20/09/29 日記 母の産後うつの記憶

 あの人がどうだったかはわからないけれど、自分が抑うつに襲われ、仕事を休まざるをえなくなったとき、母は産後うつになった経験を話してくれた。この話をnoteに書いたかどうか。

 長男である自分を産んだばかりの母は、そりゃあもう、育児の理想に燃えていた。燃えに燃えていた。子供服だって、ベッドだって、その他もろもろ、しっかり準備していたらしい。習い事の計画だとか、幼稚園はあそこに入れたいだとか、いろいろなことを夢見ていた。教育ママ……というのとも、ちょっと違う。「良い暮らし」をさせたかったのだと思う。

 母の考えていた計画の中に、「母乳だけで育てる」という考えがあった。母乳信仰というよりは、「よい暮らし」の一環として、だったのではないか。粉ミルクが悪いというより、よいものを積極的に与えたかった、という発想。

 ところが、これが頓挫する。ある日、母が乳腺炎にかかってしまい、母乳を与えられなくなった。実際、これは珍しくない話だろう。そこで粉ミルクを与えることになる。ただ、母には、ひどく受け入れがたかった。理想を抱いた彼女の育児における、最初の挫折。なんであっても、初めての挫折というものは、ひどく落ち込むものだろう。

 哺乳瓶からおいしそうに粉ミルクを飲む息子(ぼくですね)の姿を見て、母は、「失敗した」と感じたらしい。敗北感のような感情さえ抱いたという。「今にして思うと、ほんとうに、それだけのことでしかないのに」と振り返っていたが。いろいろな計画の頓挫、その原因が自分にあるという責任感。もちろん、産後のさまざまなストレスもあったに違いない。積もり積もったものが、哺乳瓶を咥えた息子の笑顔で噴き上がったのだ。

 その当時、母は「産後うつ」という概念をはっきりと実感していたわけではない。ただ、「深海の底」にいるような気分になったという。自分の子供に対しての愛情が薄れたわけではないけれど、自責の念のほうが強かった。何をしても感情が動かない。未来のことなど考えられない。数ヵ月前は、息子の未来の輝きを夢想していたというのに!

 夫、すなわち父は、「自分になにか不満があるのだろう」という態度で、妻の母親としての喪失感を、なかなか理解してくれるようには見えなかった。母は父を恨んでいるわけではないし、「初めての子供だし、あの人も妻がそんな気分になっていることを察するのは難しかったはず」と言う。ただ、配偶者が自分の気持ちをわかってくれなかったことが、ますます母を追い詰めていった。

 当時を述懐した母は、「あなたと接することで生まれた落胆だったけれど、あなたがいるからこそ死んだり逃げだしたりはしなかった」という、かなりアンビバレントな感情を抱いていたらしい。

 それでは、母がどうして折れなかったかというと、義父、夫の父(ぼくの祖父ですね)が、がんで倒れてしまったからだ。運悪く、すでに転移は進んでおり、どうしようもなかった。

 両親は幼いぼくを(文字通り)抱えて、入院やら何やらに駆け回ったものの、ほどなくして祖父は亡くなる。バタバタと葬儀に追われたり、さまざまな手続きに奔走したりして、言ってはなんだけれど、「自分の理想のために落ち込んでいる場合」ではなかったらしい。

 産後うつのときに、夫の家族が亡くなる。つらい時期であったことは間違いないが、母にしてみれば、「感情が失われているときに、お父様が亡くなられたから、逆に、耐えられたかもしれない。自分が元気なときに亡くなったら、もっと悲しくなっていただろうから」ということだ。

 母はたしかに苦しんでいた。しかし、義父がなくなり、看取り、機械的に(田舎の葬儀というのはやることが多いものだ)次から次へと手を動かしているうちに、世の中は思うようにいかないと少しずつ考えるようになり、自分を追い詰める感情も薄れ、育児の手の抜き方も覚えていったそうな。そして、次男(くどいですが、ぼくの弟ですね)が生まれる頃には、だいぶ余裕しゃくしゃくになったという。

 あの報道以降、産後うつの話を、SNSなどでちらほら見るようになった。

 自分は、抑うつで苦しんだことはあれど、産後うつになったことはない(体験しようがない)。だから、どう言ってよいのかわからない。母だって、「(義理の)家族が亡くなる」という経験に翻弄されているうちに、産後うつの時期を乗りきったという、なかなかありえない経験なのだから、参考にならないだろうし。

 「生きていればよいことがある」「生きていてくれさえすればよい」などといった言葉は、憂鬱なときに鋭利な刃物のようになることぐらいはわかっている。訳知り顔の言葉など出てこず、小さく祈り、自分の身の回りの人であるならば、ささやかな力になる機会があれば、と考えるぐらいしかない。


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