよい。もしそれで大半のことが解決するのなら、わざわざ自分の内部に情報を蓄積する時間は無駄なものだと考えておかしくない。
本を読む少数の人たちはより熱心に本を読み、読まない人はまるで読まないという格差が広がりつつある。出版が衰退するわけである。本を読んで、自分の内部に情報を蓄積するより、Google先生に頼った方が効率的だと思うのだろう。電卓が普及して、算盤が衰退したのと、少し違うが本質は似ている。ちなみに、時々、起きる「大ベストセラー」というのは、本を読んでいる人たちが購入したものではなく、本を読まない多数派の人たちが購入するからベストセラーになるのである。
外部のデータベースと、人間内部との教養とは異質なものだ、という主張もあるだろう。しかし、それは「今のところ」というしかない。将棋やチェスの世界で話題になるように、すでに天才たちが苦難の修行をして極めた地点よりも先に行くコンピュータが現れている。これが「Singularity」の意味である。
佐野研二郎氏の問題で、僕が書こうとしたことは、そのことである。血の涙を流すような修行を重ねなくても、インターネットの情報を加工すれば、一流のデザイナーになれるという時代を迎えているのである。それは、夜討ち朝駆けの立ちんぼ取材をしなくても、ちょっとしたセンスがあれば、だれでもジャーナリストを名乗れる時代でもある。先輩政治家に雑巾がけから仕込まれて修行しなくても、情報とイメージで政治家にもなれてしまう時代でもある。これらは旧来型の社会ではありえなかった。情報の海の中で、器用に泳げたものが、時代の評価を得る。
今は、過度期である。インターネットがなかった時代と、インターネットがある時代の二つの時代を僕らは生きている。滑川海彦に教えてもらったが、福沢諭吉は江戸と明治の二つの異なる時代を生きて、二身を一身で生きたような感じだと言ったらしい。僕らは、まさに、封建時代と文明開化の両方の時代を、今。まさに生きているのである。過度期であるから、偽物も混じってくるのは仕方ない。
弁護士という職業は、IQの高い人しかなれない職業である。膨大な判例集と法律文書を自分の頭脳の中に確実に記憶させなければならないからだ。しかし、そういう作業こそが、コンピュータにとってかわられる。
弁護士とは犯罪容疑者の弁護をしたり、個人や法人の権利確保のために法律を駆使して依頼者の意志を代理するものである。当然、法律を熟知しなければならないが、世の中の矛盾に直接関わるわけだから、弁護士個人の人間力の豊かさが重要だと言われてきた。しかし、大学を出て社会の下積みもなく記憶力だけで弁護士という「先生」になってしまった人の中には、ずいぶんと横柄で、とても個人的には付き合えなという人も少なくない。(もちろん、人の良いのもいて、友人として付き合っている奴もいる)。六法全書の記憶と処理ははAIコンピュータに任せるとしたら、これからの弁護士の修行は、人間力を鍛えることだろう。
日本のオリンピック組織委員会が、訴えたベルギーのデザイナーと劇場に対して、強硬な抗議文を送ったが、何か、杓子定規な弁護士のアドバイスに匂いがする。栗田書店の債権者集会で一方的な言い分で押し通そうとした弁護士にも、違和感を持った。「戦う弁護士」は必要だが、それは何のために戦っているのかを考えることなく、相手の心象を想像することもなく、法律の建前論だけで押し通そうとする方法は、やがて、機械にとって代わられる。
弁護士あがりの政治家に、人間的な魅力を感じないのも、それが機械的な原則論だからだ。
Singularityの時代とは、人間が機械と競争する時代は終わるということである。機械にやれることは機械にやってもらえばよい。そして、人間は機械には出来ないことを「発見」するために存在していくのだと思う。
繰り返すが、現代は、過度期の時代であり、古い制度と新しい制度との端境期である。情報化社会とは「素人の時代」であるが、それは決して「セミプロの時代」ではない。中途半端な情報化の時代には、中途半端な生き方が賞賛されるのかも知れない。
僕は「右翼」「左翼」という切り方に意味があるとは思えない。常に「本物」と「偽物」がいるのだと、若い時から思っていた。そして、「本物」に憧れつづけてきた。あふれてくる偽物たちの中から、本当に信頼出来る本物を探していきたいと思う。
ここ一週間ほど、佐野さんについての論考を書いてきた。そのおかげで、僕のfacebookで、河北秀也さんや東泉一郎くんという、本物のデザイナーたちとつながった。河北さんは、営団地下鉄の地図をデザインした人で、イイチコのブランディングをやった人である。実は30年以上前に面識がある。東泉くんは、「STUDIO VOICE」のADからはじまり、多様なデザインワークをやってきた人だ。東泉くんは、僕の原稿を読んで申請してきてくれた。それだけでも原稿を書いた意味がある。
昨晩は、ケイクスの加藤貞顕くん、講談社・現代ビジネスの瀬尾傑さん、硬派経済ジャーナリストの磯山友幸さんらと、アナログとデジタルの両方をつなぐ出版関係者の会を作ろうという陰謀会議に参加した。デザインの世界でも、そういう動きがはじまればよいのにと思う。あらゆる領域ではじまればよいと思う。
Singularityは眼前に迫っている。人類の長年のノウハウを内在させた上で、これからの時代へのビジョンを持つことが、人間が人間として存在するための、唯一の理由になるだろう。時代は、人間にとって、間違いなく、空前絶後の面白い時代を迎えているのである。
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