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(新刊原稿候補)VR 思い出す時代

 テクノロジーの進歩は、新しい世界に私たちを誘う。それは間違いない。昔は、一生をかけても出会えなかった人と、ひょいと出会うことが出来る。遠路はるばる出かけて購入しなければ食べることが出来なかった食材や地域の名品も、ネットでポチるだけで、あっという間に自宅の食卓に並ぶ。たいしたもんだと思うよ。

 さて、それでは、こうした通信環境の発達の中で、人間のソフトウェアの部分、生き方とか、関係性とか、楽しい遊びとか、人生の満足度向上は、技術の進歩がやってくれるのか。やってくれはしない。技術はただ、人間の思いを実現するための手助けをしてくれるだけで、人間の思いの充実は、人間が追求しなければいけない。その追求をしないと、システムばかりが先行して、人間は取り残されて孤立する。

 では、「人間の思いの充実・進化」は、どうやってやればよいのか。それは、機械のシステムのように、直線的な進み方はしない。進んだと思ったら、いや違うんじゃないかと後戻りしたり、横道にずれたり、反省したり、落ち込んだり、また舞い上がったりして、個人の中で進んでいくものだ。

 テクノロジーの進歩は、未知なる未来に向けて直線的に進む。だから技術のロードマップは作りやすい。人間意識の進歩は、螺旋状にぐるぐると進む、と1984年に書いた。テクノロジーの進歩は、人類の発見した知識を重層的に積み上げていけばよい。人間意識の進歩は、むしろ、テクノロジーの進歩によって、消されたものを思い出すことなんだと思う。

 小学生の頃、家に、テレビがやってきた。この新しい機械は、子どもの心をわしずかみにして、それまで学校から帰ると、ランドセルを部屋に放り投げて、家の外に行き、集まってきた近所の子どもたちと、路地裏遊びをしていた。缶けり、だるまさんが転んだ、インディアンと幌馬車、下駄隠し、ビー玉、ベーゴマ……年長者のガキ大将が仕入れてくる路地裏遊びに子どもたちは夢中だった。しかし、テレビというテクノロジーが、子どもたちの路地裏コミュニティを奪った。それだけ、テレビは、魅力的すぎる道具だったのである。

 テレビは、やがてカラーになり、ビデオになり、Netflixになった。僕たちが、ここで必要なことは何か。テクノロジーの進歩に合わせて、自分の生活や意識を調整するのではなく、こうしたテクノロジーの発達の果で、もういちど、自分が忘れてしまっていた「喜び」を思い出すことではないか。

 Oculus2が登場して、一気に、VRの世界が現実のものとなった。来年は、更に、このシーンが劇的に拡大するだろう。VRチャットをやってみて、「ああ、ここは、何か生産的なことをする場所ではない。僕らが忘れていて、都市が潰した、あの、路地裏や原っぱなのだ」と思った。テクロジーが整備する新しい都市文明の中で、僕らは「路地裏」を思い出したのかも知れない。

 さっそくここでは、職場や家庭に、ランドセルを放り投げて集まってきた人たちが、なんの生産性もない、遊びにほうけている。そうなんだ、忘れていたことは、「なんの社会的意味もないことが、一番、楽しい。友達と、同じ時間を共有することが一番、充実している」ということを、思い出している。

 そして、ここからなんだ。この路地裏から、路地裏を潰した都市計画ではない、路地裏が主役の、新しい都市建設に、僕らは、わんぱくたちの意識を集めて、陰謀会議を企むのであった。

 完成度の高い事業計画なんて、それを作った段階で負けてるよ。計画に従わされるだけの仕事なんてまっぴらだ。みんなの直感と好奇心だけに頼って、わいわいがやがやとした未来へ進もう。

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