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ジェノベーゼ

30年以上も昔の話。
ハタチそこそこの世間知らずな娘だった私は、
のんびりとした春の日、阪急沿線の或る町にいた。
園田だったかもしれない。
駅から少し歩いたところにある喫茶店で仲間と集まっていた。

JR…当時で言う国鉄沿線の片田舎に住んでいた私には、阪急沿線の街並みはどこもかしこも洗練された特別な佇まいに見えた。
その小さな喫茶店もレンガ造りの入り口がお洒落で隠れ家的な気の利いた雰囲気ある空間だった。私がデートでいつも行く大阪の天王寺の喫茶店に充満している雑多な空気とは大違い。

何人で集まったのかも、今となってははっきり覚えていない。
しかし、そこへ初めて見る顔の男性がいたのは印象に強く残っている。

あきちゃんが
「〇〇の××さんよ!」と得意げに紹介してくれたが、私は彼をよく知らなかった。
あきちゃんと彼は親し気だったので、もしかしたら付き合っていたのかもしれない。
あるいは、あきちゃんが彼に憧れていたのか。

紹介されても彼は短く挨拶しただけで、ほとんど何も喋らなかった。
そして黙々と食べていた。

緑色の不思議なスパゲティーを、その時初めて見た。
それまで喫茶店で出てくるスパゲティーと言えばミートソースとナポリタンしか知らなかった。
カルボナーラやボンゴレは専門店のメニューだ。

「それは何?」と聞くと、彼の代わりにあきちゃんが
「ジェノベーゼやんか。なあ?」と答えた。

初めて聞く単語の音感のお洒落度の高さに、さすが阪急沿線…!と改めて感じ入る。

ジェノベーゼ。
そのよくわからないメニューの、よくわからない名前。
…ベーゼ。とても大人な感じでセクシーささえ漂う。
その印象は、そのまま彼のイメージとなって胸に残った。

「おいしいの?」
とてもじゃないけど全く美味しそうには見えない緑色のスパゲティーを食べ続ける彼に尋ねると、
フォークを離さないまま、目を合わせることもなく小さくうなづいた。
「ここに来たら、いつもこれやんか。なあ?」
あきちゃんが言う。そんなに毎回、食べたくなるならきっと美味しいのだろう。
きついニンニクの香りを嗅ぎながら表情のない彼のクールな顔を眺めていた。

それから何年経っても、ジェノベーゼをメニューに書いてある店へ行く機会がなかった。
あの緑色の正体はバジルなのだと知っても、なぜだか敢えて食べてみる気にもならなかった。
数年前、一緒にランチへ行った友人がジェノベーゼを頼み、この想い出がふと頭に浮かんだ。
少し分けてもらって食べてみると…
…はあ、なるほど。ふーん…。
さほど唸るほども美味しくはなかった。ましてや、毎回食べたくなるほどの代物でもない。

「このジェノベーゼ、もうひとつやわ。」
と友人も言っていたので、そのパスタ屋がハズレだったのか。
もっと美味しい病みつきになるジェノベーゼがあるのかもしれない。が、私はまだ巡り合わない。

それでも、ジェノベーゼはその名ゆえになんとなく特別な、気取ったパスタなのだ。永遠に。


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