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さようなら、橘川榮一。

 父・橘川榮一が11月18日午前5時5分に亡くなりました。93歳です。墨田工業高校を卒業して戦地に行き、戦闘機・屠龍の通信兵でした。戦後は闇市でさまざまなものを販売していた時に、戦地での上官に出会い、その人の紹介で印刷会社・黎明社に入社し、印刷技術を覚え、その後、独立して、小さな印刷会社を経営します。戦後社会の動乱期に、バブルと不況の時代の波に翻弄され、関係した会社は7回倒産しました。最初の倒産は、僕が中学生の時で、やくざが家に押しかけ、僕は押入れに隠れていると、やくざの怒鳴り声がして、「金を返せないなら指つめろ」と言ってました。そして、その指が一本20万円か30万円かで、親父は交渉していました。幸い、指はつめないで済みましたが。バブルの時は、しょっちゅう、豪華な寿司をお土産に持って帰ってくるのが楽しみでした。

 親父との思い出は、たくさんあります。短気で、わがままで、せっかちで、人が好きで、すぐ調子にのって、記憶力が良くて、頭の回転が早くて、お節介で、なにがあっても楽天的で、変な親父が大好きでした。子どもの頃、僕は親父に怒られた記憶がありません。何があっても、いつも笑って見ていてくれた気がします。そんな親父は、もういません。

 死因は、COPD(慢性閉塞性肺疾患)ということで、いわゆる「タバコ病」です。タバコと酒が大好きで、僕が高校生の時に、神保町のパチンコ屋で景品にタバコの「いこい」を取ってくると、親父が買ってくれました。15年くらい前に最初のガンであった「大腸がん」になり、他の臓器にも移転して、タバコをやめろと言われてましたが、夜中に散歩に出ると言って、タバコを吸ってました。酒にまつわる事件はたくさんありますが、病気が酒を飲めない体にしてしまいましたが、タバコだけは、いくら肺が苦しくても欲しがっていました。ガンの方は、全部、治ってしまったようです。

 印刷屋でしたので、僕が、学生時代にロッキングオンの創刊を渋谷陽一と企画した時に相談しました。70年代の半ばまで、親父がロッキングオンの印刷進行をしていました。この辺のことは、来年、刊行予定の「ロッキングオンの時代」という単行本に書くつもりです。僕の関係で、70年代のサブカルチャーの雑誌も、いつくか印刷で手伝っています。「よいこの歌謡曲」や「東京大人倶楽部」など。

 下町の工業高校出身で、印刷業界にいたので、機械が好きで、ワープロもデジカメもiPadも使っていました。85歳で、パソコン教室に通いましたが、これはさすがに挫折しました。ケアハウスでは、お年寄りたちの写真を撮って、プリントして配っていました。ゲームは「上海」にずっとはまっていて、毎朝、上海をやって、うまくクリアすると「今日はついてるぞ」と占いのように遊んでいました。寝たきりになってからは、iPadで、YouTubeの軍歌や昭和歌謡ばかり聞いていました。

 70代後半は、お台場の都営団地に住んでいたのですが、お台場地区の町会を作り初代会長でした。「お台場通信」というミニコミを作り、2000世帯のポストに、自分で配達していました。その辺の活動で、内閣府の「生き方名人」に認定されました。

 親父のことを語りだすと、いろんなエピソードがありすぎて、とまらなくなります。社会的には失敗続きでダメな親父でしたが、親子でなくても、出会えれば大好きになったと思います。親父は、近所の公園のホームレスとも友達になろうとする人でした。人が大好きだったのです。

 母親が亡くなり、親父の部屋に行くと、壁中に、母親の写真が貼ってありました。母親の介護は、親父がやっていました。自分も動けなくなり、ケアハウスで衰弱してしまったので、僕の家で引取りました。うちのカミさんの料理が大好きで、「ケアハウスの食事は弁当屋の食事、幸夫のところの食事は料亭の味」と言ってました。幸い、ボケることもなく、天命をまっとうしました。体が動かなくなり、僕が「頑張って治せよ」と言ったら「治っても、仕事出来ないしな」と寂しそうに言いました。仕事をすること、社会と関わることが大好きだったのです。

 親父との最後の会話は、病院のベッドで、親父は僕に指でお金のサインを示して、「すまんな、金を使わせて」と言いました。最後まで、人のことを気遣う人でした。

 病院から危篤の知らせがあり、昨日は、僕が病院に泊まりました。朝の4時ごろ、心拍数が弱まり、身元で「親父さん!」と呼ぶと、少し元に戻り、でもまた弱まっていきました。親父の右目に、なぜか涙が一滴出ていました。悲しい涙なのか、嬉しい涙なのか分かりません。そういうものを超越した涙なのかも知れません。お袋が待ってるから、僕もやがて行くから、また賑やかな家族になろうな。ありがとう、おとうちゃん。

 人間が成長するというのは、大好きな人と出会うことだと思います。そして、人が老いるとは、大好きな人と別れていくことなのかもしれません。それでも、僕は、僕の記憶の中で、大好きな親父と、これからも何度でも何度でも、おしゃべりしていこうと思います。親父とお付き合いしてくれた皆さん、ありがとうございました。

追伸

 なお、葬儀につきましては、家族・親戚だけでとりおこないますので、勝手ながら、香典、弔問などはご遠慮させていただきます。ドタバタしていますので、お問い合わせなども控えてください。申し訳ございませんが、ご了承ください。

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▼いつもタバコを持っていた。

葬儀挨拶

遺族を代表いたしまして、皆さまにひとことご挨拶を申し上げます。
私は、故人橘川栄一の長男幸夫でございます。

本日は、ご多用にもかかわらず、ご会葬を賜り誠にありがとうございました。

父は、人に使われることの嫌いな自由人でした。新しもの好きで、発想力に富み、おっちょこちょいで、レストランなどで、注文がなかなか来ないと、「もう出よう」というような、せっかちでもありました。それでも、多くの人を愛し、多くの人に愛された人生だったと思います。

死因は、COPD(慢性閉塞性肺疾患)です。いわゆる「たばこ病」と呼ばれていて、ヘビースモカーが多く発症すると言われています。植木等や、和田アキ子が、なりました。父は、苦しくても、なかなかタバコをやめられませんでした。70年近く吸ってきたので、これがないと頭がおかしくなる、と言ってました。それでも、93歳まで生きたのですから、大往生だと思います。

父に対して寄せられました皆さまのご厚情に、心よりお礼を申し上げます。
本日は、ありがとうございました。


日記より。

昨日、92歳の父親のところに、おはぎを持って行った。品川のケアハウスに住んでいる。ワープロが得意で、ここに来る前に住んでたお台場では、「お台場通信」なるメディアを発行していて、2000世帯の全戸に一人で配っていた。初代の自治会長でもあった。

ワープロで橘川家の家系図なんぞを作っていた。ネットはパソコンでやっているが、「幸夫、こないだの出版パーティ、盛大だったようだな」と言われた。そんな父も、最近は歩くこともままならず、ずっと部屋にいる。動くと息苦しくなるようだ。一度やめたはずのタバコを吸っている。タバコをやめると、頭が痛くなってくると言う。「タバコを吸うと、思っいっきり息を吸うから、呼吸器の運動になるらしい」と、変な理屈。

5年前に母親を亡くした。葬儀の後、しばらくして父親の部屋に行くと、壁中に、母親の写真がはってあった。それはなくなったが、一枚のビラのようなものがはってあった。どうやら、母親が亡くなった時に、ワープロで作って、ケアハウスの住人に配ったようだ。親父らしい文章である。

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