すみれの追憶
玲奈と陽奈
そのカフェは表通りを西に一本入った公園の隣にあった。懐かしい木製の扉とベンチは、ちょっと一息入れたい人を誘う。ベンチのコーナーは、わんこ連れOKなので、散歩途中の人たちがコーヒーを飲みながら、それぞれの犬自慢をしていく。公園との境の日当たりの良い通路には、ニオイスミレが群生していて、晩夏から春にかけて甘い香りを漂わせている。カフェの名は“Sweet Violet"、つまり「ニオイスミレ」である。
カフェの店主は玲奈。もうすぐ50歳になる。前の結婚で、娘を一人儲けた。その陽奈も小学校6年生になった。前夫との離婚の際の慰謝料で、10年前に自宅の前庭にカフェを増築した。陽奈は手のかからないおとなしい子だったので、保育園や幼稚園には通わず、小学校に上がるまでほとんどカフェで大きくなった。読み書き、計算、ピアノの演奏、英会話…何でも母である玲奈が教えた。
陽奈の父親が画家だった影響からか、画用紙とクレパスを置いておけば、陽奈は一日中でも一人で絵を描いて遊んでいた。動物と花の絵が多かったが、3歳の頃から「パパ」の絵をかなり正確に描けるのには玲奈も驚いた。まあ、面長な輪郭に切長の目、それにメガネを描いて髭をつければできあがりの平凡な顔ではある。陽奈は父親似だ。
玲奈は、どちらかというとエキゾチックな顔立ちである。彼女は娘に「陽奈の父方の先祖は朝鮮半島から日本海を渡って来た。母方の先祖は、南方から種子島、九州、本州と北上して来たんだよ。」と言っていた。陽奈は、「賢い母の言うことだから、本当なんだろう」と思っている。
母娘二人の暮らしは慎ましくはあるが、前夫からの養育費とカフェの売り上げとで不自由はしていない。今のところ中学校卒業までは大丈夫そうだ。しっかり者の陽奈は、カフェの掃除を手伝って小遣いをもらい、柴犬を飼いたいと言い出した。月一回会っている父親が、中学校進学のお祝いに犬をプレゼントしてくれるらしい。散歩も餌やりもワクチンも薬も、全部陽奈が面倒を見ると言う(結局は、散歩以外は店の売り上げから出るのではある)。
それで、柴犬の太郎は、秋のスミレの咲く頃にやってきた。生後2ヶ月の可愛い子犬だった。最初の頃は陽奈のクラスメートが学校帰りに寄って、一緒に散歩に行ったりしていたが、それぞれ中学校進学に向けて忙しくなったのか、陽奈一人と太郎が取り残された。「いいんだもん。友達がたくさん来ると、ママに気を使わせちゃうから、ねえ、太郎。パパがいなくても、ママとふたり楽しくやってるもん。」と、陽奈は言った。彼女はそうやって状況の変化にうまく折り合いをつけられる子どもだった。
口数の少ない店主と無口な客
圭介は近くで室内装飾業を営む、アパート住まいの40歳で独身だ。結婚経験はない。建設会社から壁紙を貼る仕事を依頼されたのがきっかけで、カフェSweet Violetを知るようになった。工事中にオーナーの玲奈が淹れてくれたブラジル系のコーヒーが気に入って、完成後も通うようになった。
仕事帰りに閉店間際のSweet Violetに寄って、黙ってコーヒーを飲んでいく。時に、玲奈が残り物のケーキを出してくれることもある。「よかったら、これ食べてって。あんまり甘くないから。」「すみません。いただきます。」…彼女の焼くケーキは、りんごやさつまいもが入っていて、それ自体は甘味が抑えてあるが、シナモンシュガーがかけてあり、圭介にはどこか懐かしい味がした。
玲奈は必要なこと以外は訊かない。元々無口な職人肌の圭介も余計なことは喋らない。何となく閉店間際の静かな時間を二人で共有するようになった。たまたま散歩のすんだ陽奈と太郎が加わると賑やかになる。内気な圭介も子どもと犬は好きだった。
ある時、血相を変えた陽奈が太郎を抱えて飛び込んできた。彼女が仕事中の母にではなく、客の圭介に涙ながらに訴えるのには、公園で中学生の男の子に絡まれた彼女を守ろうとした太郎が蹴られて、ぐったりしていると言うのだ。
「それは大変だ。警察には後でもいいから、僕の知ってる獣医さんに連れてってあげようか?」
「そんな…タクシーを呼びますから。」と言う玲奈を制して、圭介は仕事用のバンの助手席に陽奈と太郎を乗せた。確かに太郎はぐったりしていたが、鼻先に触ると冷たくて湿っているので、死にはしないだろうと、圭介は自分に言い聞かせてハンドルを握っていた。
そのペットクリニックも、以前の仕事先だった。事情を聞いた獣医は、顔を顰めながら、太郎の体を触り、骨折はしていないようだが、念の為にCTを撮るという。
圭介は待合室の長椅子に座りながら、涙の止まらない陽奈の頭を撫でていた。遥か昔にもこんなことがあったような気がした。「子どもって、えっ、えって泣くんだよな。」…彼がそれを知ったのはいつのことだったのだろう?彼には子供の頃の思い出がほとんどない。幾重にもベールが掛けられているように、それは心の奥に封じ込められていた。
検査の結果、太郎はショックを受けてはいるが、怪我はしていないということがわかった。
「今日はご飯をあげずに、水だけで様子を見るように。ただ、夜中に大量の水を飲んで、吐くようなことがあれば、遠慮なく電話して連れてきてね。」
「うちには、車がありません。どうしたらいいですか?」
「そこのおじさんは、お父さんじゃないのかい?」
「はい、母のカフェのお客さんです。」
「では、その時には彼に頼むしかなさそうだね。」
陽奈は、そうなることを最初から計算していたのだろうか?そんなことに気づくはずもない圭介は、気前よく診察代も払った。太郎の面倒は、陽奈が自分の小遣いで見ていると聞いていたからだ。Sweet Violetに戻って、太郎を玲奈に引き渡した彼は、その夜は眠れそうにもなかった。しかし、太郎のおかげで、圭介は玲奈と連絡先を交換することになった。
釣瓶落としと散歩エスコート
幸い、翌朝には太郎は元気になった。交番には玲奈がよく知っている巡査がいて、事情を話すと、夕方の公園の見回りを強化してくれることになった(動物虐待は立派な犯罪だ)。しかし、「釣瓶落とし」と言われる冬の夕暮れは、本当にストンと陽が落ちる。太郎が成犬になるまでは、仕事帰りの圭介が散歩に付き合うことになった。その代わり、玲奈は彼にも夕食を作ってくれた。陽奈が遠慮する彼の手を引いて奥の自宅の居間に案内した。「圭介おじさんは太郎の命の恩人」なんだそうだ。
「そんなつもりじゃなかったんですよ。気を遣わないでください。」
「二人分も三人分も手間は一緒ですから。それにお昼はコンビニ弁当で、夜はファミレスじゃあ、お体によくないですよ。」
確かに最近、圭介は血圧が高くなっていて、医者にも塩分を摂りすぎないように注意されていた。玲奈の作る料理は出汁が効いていて、薄味でも美味い。しかし、陽奈は唐揚げが大好物で、玲奈は週に一回は作った。盛り皿の熱々の唐揚げを、圭介と陽奈が競って食べた。
「圭介おじさん、マヨネーズいる?」
「美味しそうだけど、遠慮しとくよ。」
「うん、成人病が怖いから、おじさんはやめといた方がいいかも。」
二人のやりとりを聞いた玲奈は笑いながら、小皿にポン酢と芥子を入れてくれた。たっぷりのキャベツの千切りにもポン酢が合う。揚げ物の後は、必ず濃い烏龍茶が出された。玲奈の作る味噌汁は、昆布といりこで出汁を取り、米麹の効いた甘めの大豆の味噌を使う。西日本の出身だという玲奈の味噌汁は、圭介の記憶のベールをもう一枚取り去った。「確かに、昔、こんな味噌汁を飲んだことがある。」
人の味覚は、思春期に発達する。その時に味わった食べ物は、その頃の思い出と共に、記憶の深いところに収まっているものだ。実は、圭介も西日本出身だった。
年末年始の家族ごっこ
カフェSweet Violetは、日曜日と祝日はお休みだ。玲奈は陽奈と買い物に行ったり、ピアノを弾いたりして過ごす。「お料理教室」と称して、一緒にカレーやシチュウを作ったりもする。玲奈は相手が子どもだからといって、容赦はせず、玉ねぎをみじん切りにして、炒めるところから始める。市販のルーは一切使わない。「思春期に本物の味を覚えておけば、一生本物の料理が作れる」というのが彼女の持論だ。彼女は自分の両親について多くを語らないが、父親は一流の料理人だったらしい。
圭介は、それまで9時には必ず帰るようにしていたが、大晦日には、年末のテレビの歌番組を一緒に見ようと陽奈に誘われ、夜中まで一緒に過ごした。鰹出汁の効いた美味い手打ちそばを食べたあと、「泊まってけばいいのに」という陽奈に、「おじさんは12時になるとモンスターに変身するんだ。」と言って、無理やり外に出た。道路にはうっすら雪が積もっていた。彼は白い息を吐きながら、アパートの前までたどり着いた。どこかの寺で除夜の鐘を鳴らしている。振り返ってみると、雪の上に残る自分の足跡が、カフェSweet Violetの方向を示していた。
あの玲奈と陽奈のいる居間の暖かさから一転、一人暮らしのアパートの部屋の凍りつくような寒気は、「ああ、自分は孤独なんだ」としみじみ彼に思わせた。この時期はアパートの他の住人も里帰りをしているのか、建物全体が暗くて、余計に冷え冷えしている。
一夜明けて年が変わり、元日の昼には、雑煮のお誘いがあった。どうやら、玲奈と陽奈は餅つきをしていたらしい。「29日はお餅をついちゃあだめなんんだよ。『苦餅(くもち)』になるんだって。」と言う陽奈の言葉に、圭介はそれをどこかで聞いたことがある気がした。東京ではない、もっと西の方で。
玲奈の作る雑煮は豪勢だ。天然鰤の塩焼き、手作りの伊達巻き、紅白の蒲鉾、飾り切りをした人参と大根、色鮮やかなほうれん草に松葉に切ったゆずの皮が添えてある。陽奈も丸めた不揃いの餅は焼いてある。そのほうが喉に引っかからず、子どもには食べやすい。何年も雑煮を食べたことがなかった圭介は、あまりの美味さに餅を5個もお代わりしてしまった。しかし、この雑煮の味も確かにどこかで味わったことがあった。
「お雑煮のお礼に、明日はおじさんがご馳走するから、どこかに食べに行かないかい?」と圭介が言うと、陽奈は、ファミレスに行きたいと言う。確かに正月はファミレスぐらいしか開いていない。こうして、三人揃って初めて外食することになった。
料理が運ばれてくる間に、陽奈が言った。
「パパにね、お正月は京都のおじいちゃんやおばあちゃんのところで過ごさないかって、言われたの。もちろん、あっちの奥さんと一緒にだけど。」
「なんで行かなかったの?あっちの奥さんとも陽奈は仲良しじゃない。」
「だって、圭介おじさんとママの二人だけだと会話も続かないし、めっちゃ困ってるふたりの姿が想像できちゃったの。」
「わはは、その光景が本当に目に浮かぶようだわね(この子はこうやって、自分と圭介の間に入って気を使っていたのだ。と言うことは、陽奈は圭介おじさんに新しいパパになって欲しいのかな?と玲奈は初めて気づいた)。」幸い圭介の方は、まだ何も意識していないようだ。玲奈はつくづく圭介のことを不思議な人だと思った。自分もかなり変人だが、彼はそれ以上かもしれない。悪い人でないのは確かだ。それに陽奈の父親のような陰険さはない。京都人の特徴かもしれないが、彼の話すときの口調は穏やかだが、言葉はぐさっと刺さった。さらに芸術家独特の繊細さは、やっと授かった陽奈の存在を疎んだ。父親としての責任は果たしたいというが、優しさや愛情のようなものはあまり感じられない。ただ、お金と物を与えるだけだ(彼は画廊を経営している)。
圭介は、無口で何を考えているのかわからないところはあるが、少年のように素直なところがある。子どもや動物も好きなようだ。壁紙を選ぶセンスも悪くない。カフェは望み通りのアールヌーボー風に仕上がった。モリスのパターンと無地の壁紙のバランスがとてもクールだ。ちゃっちゃと糊のついた壁紙を貼っていく手際もなかなかのものだ(プロなんだから当たり前だが)。子犬の太郎が剥がした廊下や居間の壁紙も、いつの間にか張り替えてある。「せめて壁紙代を」と言う玲奈に、圭介は「壁紙は他の現場の残り物だから」と代金は受け取らない。しかし、夫として、父親としての立場を彼は受け入れるだろうか? ただ、玲奈にわかっていることは、自分は嫌いな人とはご飯は食べないということ。
圭介のトラウマ
ストレートな玲奈に比べて、圭介の感情はかなり複雑だ。今まで、仕事関係で数人の女性から個人的に電話番号を渡されたことがあるが、どうしてそこに電話しないといけないのか理由が見つからず、ゴミ箱に捨ててしまった。恋愛どころか、結婚する気もさらさらなかった。なぜか、自分は幸せを望んではいけないと思っていた。
それには、彼の少年時代の悲しい経験があった。彼は中学生の頃に、小学生の妹を亡くしていた。西日本の山間の集落に住んでいた彼の家族は、貧しくてもとても仲がよく、幼い頃には幸せな思い出もたくさんあったはずだ。しかし、彼の妹は中学の入学式を間近にした早春に風邪を引き、喘息の発作を起こして、呆気なく死んでしまった。愛娘を亡くした両親の嘆きは深く大きく、兄である圭介は自分の無力さに打ちひしがれ、妹の代わりに自分が死ねばよかったと思った。そのことを父親に言うと、頭に父の拳骨が入った。それ以来、彼は父とは口を聞かず、高校も全寮制を選んで、地元を離れた。
その高校は体育会系の部活動をする生徒のために、年末年始も夏休みも寮は開いていた。圭介は美術部で試合も練習もなかったが、休みの間も寮に残って、皿洗いや掃除を手伝って、寮母にたいそう気に入られていた。母が季節ごとに服や食べ物の差し入れを持って来て、泣きながら家に帰るよう勧めたが、彼にとって妹の死と父の拳骨は越えられないハードルになってしまった。
高校を卒業した彼は、東京に出て、新聞販売店に住み込みで働き、専門学校の入学金と授業料を貯めた。そして、新聞配達をしながら、建築系の専門学校でインテリアと室内装飾を学んだ。美術的センスのある彼は、デパートのインテリア部門に就職し、15年間デパートの改装の仕事をした。そこから、建設会社の下請けとして独立したところだった。無口だが手早く丁寧に仕事をする彼は、どこの現場でも、「壁紙貼りの鉄人」と呼ばれて重宝がられた。自分の仕事が終われば、片付けや掃除も手伝う勤勉に働く男だった。
早春のスミレの咲く頃
都会の街並みにも春の息吹きが感じられるようになり、太郎もずいぶん大きくなった。雨の日も風の日も圭介は陽奈と太郎の夕方の散歩に付き添った。
「タロちゃん、人間で言うといくつぐらいかな?」
「ワクチンした時、獣医さんに聞いたら、ちょうど私と同じぐらいだって。」
「タロちゃんも、もうすぐ中学生か…黒の学ランが似合いそうだね。」
「この辺は、ネイビーのブレザーだけど、おじさんは学ランで中学校に通ってた?」
「どうだったっけな?そうだったんじゃないかと思うけど、おじさんは自分の子供の頃のことがよく思い出せないんだ。」
「おじさんは記憶喪失なの?」
心配そうに圭介の顔を覗き込む陽奈に、彼は返す言葉を見失っていた。昔のことを思い出せないのではなく、思い出したくないだけなのかもしれない。
小学校の卒業式を間近に控えて、陽奈のクラスにインフルエンザが流行した。仲の良い友達が熱を出して学校を休んだ翌日に、陽奈も高熱に襲われた。咳もひどく、震えが止まらない。玲奈は圭介に電話して、太郎の散歩を朝も頼めないかと訊いた。太郎のような犬種は元々室内犬ではないので、外でしか用を足さない。圭介は二つ返事で、朝と夕方の散歩を受け合った。
陽奈の看病の合間に、玲奈はカフェのキッチンで圭介の朝食と弁当を作ってくれた。圭介は夕食もカフェで食べたが、陽奈のことが心配でご飯が喉を通らなかった。
「圭介さんまで病気になられたら、私は途方に暮れてしまいます。どうか、無理にでも食べてください。」と言う玲奈のマスク越しの真剣な眼差しに圭介は圧倒され、「これは母の強さだ」と思った。
陽奈の熱が下がり、面会できるようになった日に、アイスクリームと苺を買ってきた圭介は、「あーん」と口を開けてねだる陽奈にスプーンでアイスクリームを食べさせながら、不覚にも涙を堪えられなかった。
「陽奈がしんどかったのに、どうしておじさんが泣くの?」
「陽奈ちゃんが生きててくれてよかったと思って…。」
「大袈裟だよ。でも、心配してくれてありがとう。太郎の散歩もありがとうございました。」
これで陽奈は中学生になれる。そこにかけてある紺のブレザーを着て、あの校門をくぐることができるんだ。俺の妹にはそれができなかった。制服もカバンも教科書も全部揃えてあったのに、それを使う人がいなくなったあの虚しさ、悲しさ…あんな思いはもう二度と味わいたくない。
「おじさんの妹は、陽奈ちゃんと同じ年で死んだんだ。広島の県北の田舎町のことでね。妹は中学校に入る直前に風邪を引いてね、喘息があったから息ができなくなってね、近くに病院がなかったから、近所の人に車を出してもらって、お医者さんに診てもらった時には、もう唇が青黒くなっててね…。」
「それはかわいそうだったね。陽奈も息が苦しくて、死んじゃうかも、って思ったから、おじさんの妹さんの苦しさがわかるよ。そのまま死んじゃうなんてかわいそうすぎるよ。」
陽奈も側にいた玲奈も圭介と一緒に泣いていた。陽奈はベッドから身を乗り出して、圭介の首を抱いて、背中を軽く叩きながら囁いた。「よしよし、私が妹さんの代わりになってあげるから、もう泣かないでいいよ。」
「なんという優しさだろう。この娘の同情心は、この母親譲りに違いない。」二人の暖かさのおかげで心のベールが溶けてなくなった圭介はこの時、この二人と家族になりたいと心底思った。
無事、小学校の卒業式を終えた陽奈は、お祝いにドライブをせがんだ。行き先は広島県北部だ。うろ覚えの電話番号にかけてみると、圭介の両親はまだ健在だった。お互いに泣いて言葉にならなかった。父親とは25年ぶりの再会になる。
仕事も暇だったので、バンから仕事道具を下ろして、布団や服、水や非常食などを詰め込んで、圭介は二人と太郎を乗せ、西に向かった。
「おじさん、私たちのことを広島のおじいさんやおばあさんにどう紹介するの?」
「近い将来の嫁さんとその娘かな? 玲奈さんはそれでいい?」
「いいですよ。プロポーズはまだのような気がしますけど。」
「ああ、そうでした。では、僕の嫁さんになってくださいますか?」
「はい、年上女房ですが、よろしくお願いします。」
「ヒュー、ヒュー!(ワオーン!)」
太郎はこの頃、口笛に合わせて遠吠えするようになっていた。
玲奈の故郷
高速道路のサービスエリアで休憩しながら、丸一日かけて、広島県北部の山間の町までバンは走った。途中の桜吹雪は彼らの家族としての新しい出発を祝ってくれているかのようだった。
山陽道の岡山辺りを走っている時、玲奈がつぶやいた。
「さすが、『晴れの国岡山』ね。」
「ママ、どうして知ってるの?」
「うん。ママはここで生まれたんだ。」
「え〜?陽奈は生まれてこの方、それを知らなかったよ。」
「圭介さんと一緒でね。いい思い出がなかったからね。」
玲奈の父親は、岡山の一流ホテルの日本料理の料理長だった。玲奈が東京の芸大を卒業した年に独立し、倉敷市に懐石料理の料亭を構えた。しかし、金融危機が起きた年に、経営に行き詰まり、彼は多額の借金を抱えた。誰にも助けを求められず、逃げ場を失った彼は自死を選んだ。玲奈の母は、悲しみを堪えてその後始末に当たったが、その過労がもとで、夫の後を追うように亡くなってしまった。
その当時、玲奈は陽奈の父親と結婚していて、彼の画廊のカフェで働いていた。母を助けたくても、画廊の経営も困難な時期で、気難しい夫は帰省を許さず、母の死に立ち会うこともできなかった。しかしその後、陽奈を授かり、育児の忙しさで悲しみを紛らわせていった。
「おじいちゃんもおばあちゃんもかわいそうだったね。二人のお墓って、どこにあるの?」
「お父さんの遺言でね、お墓は作らなかったの。ママが一人娘で、後のことが大変だと思ったんじゃないかな?」
「ふーん、それも親の愛?」
「違うわよ!バカなことを言うんじゃないわ。私はね、借金まみれでもなんでも、お父さんに生きていてほしかった。あれは、ただの『ええ格好しい』!そのおかげで、お母さんまで命を縮めてしまった。」
二人の会話を黙って聞いていた圭介は、涙で視界が霞んできたので、広島県の福山のサービスエリアで休憩することにした。そこには小さなバラ園があり、バラフレーバーのピンクのソフトクリームがある。せめてもの慰めに、圭介は二人に薔薇のソフトクリームを買った。自分にはバニラのを買って、太郎と一緒に食べた。
すみれと陽奈
尾道から松江道に入った。圭介が子供の頃には、この道はなかった。この高速道路があれば、喘息の患者も命を落とさなくてもすむんじゃないかと思いながら、圭介はひたすら北上を続けた。圭介の故郷は、広島県と島根県の境にあった。松江道を三次で降りて、しばらく山道を行くと、小さな集落が見えてきた。
「ここは僕の子供の頃とあんまり変わっていない気がするよ。いまだにコンビニすら見当たらない。」
「陽奈、田舎も好きかも。山の桜がほんわかしてていいね。あれは、誰かが植えたの?」
「山の鳥さんが種を運んだんだよ。ソメイヨシノはお江戸の植木職人が挿し木で増やしたものらしいけどね(賢い母の登場である)。」
「ふーん、どっちもすごいね!」
バンは、一軒の古びた家の前に止まった。車を降りた彼らを迎えたのは、玄関に向かう小径の両側に溢れるばかりに咲いている薄紫色のニオイスミレとその甘い香り、そして白髪になった小柄な圭介の両親だった。
口を手で覆って涙に暮れる圭介の母に向かって真っ直ぐに走っていく陽奈。ゆっくりと距離を縮めながら歩み寄る父と息子。驚いたことに、父は25年ぶりに再会した息子を抱きしめたのだ。太郎のリードを持ちながら、彼らを見守っていた玲奈は、「25年前にそうしていれば、二人は離れ離れになることはなかったのに」と思った。
その夜は、年金暮らしの両親が奮発して買った地元の特産の牛肉をしゃぶしゃぶにして頂いた。白菜やねぎ、春菊は無農薬で畑で作っている。近くで採れる原木椎茸もことのほか風味があって美味い。ごまだれは母親の特製だ。
父親は地酒を飲んで、早々に床に就いた。おそらく、布団の中で泣いているのだろう。兄妹のように競って牛肉を食べている圭介と陽奈を見ながら、母親は言った。
「まるで、すみれも戻ってきたみたいなのう。玲奈さん、ほんまにありがとう。圭介をうちらぁに取り戻させてくれた上に、陽奈ちゃんまで連れてきてもろうて。さあ、あんたも遠慮せんこうに(遠慮しないで)、もっとお肉を食べんさい。」
「私のほうこそありがとうございます。両親もおらず、帰る家もなかった私に故郷ができました。」
夕食を終えて、風呂に入り、圭介は彼の部屋に、玲奈と陽奈はすみれの部屋で休んだ(太郎は、玄関の下駄箱の前に布団を敷いてもらって丸くなっている)。それぞれの人々の心の裂け目を繕うように、夜露に濡れたニオイスミレの甘い香りが家中を包んでいた。